沖縄・島尻方西海道を歩く

2013年01月22日(火) ~2013年01月23日(水)
総歩数:44449歩 総距離:32.7km

2013年01月22日(火)

首里城歓会門~小禄~豊見城番所~兼城番所 

                                     曇り後雨

 沖縄では12世紀ごろから稲作・畑作を中心とした農耕社会に移行し、文明の度合いが色濃くなってきた。このころから日本本土や中国大陸との交流が盛んで、中国だけでなく東南アジアの陶磁器も輸入されており、アジア貿易の中継点としての重要性を増してきた。これらで力をつけた有力者は地元の農民を束ねて豪族(按司(アジ))となり、石垣で囲まれた城(グスク)を築き、周辺の集落を傘下に入れ小国家へと発展した。14世紀に入ると沖縄は本島を大きく三つに分け、北部を北山、中部を中山、南部を南山という三つの王統が並立していたといい、この時代を三山時代という。15世紀初頭、南山の佐敷按司であった尚巴志(ショウハシ)によって本島が統一されて琉球王国が誕生、尚巴志は首里城を居城とし、首里に王府を置いた。三王国それぞれの領地は、1896年の郡制施行により、国頭郡、中頭郡、島尻郡の三郡になり、郡の範囲は現在ではかなり変わったが、地域区分は国頭(クニガミ)、中頭(ナカガミ)、島尻(シマジリ)として残っている。夫々に現在の市町村にあたる間切(マギリ)があり、各間切には 番所 と呼ばれる役所が置かれて、王府からの公文書が届けられた。そして番所から次の番所へと公文書が届けられ、沖縄本島中に伝達されるしくみになっていた。この首里城を起点に各番所へ向かった街道が「宿道」 ( シュクミチ)と呼ばれ、政治的にも、また庶民の陸上交通においても主要な道で、これは現在の国道にあたる。宿道は、道幅が 8尺 (約2.4メートル)と定められており、道の両側に6尺(約1.8メートル)の幅がとられ、リュウキュウマツが植えられ、松並木になっていたという。道路はこの宿道以外に宿道の通っていない村々を繋ぐ道や西と東海岸をつなぐ、現在の県道にあたる「脇道」、更に田畑に通じる農道にあたる「原道」がある。

これらのことは内閣府沖縄総合事務局北部国道事務所のHP「やんばる国道物語」に詳しく出ているので、参照されたい。
http://www.dc.ogb.go.jp/hokkoku/yan_koku/00monogatari/index.html

 また、今回は上記以外に「沖縄県歴史の道調査報告書」と、むぎ社発行の「沖縄 歴史の道を行く」を主たる参考資料として使用。更にこれらを参考にして自分なりに作成した地図を「沖縄 歴史の道を行く」の著者である座間味栄議氏に添削していただいた。座間味氏には厄介なお願いを快く引き受けていただき、感謝である。

 宿道の出発地点である首里城の創建は14世紀ごろといわれているが、詳しいことはわかっていないという。三山時代には中山の城として用いられていたことが確認されており、13世紀から14世紀のグスク造営期にほかの沖縄の多くの城同様に成立したものと考えられている。その後1406年に尚巴志が琉球王国支配のための居城として以来、1879年に最後の国王尚泰が明治政府に明け渡すまで琉球王国の政治、外交、文化の中心として栄華を誇った。しかし1945年の沖縄戦で灰燼に帰し、更に終戦後、城跡に琉球大学が置かれたことで、多くの遺構が撤去あるいは埋められたという。
1979年に琉球大学が移転したため、復元作業が本格化。1992年に首里城公園が再建され、2000年には首里城跡として他のグスクなどともに「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の名称で世界遺産に登録されている。
首里城
 島尻方西海道(シマジリホウサイカイドウ)は首里城の正門にあたる「歓会門」が出発点で、12時11分に出発する。平日なのに観光客が多い。
歓会門
 右手に「園比屋武御獄石門」(ソノヒャンウタキイシモン)がある。これは当初1519年第二尚氏王統第3代王の尚真(ショウシン)の時に造られたもので、背後にある園比屋武御獄の礼拝所だ。この御嶽(ウタキ)は国王が各地を巡航する旅に出る際、必ず礼拝をした場所であり、また琉球神道における最高神女(ノロ)である聞得大君(キコエオオギミ)が就任する時にまず最初に拝礼した、いわば国家の聖地だったという。昭和8年に旧国宝に指定されたが、沖縄戦で大破したため、指定を解除された。その後1957年に復元され、更にその後旧石門の残欠を再利用して修復作業が行われたため、1972年に改めて国の重要文化財に指定され、2000年に首里城跡などとともに世界遺産に登録されている。
園比屋武御獄石門
 すぐ先に「守礼門」があるが、現在修理中で覆いがかかっていた。ここを通って進むと、左手に「玉陵」(タマウドゥン)がある。ここは1501年尚真王が父尚円王の遺骨を改葬するために築かれ、第二尚氏王統の陵墓になったという。陵は中室、東室、西室の3つの建築物に分かれており、中室は葬儀の後、当時の琉球の葬制に基づき遺骸が骨になるまで放置した部屋で、数年後に骨を取り出して洗骨した。洗骨した後に遺骨を骨壺に収め、王及びその妃の骨は東室に納められ、他の王族は西室に納められたという。ここも沖縄戦で大きな被害を受けたが、1974年から3年間をかけて修復されたという。
玉陵
 すぐ先左手に「御客屋」(ウチャクヤ)跡がある。ここは薩摩藩の在番奉行などが首里城に登城する際の控所だったところで、創建年代は不詳。在番奉行一行等はここで城からの案内を待って登城したという。現在は空き地になっていて、遺構は何も残っていない。
 右手に「中山門」(チュウザンモン)跡がある。ここは首里城の第一の坊門で、守礼門と中山門の間の道を「綾門大道」(アイジョーウフミチ)といい、この綾門大道の西端に建っていた。別名「下の綾門」(シムヌアイジョー)、「下の鳥居」(シムントゥイ)といわれていた。1428年の創建とされ、当初は建国門と呼ばれており、1959年に復元された守礼門と同型同大だったが、1908年に払い下げられ、撤去されたという。現在では「中山門跡」と書かれた大きな看板があるのみだ。
中山門跡
 左手に「美連嶽」(メズラダケ)跡の説明板が立っている。これは中山門跡地の南側にある御嶽で俗に「ミンチラウタキ」と呼ばれ、王府時代は三大女神官の1人である真壁大あむしられ管轄だったと書かれているが、遺構は何も残っていない。
 坂を下っていくが、近代的なコンクリートの家にも「シーサー」が置かれている。これは悪霊を追い払う魔除けの意味がある。元々は単体で設置されていたものだが、本土の狛犬の様式の影響を受けて、阿吽象一対で置かれることが多くなったという。口の開いたシーサーが雌で、右側に置き、福を招き入れ、口を閉じたシーサーが雄で、左側に置き、あらゆる災難を家に入れないとされている。
シーサー
 右手に「首里観音堂」がある。ここは琉球王朝時代、佐敷王子(のち尚豊王)が人質として薩摩に連れて行かれた際、父・尚久王は息子が無事帰国できたら首里の地に「観音堂」を建てることを誓願。その後、無事帰郷したので、1618年、首里の萬歳嶺という丘に観音堂を建てたという。
首里観音堂
 境内には「万歳嶺記」(バンザイレイ)碑がある。国王だった尚真がこの地に遊覧した際、王の治世、国の繁栄を祝う万歳の声が沸き起こったことから1497年に丘の頂上に「万歳嶺記」の碑を建立し、この丘を「万歳嶺」と称したという。沖縄戦で観音堂も万歳嶺記も破壊されてしまったが、観音堂を再建、万歳嶺記の碑も残った一部を台座に組み込んで復元されている。
万歳嶺記
 左手に都ホテルがあり、ここの第2、第3駐車場の奥に「松川樋川」(マツカワヒージャー)がある。 かつてこの地区には美人が多く、首里城に上がる役人の目に留まることが良くあったことから、この湧水は「美人の水」とも言われていた。戦争で埋もれていたものをホテル建設時に発見し、復元したという。
松川樋川
 ここから左へ下ったところ左手に「殿之毛」と書かれた大きな石碑が立っており、その奥に松川の守護神を祀る「松川殿之毛」の拝所がある。
松川殿之毛
 ここから先は旧道が残っていないということだが、方向としては大道小学校の方へ旧道は伸びていたということだったので、その方向へ向かって進む。途中、陸軍墓地跡に慰霊塔と無縁佛供養塔があると資料に乗っていたので探したが、わからなかった。
 モノレールの安里駅に突き当たるので、これを右折、すぐ先で29号線に合流して左折、モノレールの高架下を通って、すぐ先で29号線から分岐して右へ進む。このあたりで雨がひどくなってきた。この時期の沖縄は天候が不順で、悪天候の日が多いのだが、今回の旅は幸い今日以外は雨にあうことはなかった。
 突当りに「安里八幡宮」(アサトハチマングウ)がある。ここは第6代琉球国王尚徳王が喜界島を討伐する際に、もし戦いに勝ったならば、「帰国の後に八幡大菩薩を崇めるべし」と誓い、無事勝利をしたので、この地に八幡宮を建立したという。
安里八幡宮
 その先で最初に左折する細道を通り、すぐ先でもう一度左折して進むと、左手に「金満宮」がある。元は金満御嶽(カニマンウタキ)、上ヌ御嶽(イーヌウタキ)と呼ばれていたが、現在は社号標や鳥居、拝殿、本殿という本土並みの神社形式が整った神社で、商売繁盛の神様ということだ。
金満宮
 ここから右折して進むが、このあたり旧道は失われているようで、左折、右折を繰り返して進む。29号線に合流して進むと、右手に「崇元寺」跡がある。ここは歴代国王を祀る廟であり、創建は不明だが、1527年に廟前の路上の東西両端に下馬碑が建立されているので、創建はこのころではないかと考えられている。廟域を囲む石垣の南正面の中央部に三つの石造りアーチ門、その左右にそれぞれ10メートルほどの小アーチ門が設けられている。中央のアーチ門は国王および名代、また中国からの使者である冊封使(サクホウシ、サッポウシ)の専用門であったという。ここもかっては国宝に指定されていたが、沖縄戦で正廟をはじめ木造建築物は全て焼失してしまったということだ。
崇元寺
 崇元寺の信号で左折、安里橋を渡って進み沖映大通りに合流、右折して進んで行くと、モノレールの美栄橋駅の近く、左手に「新修美栄橋碑記」の石碑が建っている。昔那覇は「浮島」と呼ばれる島であったため、首里との交通は不便だった。そこで尚金福王は1452年、冊封使を迎えるにあたり、崇元寺前から戦前の久茂地町と若狭町の境にあったというイベガマに至る約1kmの「長虹堤」(チョウコウテイ)という海中道路を築かせた。長虹堤には三つの橋が架けられていたが、美栄橋はそのうちの一つだった。その後1735年から36年にかけて橋を架けかえたが、その経緯を記してあるのが新修美栄橋碑だ。美栄橋も沖縄戦で破壊されてしまったが、碑だけは原型をとどめて残っている。
新修美栄橋碑記
 その先も旧道は消滅してしまっているので、とりあえずより旧道に近いと思われる道を進む。
 その先で58号線を横断、右手に大典寺があるところから左折して進み、突き当りの一つ手前の道を右折、久米(南)の信号を左折して進むと那覇港に突き当たる。昔はここから対岸の垣花まで渡し船で渡っていたという。現在は明治橋が架かっているので、それを渡って進み、対岸にあたる場所まで331号線を進む。垣花の信号から左折、突き当りを左折すると、右手に山下西児童公園があり、その中に「たちちがー」がある。ここはかっての集落の共同井戸で、拝所になっている。
たちちがー
 この上、階段を上ったところに「住吉神社」がある。ここは「琉球国由来記」には、儀間村の神社として登場するが、沖縄線で破壊され、元の位置も米軍基地に取られたため、現在の位置に移設された。サツマイモの普及に努めた儀間真常を祀っているという。
住吉神社
 その先、垣花小学校のところで旧道は失われているので、学校をぐるっと回り込むようにして進むが、このあたりも細道が入り組んでいてわかりにくい。
モノレールの下を横断して進むと、左手に「ミーガーモー」がある。ここは昔、小録村のアシビナー(遊び場)だったところという。
ミーガーモー
 この先で道を間違ってしまったので、一旦7号線に合流した後、間違ったところまで戻って道を確認する。
その先、小録の信号で7号線から分岐して左へ進み、さらにその先で右へ分岐するが、この道はその先で行き止まりになっていたので引き返し、小録郵便局のところから右折して行き止まりになっていた道の延長線上に合流して進む。その先で右折、更にその先で左折して進むが、その突当りに小さな階段がかかっており、これを上って進む。このあたりも道がわかりにくい。
小さな階段
 その先、道なりに進んで行くと、右手に「海軍壕公園」がある。ここは海軍司令部があった壕で、当時の姿が残されている。昭和19年に日本海軍設営隊によって掘られたもので、この場所が選ばれたのは海軍の小録飛行場に近い高台で、周辺を見渡すことのできる位置にあり、戦闘に入った場合、肉眼でも敵、味方全体が掌握しやすく、通信に障害がないなどの理由によったという。当時は400mほどの長さがあり、4000人の兵士が収容されていたという。壕の入り口から105段、30mほどの階段を下ると司令官室を中心に300mが復元されていた。大田実海軍少将はこの場で自決したという。この場所にたたずむと粛然とした気持ちになる。
海軍壕入り口海軍壕公園

 旧道に戻って進むと、右手に豊見城中学校がある。1918年にこの場所へ豊見城番所が移転したという。
 ここから右折、すぐ先を左折して進むが、この辺りまで来ると、次第に民家が少なくなってくる。
やがて左手に兼城小学校があるが、ここが兼城間切番所跡だ。
その先座波のバス停があるので、18時ちょうどに歩き終える。
今日からおもろまちにある東横インに二泊する。

 本日の歩行時間   5時間49分。
 本日の歩数&距離 29285歩、21.7km。
 本日の純距離   18.4km。(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離)

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