沖縄・中頭・国頭方西海道を歩く

2013年01月23日(水) ~2013年01月26日(土)
総歩数:167354歩 総距離:110.7km

2013年01月25日(金)

仲泊~恩納~許田~名護

                                    曇り後晴れ

 7時11分に出発するが、沖縄の朝は遅く、7時になってもまだなんとなく薄暗い感じだ。
 58号線をひたすら歩いていくが、国道なので見るものもなく、変化に乏しい。南恩納に来たところで、左へ分岐して進み、恩納幼稚園、小学校、中学校のあるところから左へ分岐する。沖縄ではこれまでもあったように幼稚園、小学校、中学校が同じ敷地内に建っているケースが多い。
次の角で右折、小川沿いに進んでいく。その先で右折するのだが、このあたり細道が複雑に入り組んでおり、目印もないのでわかりにくい。左手に「恩納村郵便発祥の地」碑がある。明治7年3月に琉球藩に郵便制度が導入され、同年5月に恩納郵便取扱所が間切番所近くのこの地に設置された。当時は郵便を利用する住民はまだ少なく、専ら公文書に関する郵便物がほとんどだったという。郵便物の運送は宿道を使って行われ、郵便物が少ないこともあって、竿先に郵便物包みを括り、背に担いで運送していた。明治8年に恩納郵便局となって現在の郵便局へ継承されていると説明されている。
恩納村郵便発祥の地
 その先で恩納公民館を訪問すると、ここには親切な資料が用意されていて助かった。このあたり、道がわかりにくいので、まず公民館を訪れることから始めたほうがいいと思う。
公民館の敷地の中に「神アサギ」がある。これは村の神事を司る重要な建物で、屋根は茅葺であるため、数年おきに葺き替えられ、葺き替えの際は区民総出で行われるという。
神アサギ
 同じく敷地内に「根神火神」がある。ここは拝所で高い位の神人が拝む場所という。地域住民の健康祈願、地域の平和、安泰を願ったという。
根神火神
 近くに「恩納松下の碑」がある。ここは村人への伝達用立て札が立てられていたところで、尚敬王時代(1713年~1751年)の冊封副使徐葆光一行が恩納番所で一晩宿をとることになった。当時地方の農村では若い男女の「毛遊び」(モーアシビー)や「しぬぐ」など盛んにおこなわれており、そのような風紀の乱れを冊封使一行に見せたくないという役人の発想から風俗取り締まりの立札が立った。それを見た恩納の歌人だった恩納ナビが「恩納松下に禁止の牌の立ちゅし、恋しのぶまでの禁止やないさあ」と歌に詠んだそうで、現在その歌碑が建てられている。ここには大きな松の木があったそうだが、松くい虫の被害によって1955年に枯れてしまったという。
恩納松下の碑
 その横に「恩納番所跡」があるが、現在は遺構は何も残っておらず、空き地になっている。恩納間切は1673年に読谷村山間切から八村、金武間切から四村分割して創立され、恩納に番所を置いたという。
恩納番所跡
 このほかに恩納のウブガー(産井)で拝所である、「カンジャガー」などもあるが、ここはうっかり見落としてしまった。
 58号線に合流して進むが、58号線は海沿いを通っており、今日は風が強くて、何度も帽子が飛ばされそうになる。昨年の3月の終わりに北陸から東北にかけて歩いた時も風が強くて寒く、閉口したが、沖縄の場合、気温が高いので随分楽だ。
左手に万座毛の海が広がっている。海の色がきれいだ。このあたりで雲が切れて日が差し始めた。こうなると暑い!
万座毛の海
 歩いていると後ろから来られた方が話しかけてきた。昨日喜名番所のところでお見かけした方だ。ここからしばらく一緒に歩いたが、この方は岩山さんといわれる愛知県在住の方で78歳になるという。2008年に一度歩いて日本一周をされたが、今回もう一度島めぐりを含めて日本を歩いて一周しておられるそうで、昨年の3月に出発して、一度も家に帰ることなく、歩き続けているそうだ。海沿いの国道を歩いているそうで、一日に30~40キロ歩き、休憩は月に一日ほどだという。世の中すごい方がいるものだと感心してしまった。
 右手に名嘉真公民館があったので、立ち寄ってこの先にある希望が丘のあたりの旧道をお聞きする。この辺りは資料を読んでもよくわからなかったところなのだ。幸い公民館の方が詳しい方で親切に教えていただくことができて、ありがたかった。
 その先で「希望ヶ丘入り口」という信号があり、ここから右折して希望ヶ丘の団地の中へ入っていったが、国道を歩かれる岩山さんとはここでお別れする。もっとも今日の宿は同じルートインだったので、その後再会することになる。
 58号線から分岐して進んだが、団地の中は迷路のようになっていて道がさっぱりわからない。困ったなと思っているとここに住んでおられる方がおられたので道をお聞きすると、私が入ったところが出口で、入り口はその前にあるということだったので、逆に戻ってみた。そうすると58号線の右手横に旧国道が短い距離だが残っているところがあり、ここに「にらい恩納」という看板がかかっている。そこが旧道の入り口だったことがわかった。この辺りはかって山だったそうだ。
にらい恩納
 すぐ先に店があったのでここで昼食にする。
 58号線を進んでいき、右手にナゴパラダイスの入り口があり、ここから右折してパラダイスの端を進んでいく。ここは現在は営業を行っていないようだ。
 その先で58号線に合流して進む。許田の集落の中に入ると、「許田の手水」(ティミジ)がある。これは集落背後の山あいの谷間から流れてくる水を桶を取り付けて水を確保するといった樋川(ヒージャー)である。ここに説明板が立っており、それによると「昔許田の村に美しい娘がいた。ある日、娘が村の後ろにある「クシヌカー」という泉で洗濯をしているとき、首里の殿様が馬に乗ってそこを通りかかり、娘を見て「水をください」と声をかけた。娘はニーブ(ひしゃく)で水を汲むと「あなたの手で水を汲んでください」といったので、娘はやむなく手で汲んであげたという。娘の美しさに惚れた殿様は娘を首里に連れ去り、村人を嘆かせたという。それからその泉を「手水」と呼ぶようになったという」と記されている。
許田の手水
 その横の階段の上に「後の御嶽」がある。
後の御嶽
 許田の集落を抜けて進むが、許田を起点とする名護の七曲りは、現在は58号線になっていて、昔の面影はない。
名護の七曲りは
 数久田歩道橋の手前から58号線から右へ分岐して集落の中を進み、集落を抜けたところで再び58号線に合流する。
 名護に入ってとりあえず今日の宿であるルートインに荷物を置き、一息入れてから再び先を歩く。
 東江4丁目の信号で58号線から分岐して右へ進んでいき、東江1丁目の信号から右折すると、その先右手に「名護博物館」がある。ここが「名護番所跡」でここにフクギ群がある。このフクギ群は推定樹齢約300年で当時の地頭代屋部菊陰が植栽したといわれている。県内において、このような巨大なフクギ群は極めてまれなことから沖縄県指定天然記念物になっている。
名護博物館
 ここから左折して進むと「ひんぷんガジュマル」がある。「ひんぷん」とは屋敷の正門と母屋との間に設けられた屏風状の塀のことで、外からの目隠しや悪霊を防ぐものといわれている。1750年、琉球王国の宰相だった具志頭親方蔡温(グシチャンオヤカタサイオン)は当時の運河開通論と王府の名護移遷論議を鎮圧するため、三府龍脈碑(サンプリュウミャクヒ)を建てた。この石碑がひんぷんのように見えることから「ヒンプンシー」と名付けられ、その隣に生育するガジュマルもいつしか「ひんぷんガジュマル」と呼ばれるようになったという。これは樹齢280年~300年といわれ、国指定天然記念物になっている。
ひんぷんガジュマル三府龍脈碑

 その先名護十字路から右折して進み、17時17分大北二区のバス停まで歩いて終わる。

 本日の歩行時間   10時間6分。
 本日の歩数&距離  54680歩、36.2km。
 本日の純距離   33.9km。(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離)

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