沖縄・中頭・国頭方西海道を歩く

2013年01月23日(水) ~2013年01月26日(土)
総歩数:167354歩 総距離:110.7km

2013年01月23日(水)

久慶門~浦添~牧港(宇地泊)

                                         曇り

 14時20分に首里城「久慶門」を出発する。この宿道は久慶門が起点になっている。
久慶門
 園比屋武御嶽石門の手前の階段を下って「龍淵橋」(リュウエンバシ)を渡る。この橋は円鑑池(エインカンチ)と龍潭(リュウタン)との間の水路上に架かる、長さ9m、幅1.5mのアーチ橋で、建造年は1502年という。ただ、この橋も沖縄戦で破壊したため、復元されたものという。
龍淵橋
 円鑑池の中に「弁財天堂」がある。これは航海安全を司る水の神・弁財天を祀っており、龍淵橋と同じ1502年、朝鮮より渡来した方冊蔵経(仏教経典の大百科のようなもの)を収納するために建立されたが、1609年薩摩軍による戦火で焼失。やがて1629年に円覚寺の弁財天を移して弁財天堂とした。堂に渡る小橋は「天女橋」と呼ばれ、その素材には琉球石灰岩が使用されている。その後沖縄戦で破壊されたが1968年に復元され、現在の姿となったという。
弁財天堂
 旧道はこの先沖縄県立芸大によって失われている。
 円鑑池の先、右手に「円覚寺」跡がある。ここは琉球における臨済宗の総本山で、第二尚氏王統の菩提寺だったところだ。尚真王が父王尚円を祀るため1492年から3年がかりで建立したと伝えられ、昭和8年には円覚寺伽藍として国宝に指定されていた。しかしここも沖縄戦で破壊されたので、昭和43年に現在の総門と左右の掖門が復元されている。
円覚寺
 左手芸大の敷地内に「高所」(タカジョ)跡の説明板がある。ここは琉球国内の新開田畑の石高や貢船の貨物などに関する事務を扱う首里王府の役所跡で、1669年に創設されたという。1879年にここは廃止され、跡地には沖縄県師範学校が新築移転した。ここも沖縄戦で破壊され、その後沖縄県立芸術大学が開学したので遺構は何も残っていない。
 すぐ先左手に「貝摺奉行所」(カイズリブギョウショ)跡の説明板がある。ここは王家御用、献上・贈答用などの漆器制作にかかる事務及び職人を指導・監督する首里王府の役所があった跡で、1745年にこの地に移設されたという。
 その先、当蔵の信号から左折、すぐ先で右折するが、右折する角に松崎馬場跡の説明板がある。ここは首里城から浦添方面に至る街道の一部及び広場の名称で、龍潭に突き出した一帯は松が植えられ、そこから松崎と名付けられたという。
 その先右手に「安谷川嶽」(アダニガーダキ)がある。 ここは当蔵村の御嶽で、「琉球国由来記」(1713年)によると、首里大阿母志良礼(シュリノオオアムシラレ)という王府時代の高級女神官の一人が司る御嶽の一つとなっているが、神名は記されていない。宝珠をのせたアーチ門が拝殿の役目をし、左右に連なる石垣によって境内を内と外に分けている。内側には神聖な岩と木を中心にした石囲いがあり、その背後にまわると洞穴がある。アーチ門の前には石の香炉があり、外側の庭は石畳になっており、左右に樋文がある。右側の碑文には1814年に村の有志の勧進により大修理を加えたことが記されており、それを機に当時のお金で青銅二千びき(10石相当)の基金をつくり、以後その利息を維持管理に当てることにしたと記されており、左側の碑文は、戦後修理した時に建てられたもので、御嶽の名前が記されている。
安谷川嶽
 左手に「仲田殿内」(ナカダドゥンチ)跡がある。ここは琉球王国の士族仲田家の屋敷跡で屋敷を囲む大きな石垣と庭園が往時の雰囲気を残している。「玉那覇味噌醤油」と看板が下がっているが、これは琉球王国末期(安政年間)に創業。琉球王家ご用達にもなった首里名産の味噌、醤油工場で、現在でも手作り無添加で製造をしている。
仲田殿内
 この道は坂道になっており、安谷川という湧泉にちなんで「安谷川坂」(アダニガービラ)と呼ばれている。
 坂を下ったところで、付近では儀保川(ジープガーラ)と呼ばれている真嘉比川に架かる小橋を渡って進む。

 「石敢當」が立っている。これは中国の福建省が発祥の地で、魔除けの意味があり、鹿児島を歩いた時にも見かけたが、沖縄では更に数多く見ることができる。石敢當には様々な形があるが、石敢當の字が刻まれた石碑を建てたり、石版を壁面に貼り付けたものが多い.。
石敢當1石敢當2

 儀保の信号で82号線を横断して進むと、右手に階段がある。これを上って進むのだが、この坂が「儀保くびり」、またの名を「儀保坂」(ジープビラ)と呼ばれていたところだ。ここを下ったところに現在は平良橋と呼ばれる大平橋がある。大平橋は1597年に創建された、アーチ型石橋としては最初の橋だといわれており、1609年に沖縄へ侵攻した薩摩軍が攻め込んだと伝えられている橋だ。現在の橋は1966年に竣工したコンクリートの橋となっている。
 平良の信号で241号線を横断、階段を上り、下ったところで道は二股に分かれているので、ここを左へ進む。その先、右手に「災害時 避難所 大名小学校」と書かれた看板が立っているところのすぐ先から右へ分岐する細く、急な坂道があるのでこれを下っていく。この道が「フェーヌフィラ」と呼ばれる旧道だ。
災害時 避難所 
 その先、沢岻川上流の用水路に架かる経塚橋を渡ると、「中頭方西海道」の標識が立っている。
中頭方西海道」の標識
 旧道はここを直進するのだが、旧道から外れて左へ進み、「浦添御殿の墓」(ウラソエドゥン)へ行く。ここは第二尚氏第十四代国王尚穆(ショウボク)王の次男、浦添王子朝央(チョウオウ)を元祖とする浦添家の墓だ。造営は18世紀末とされており、浦添市内でも最大級の亀甲墓という。かっては墓の近くに墓を管理する御墓番の屋敷があり、昭和20年の航空写真でも確認できるという。
浦添御殿
 街道に戻って急な坂道を今度は上っていく。この坂道のことを「ニシヌフィラ」といい、「フェーヌフィラ」から「ニシヌフィラ」までほぼ一直線に結ばれており、かっては石畳の道だったということだ。
 その先で153号線に合流する。しばらく進むと、左手に「経塚」の碑がある。昔この辺りは松が生い茂る人里離れたさみしい場所で、ここに巣くう妖怪が道行く人々をたぶらかしていた。そのため16世紀の初め、高野山で修行をした日秀上人がお経を書いた小石を埋め、その上に「金剛嶺」と刻んだ石碑を立て、妖怪を鎮めたと伝えられている。その後地震の時に「チョウチカチカ」あるいは「チョウチカ、チョウチカ」と唱えると収まると信じられるようになったという。
経塚
 ここを左折して進むと、その先で階段を下るが、ここにも「中頭方西海道」の標識が立っている。階段を下ると石畳の道だ。このあたりは街道一の難所だったというが、現在はきれいに整備されている。
 その先に「安波茶橋」(アハチャバシ)がある。これは1597年に尚寧王の命令で浦添グスクから首里平良までの道を整備したときに造られたと考えられており、橋は石造りのアーチ橋で小湾川に架けられた南橋と支流のアブチ川に架けられた北橋から成っていた。橋はともに沖縄戦で破壊されたが、北橋が平成10年に復元されている。
安波茶橋1安波茶橋2

 橋を渡った左手に赤い皿(椀)で水を汲んで国王に差し上げたという「赤皿ガー」がある。
赤皿ガー
 28号線に合流した右手に浦添中学校があるが、ここが浦添番所の跡だ。
 153号線を進んでいくが、旧道から右へ分岐して「浦添城址」へ向かう。ここに浦添ようどれがあるが、これは浦添城跡北側崖下中腹に設けられた掘込墓で、ようどれは夕凪の意。別名極楽陵という。これは当初13世紀に創建され、その後、尚巴志王代、尚寧王代の二回に渡って大改修がなされたが、ここも沖縄戦で大きな被害を受け、近年修復されたという。
浦添城址
 153号線に戻って進むと、道が二股に別れるところがあり、そこに「御待毛」(ウマチモウ)の説明板が立っている。それによると琉球王国時代には仲間村を通る二つの大きな公道があり、一つは首里から牧港、読谷へ続く「中頭方西海道」であり、もう一つはここから右へ分岐して宜野湾の普天間宮へと至る道だったという。このあたりがその二つの分岐点にあたる場所で、首里と地方を往来する国王や役人を仲間村の人々が出迎える場所であったことから、御待毛と呼ばれていたという。「毛」(モウ)は沖縄の方言で「広場」「原っぱ」という意味だという。
 その先で153号線から右へ分岐して細道を進み、一旦153号線に合流したところから右折、すぐ先の細道を左折、牧港小学校のすぐ横の幅1mほどの細道を進む。このあたりも旧道は失われている。
1mほどの細道
 一旦153号線に合流した後、右へ分岐して進み、更にその先で道は二股に別れているので、これを右へ進む。58号線に合流したところが宇地泊で、17時20分、ちょうどバスがきたのでこれに乗っておもろまちまで引き返す。

 本日の歩行時間   3時間。
 本日の歩数&距離  15261歩、10.7km。
 本日の純距離    7.4km。(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離)

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん