暗越奈良街道を歩く

2015年01月12日(月) ~2015年01月13日(火)
総歩数:50075歩 総距離:34.8km

2015年01月12日(月)

玉造~枚岡

                                          晴れ


 大阪から奈良へ向かう奈良街道はいくつかのルートがあるが、今回歩いた道は暗峠(455m)を通って奈良へ向かう街道なので、暗越奈良街道と呼ばれており、奈良時代に難波と平城京を最短距離で結ぶ道として設置された。この街道が重要視され始めたのは豊臣秀吉が天正11年(1583)に大阪城を築城、天正13年(1585)大和郡山に豊臣秀長が入部してから以降で、江戸時代になると大和郡山藩の参勤交代道として利用されたという。
明治時代になって道路元標の置かれた高麗橋東詰に起点が変更されたが、それまでは玉造が起点だったため、今回は玉造を出発点とした。
 参考資料は大阪府教育委員会の「歴史の道調査報告書 奈良街道」とHPより大阪府の「歴史街道ウオーキングマップ」、その他この街道を歩かれた方々の文章を参考にさせていただいた。
 この道は伊勢参りの道でもあり、伊勢参りの際は「玉造稲荷神社」に参拝後、出発をしていたそうなので、まず「玉造稲荷神社」に立ち寄る。ここは社伝によれば垂仁天皇18年(紀元前12年)に創建されたという古い神社で、蘇我氏と物部氏の戦いの際、蘇我氏方の聖徳太子がこの地に布陣して戦勝を祈願し、戦勝後当地に観音堂を建てたという伝承がある。近世に於いてはこの地は大阪城の三の丸に位置しており、豊臣家の鎮守社として篤い崇敬を受けていた。戦国時代の戦火で荒廃したが、慶長8年(1603)豊臣秀頼によって社殿が再建され、元和元年(1615)の大阪夏の陣で社殿は再び焼失、元和5年(1619)に徳川幕府の大阪城代や氏子によって再建されたという。
 境内には「伊勢参宮本街道」と「伊勢迄歩講起点」と刻まれた碑が並んで立っている。
玉造稲荷神社1玉造稲荷神社2

 また「秀頼公胞衣塚大明神」があるが、これは文禄2年(1593)豊臣秀頼が誕生した際、この地に胞衣を埋めたことに由来するという。子供の夜泣きに霊験あらたかという。
胞衣塚大明神
 豊臣秀頼が慶長8年(1603)に奉納したという鳥居があるが、これは阪神淡路大震災で破損したため、上部部分のみが残されている。
鳥居
その他にも境内には寛政元年(1789)、文化9年(1812)、延享4年(1747)といった古い常夜燈が立っている。
 ここで「伊勢参宮本街道行程図」を購入する。500円だった。

 出発点は大坂環状線の玉造駅と308号線が交差するところで、ここに「二軒茶屋跡、石橋旧跡の石碑」があるはずなのだが、どうも見落としてしまったようだ。玉造稲荷神社で予想外に時間を取ったため、ちょっと焦っていたようだが、それにしても起点を見落とすなんて、我ながらまったくどうかしている。最近歩きをあまりやっていないので、勘が鈍っているのかな?
 この少し先で、308号線から右へ分岐するカラー舗装された道で、ここに「暗越奈良街道」と刻まれた碑が立っており、「高麗橋元標から3.6キロメートル」となっている。ここを11時32分に出発する。
暗越奈良街道
 ここは商店街のようだが、今日は祭日のためか店は閉まっており、人通りはほとんどない。
 玉津一の信号の先、左手に八阪神社の社柱が立っており、その横に「暗越奈良街道距高麗橋元標壱里」と刻まれた明治35年の道標が立っている。
高麗橋元標壱里
 玉津橋を渡った最初の角に「暗越奈良街道」と刻まれた、まだ新しい道標が立っている。ここを右折する。
新しい道標
 その先の四つ角左手に「南無妙法蓮華経」「若取若捨経年成縁或順或違終因斯脱」「是り左りへ三町 定善寺」と刻まれた石碑とその横に暗越奈良街道の案内板がある。
定善寺
 ここを右折し、その先で今里筋を横断したところに「暗越奈良街道」の新しい標識と「いまざと」「楢道」と刻まれた道標が立っている。
いまざと
 更にその先右手に「暗越奈良街道」「高麗橋元標から4.9キロメートル」と刻まれた道標が立っている。この辺りはこうした道標が随所に立っていて歩きやすい。
4.9キロメートル
 道なりに進んでいくが、このあたりの道は旧道の面影が残っていて、立ち並ぶ家にも昔を偲ばせる趣がある。
旧道の面影1旧道の面影2

 その先左手に少し入ったところに熊野大神宮があり、その横に「妙法寺」がある。ここの境内には寛政11年(1799)の「契沖」の供養塔がある。契沖は江戸中期の真言宗の僧侶であり、国学者でもあった。水戸光圀から委嘱を受け「万葉代匠記」の著作でも知られている。
契沖
 308号に合流したところ右手に「左 なら いせ 道」「右 きしのだう くハぜをん 志ぎさん 八尾 久宝寺 道」と刻まれた文化3年(1806)の笠燈籠型道標が立っている。12時12分にここを通る。
文化3年
 308号線に合流して進んでいると店があったので、ここで昼食にする。いつものことながら無事に食事をすることができると一安心だ。
 24号線が左へカーブをするところから分岐して直進すると、その先左手に「地蔵堂」があり、その前に「融通大念佛宗中興法明大?蹟 深江村法明寺」と刻まれた寛政9年(1797)の石柱が立っている。
地蔵堂」
 そのすぐ先、右手にまだ新しい「新北向地蔵尊」の祠がある。
新北向地蔵尊
 その先にアーケードがあり、ここを左折して24号線に合流する。布施柳通の信号から左斜めに分岐して進むが、その入り口左手に「歴史の道 暗峠越え 旧奈良街道」と刻まれた新しい石碑が立っている。
歴史の道 
 左手に地蔵堂があるが、これは地元では「清水地蔵」と呼ばれており、年不詳だが、地蔵菩薩真言の梵字が彫られた珍しい地蔵菩薩立像が祀られている。
清水地蔵
 小さな水路があり、これを渡った右手に「枚岡へ一里三十三丁」「放出停車場三十丁」「大阪高麗橋元標」と刻まれた道標が立っている。
停車場三十丁
 その先で15号線に合流、分岐、横断を繰り返した先、左手に「御厨行者堂」とその横に「大峰登山三十三度供養塔」という昭和9年の碑が立っている。他の方のHPを参照すると、この役者堂は元々、楠根川沿いの民家の庭にあったものを、この場所へ移したものという。また御厨では男子が15歳から18歳になると、その8月に白地の浴衣を着て珠数を持ち、先達に引率されて大峰登山をしたという。
大峰登山
 その先で2号線を横断するが、その右手角に「植田家」がある。ここは御厨の本陣だったところで、「松平甲斐守様御本陣」「片桐石見守様御本陣」と書かれた木札が残されているという。主屋部分が当時のまま残っているそうだが、現在もご家族が住まわれているので、公開はされていないということだ。東大阪市の民族文化財に指定されている。13時42分にここを通る。
植田家
 15号線に合流してしばらく進み、その先で15号線から右へ分岐した先、右手前方に八釼神社がある手前の四つ角右手に「すぐ大坂 右枚方 左八尾」「すぐ八尾 右大坂 左奈良生駒」「すぐ枚方 右奈良 左大坂」「右八尾 左枚方 すぐ奈良」と刻まれた道標が立っている。
すぐ大坂
 また四つ角の反対側左手には「すぐ石切瓢箪山奈良 左住道四条畷」と刻まれた明治45年の道標が立っている。
すぐ石切
 その先に文久2年(1862)に創建されたという「八釼神社」が右手にある。境内には文化9年(1813)の鳥居や弘化2年(1845)の狐の狛犬があり、入口には「右鳴川山 千光寺 役行者 道」「これより六十丁 なる川山 へちか道」と刻まれた道標、「○山 是ヨリ○十丁」「左 大坂」「長堀 石工名田」と刻まれた明治3年の道標、更にその横に「右 大坂」「おかげ 左りなら いせ」と刻まれた天保2年(1831)の道標が三つ並んで立っている。14時9分にここを通る。
八釼神社
 左手に「地蔵堂」があるが、資料によると、ここには「右ハならミち」と刻まれた享保11年(1726)の地蔵立像が安置されているということだ。
右ハならミち
 菱江の信号で15号線を横断、その先で21号線を横断して進むと、右手に大きなもちの木が立っており、その前に「もちの木地蔵」と天保2年(1831)に建てられたという「おかげ燈籠」がある。この燈籠は前年の文政13年は伊勢神宮の遷宮の年(おかげ年)にあたり、伊勢参りの感謝として伊勢講の人たちによって立てられたという。14時21分にここを通る。
もちの木地蔵
 その先で道なりに進んで15号線に合流、右手に花園ラグビー場があるところから左斜めに分岐して進む。
 細道を進んでいくと英田北小学校の校庭に突き当たるが、ここに松原宿跡の碑が立っている。明暦年間(1655~58)に河内側唯一の宿場として創設されたという。
松原宿
 すぐ先で左折して進むと、左手に「松原南地蔵尊」がある。この地蔵尊は江戸中期よりこの場所にあって、安政6年(1859)の瓦焼き線香立並びに絵図額(地獄、極楽)が残っていると説明されている。
松原南地蔵
 更にその先左手に「延命地蔵」がある。
延命地蔵
 左手角に「右 なら いせ 道」「左 大坂」と刻まれた嘉永元年(1848)の道標が立っている。この辺りは同じような道があってわかりにくかったが、この道標があったおかげで助かった。道標に従って右折して進む。14時52分にここを通る。
右 なら いせ 
 水走橋を渡ってすぐに右折、その先最初の角の左手に「地蔵堂」があり、ここを左折して進む。
水走橋
 箱殿の信号の左手に「柳谷観世音菩薩道 是ヨリ北江すぐ 京八はた 淀ふしミ」「西江すぐ 大坂 金ひら 道」「東江 すぐ なら いせ 道」「南江 すぐ かうや 大ミ弥 道」と刻まれた道標が立っている。15時18分にここを通る。
柳谷観世音
 その先箱殿東の信号で308号線から分岐して直進し、坂を登っていくが、この信号のところが東高野街道との交点になっている。生駒山が眼前に迫ってきたが、このあたりの道も入り組んでいてわかりにくかった。左手に創建年代等については不詳であるが、奈良時代の僧行基によって創建されたと伝えられる「宝憧寺」がある。当初は真言宗の寺院であったが、江戸時代後期の文政年間(1818~1830)に融通念仏宗に改められたという。、安政7年(1860)の常夜燈が立っている。
宝憧寺
 ここから左折して308号線を進み、近鉄のガード下をくぐったところから右折して枚岡駅へ向かう。
 駅のすぐ前に「枚岡神社」がある。 ここは社伝によれば、神武天皇紀元前3年(紀元前663)に神武天皇の侍臣で中臣氏の祖の天種子命(あめのたねこのみこと)が、天皇の命で神津岳の頂に祖神の天児屋根神を祀ったのが創建とされる。「平岡(枚岡)」の社名は神津岳の頂が平らだったことによるという。白雉2年(650)に中臣氏の支流の平岡連によって山腹から中腹の現在地に移されたという古い歴史を持った神社で、式内社であり、河内国一の宮でもあったところだ。
枚岡神社
15時39分に到着する。

 本日の歩行時間    4時間7分。
 本日の歩数&距離  18012歩、13.6km.。

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