西高野街道を歩く

2016年11月18日(金) ~2016年11月19日(土)
総歩数:31458歩 総距離:23.8km

2016年11月18日(金)

堺~滝谷

                          晴れ

 西高野街道は江戸時代、高野道と呼ばれ、高野参詣の本道として、高野詣をする宮家や公家・大名家、更には一般庶民らで賑わい、また大阪、堺から和歌山や三重の一部をいう紀州や当時、和州と呼ばれた大和国、奈良への往来道として栄えたという。
 この街道は東高野街道と比べて交差したり、分岐したりする道が少ないが、それはこの街道が河泉国境の丘陵上を通っていたこと、また特に泉州側は山がちで村が少なく、更に泉州方面との行き来はその多くが堺を経由していたことなどに起因するもので、その点で堺と紀州を結ぶ専用道としての性格が強かったという。
 参考資料は大阪府教育委員会の歴史の道調査報告書「高野街道」と「大阪府歴史街道ウォーキングマップ」、それにこの街道を歩かれた先人の方のHPを参考にさせていただいた。

 今日は金沢から駆けつけてくれた学生時代のクラブの同級生のI君と大阪で合流し、今日、明日と一緒に歩くことにしている。I君とは北陸道で金沢を歩いた際、3時間ほど一緒に歩いたことがあるが、本格的な街道歩きで一緒に歩くのは初めて経験だ。
 大小路の交差点は竹内街道を歩いたときにも出発した場所だ。竹内街道とはこの先の榎元町で分岐するまで同じ道筋となっている。
 ここに「紀州街道」と刻まれた道標が立っており、ここでI君をモデルに写真を撮る。
スタート
 10時20分に出発する。
  この近くには「開口神社」や「菅原神社」があるのだが、前回竹内街道を歩いた際、立ち寄ったので、そのまま先へ進む。
 阪神高速15号堺線の高架を降りたところに堺郵便局があり、その前にある植え込みの中に「大小路橋親柱」が立っている。ここは今は埋め立てられているが、以前土居川が流れていて、その川に架かっていた大小路橋の親柱だ。
親柱
 その先左手に堺東駅があり、高架下右手に土居川公園がある。資料によるとここに「左 万代八幡宮 には谷妙見道 十八町 百町」「右 家原文殊道」と刻まれた安政2年の道標があるようになっているので探してみたが見つからなかった。

 堺東駅南口の信号を渡って右折したところに「正反正天皇陵四丁」「右 履中天皇御陵 仁徳天皇御陵道 十八丁 十四丁」と刻まれた大正2年の道標が立っている。資料には「ジョルノ前」と書かれており、実際左手にジョルノというかなり大きな建物があったが、2016年10月31日で閉店しましたという看板が掲げられていた。ここは堺の中心街のようだが、今後どのような展開になるのだろうか?とよそ者ながら気になった。
反正天皇陵
 その先、新町の信号から左折して進むと、南海高野線の踏切の手前、左手に題目碑が立っており、その横に慶安元年(1648)に夢幻永海師が造搭供養したと伝えられている宝篋印塔や天明3年(1783)の地蔵尊を祀る祠がある。これらの説明とともに、堺市は和泉の国、河内の国、摂津の国の三境にあたるところから「さかい」と名づけられたが、一方で海に面していて、海上交通発展の地として「左海」とも呼ばれていたと書かれた説明文がある。
題目碑慶安元年

 右手に「永徳地蔵」と呼ばれる石仏を祀る小祠がある。
永徳地蔵
 右手に「是より高野山女人堂江十三里」と刻まれた安政4年(1857)の里程石と七体の地蔵尊を安置する祠がある。
 一里ごとに立っているこの里程石は13本すべて現存している。
十三里石
 ここで道は二股に分岐しており、その分岐点に「歴史の道」「右 西高野街道」「左 竹内街道」と刻まれた道標が立っている。ここが竹内街道と西高野街道の分岐点になっていて、西高野街道は右へ進む。
11時ちょうどにここを通る。
左 竹内街道
 跨線橋で南海高野線を越えて進むと、右手に仁徳天皇陵が見えてきたので、街道から外れて天皇陵へ向かう。I君は非常に博識で、歴史にも詳しいのだが、ここは初めて訪れたという。
 ここは日本最大の前方後円墳でエジプトのクフ王のピラミッド、中国の秦の始皇帝陵と並ぶ世界3大墳墓の一つといわれている。
仁徳天皇陵
 正面まで行って参拝をしていると、ボランティアのガイドの方が来られて説明をしてくれた。それによると、ここは北側の反正天皇陵古墳(田出井山古墳)、南側の履中天皇陵古墳(石津ヶ丘古墳)とともに百舌鳥耳原三陵と呼ばれており、、現在はその中陵・仁徳天皇陵として宮内庁が管理しているという。前方部を南に向けた墳丘は全長約486m、後円部径約249m、高さ約35.8m、前方部幅約307m、高さ約33.9mの規模で3段に築造されている。江戸時代に墳丘の一部が陥没して石棺が出土したが、当時は徳川の世だったためか、天皇のことに関してはあまり配慮がなされていなかったようで、出土したと思われる埋葬品等の記録がほとんど残っていないという。その後、明治5年に、前方部で竪穴式石室に収めた長持形石棺が露出し、刀剣・甲冑・ガラス製の壺と皿が出土した。この時は出土品は再び埋め戻されたそうだが、詳細な絵図の記録が残っているという。濠は三重になっているが、以前は一番外側の濠は埋まっていたそうだ。その後、古文書が発見されて、外濠があったことが判明したことから調査が行われ、その結果遺構が出てきたので、現在は復元されて三重の濠になっている。またこれだけの工事を行うために、当時の道具や環境を前提に大林組で試算してもらったところ、2千人の人間を動員して16年8か月かかっただろうという結果が出たという。この地は過去に何回か訪れたことがあったが、このような説明を受けたのは今回が初めてで面白かった。

 仁徳天皇陵で一時間近く時間を使って街道に戻ったので、昼になってしまった。ちょうど近くに店があったので昼食を摂って先へ進む。
 その先で左折、すぐ先で右折して進むが、この辺りは堺市が「歴史の道」「西高野街道」という道標を数多く立ててくれているので、それに従って進んでいく。
西高野街道
 左手に小祠があり、享保2年(1717)と元文元年(1736)の地蔵尊が安置されている。
享保2年
 石田家と表札がかかった大きな門構えの家が複数軒立っている。いずれも立派な建物だ。
石田家
 左手に「本通寺」がある。薬医門形式の寺門は明和年間(1764~1772)の建築と資料に記されている。
本通寺
 その先にも南口家と表札のかかった立派な長屋門の家が二軒ある。いずれも地元の旧家なのだろう。
南口家 
 左手に「立江地蔵尊」があるが、由来等はわからなかった。
立江地蔵尊
 その先、右手少し入ったところに「御廟表塚古墳」がある。ここは現在では前方部がなくなり、濠も後円部側の一部を残して埋め立てられているため、円墳のように見えるが、本来は帆立貝形古墳とも呼ばれる前方部が短い前方後円墳という。墳丘長約75m、後円部径約54m、高さ約5mの規模で後円部は2段に築かれているという。
御廟表塚古墳
その横に大阪府指定天然記念物のくすの巨木が立っており、その横には筒井家の長屋門がある。ここは筒井順慶の子孫が住まれているという。
12時48分にここを通る。
くすの巨木筒井家

 この辺り、街道沿いに地蔵堂が点在しており、道標も兼ねている道標地蔵があると資料にも記されているが、正確に確認することはできなかった。地蔵堂の中を覗き込んでいると、I君から賽銭泥棒と間違われそうだといわれてしまった。そういえば東高野街道を歩いたとき、ある地蔵堂に「賽銭泥棒へ 悪を捨て 真に心を 入替えて 正しい人生を」と書かれていたことを思い出した。

 この辺りにも「歴史の道」「西高野街道」の碑が立っている。
歴史の道」「西高野街道
 310号線から左へ分岐して進むと、道の真ん中に大きな鉄塔が立っており、街道はここを右へ進む。
鉄塔
 左手に公園があり、その前に平成6年に堺市が立てた「歴史のみち」の説明板が立っている。
歴史のみち」の説明板
 星谷池の先、右手に小祠があり、石仏一体と地蔵尊二体が安置されている。
石仏一体と地蔵尊二体
 左手に「是より右 高野山女人堂十二里」と刻まれた安政4年(1857)の里程石が立っており、その横に地蔵5体を安置する小祠がある。5体のうちの1体は道標地蔵で「左 狭山道 たきだにみち」と刻まれている。
13時36分にここを通る。
十二里石
 199号線との交点左手に薬師如来像を浮彫にした道標があり、「東ふじい寺 なら道」と刻まれている。
薬師如来像を浮彫
 ここから街道から外れて右折して進むと、赤く塗られた祠があり、地蔵が安置されている。「赤地蔵」と呼ばれているようだ。
赤地蔵
 街道に戻ってすぐのところにたこやき屋があった。二人とも朝5時過ぎには朝食を食べているし、昼食はパスタのみだったので、腹が減ってきており、ここに入ってたこ焼きを食べることにする。入るとき、すぐにたこ焼きが出てくるとばかり思っていたのだが、我々が店に入って注文を聞いてから、おもむろにたこ焼きを焼き始めたので、食べるまでにずいぶん時間がかかってしまい、これは想定外だった。 ただたこ焼きはおいしかった。
 左手に「庚申講」がある。
庚申講
 その先左手に「中地蔵」がある。
中地蔵
 右手に「惟妙寺」がある。
惟妙寺
 左手に3体の地蔵尊を祀る小祠があり、その横に薬師如来を浮彫りにし、町内安全と刻まれた石碑が立っている。
町内安全
 更にその先、四ツ辻の右側に「舟型浮彫地蔵」が立っている。資料によると背面に享保17年(1732)と刻まれている。
舟型浮彫地蔵」が
 中茶屋自治会館が左手にあり、その前に「法界地蔵尊」の祠がある。舟型浮彫地蔵を安置しており、資料によると天明5年(1875)の銘があるという。
法界地蔵尊
 その先左手に町内掲示板が立っており、その奥に太神宮と刻まれた灯籠が立っていて、竿部に「安永二年(1773)河内草尾新田」と刻まれている。
「安永二年(1773
 その先で道は二股に分かれており、そこに角柱道標があって、「右 かうや大ミ祢」 「左 たき多に金剛山」と刻まれている。横に小祠があり、「右ハかうや道 左ハこんかうせん」と刻まれた地蔵道標が安置されていると資料に記されている。
角柱道標
 右手に「興源寺」がある。ここは奈良時代の高僧行基が開いたと伝えられる真言宗の寺院で、弘安2年(1279)の作という木造不動明王立像が安置されている。堺市内に存在する鎌倉時代以前の仏像で、記年銘によって作られた時期がわかるものはめずらしいそうで、堺市指定有形文化財に指定されている。境内には正徳4年(1714)の宝篋印塔が立っている。
14時48分にここを通る。
興源寺正徳4年

 左手に「地蔵堂」がある。資料によると「右 たき多に」と刻まれているようだが、確認できなかった。
右 たき多に
 右手に太神宮と刻まれた灯籠が立っている。このあたりは旧家が多く、歴史を感じさせる通りだ。
太神宮と刻まれた灯籠
 道はゆるやかではあるが少しずつ上り坂になっている。ここまで歩いてきて、I君は昨夜飲んだ酒がすっかり抜けてしまったと言っていた。日ごろは一人黙々と歩いているが、気心知れた友人と色々と話をしながら歩くのはなかなか楽しいものだ。
 左手に福上自治会館があり、ここに小祠がある。
福上自治会館
 右手に3体の地蔵尊を安置する小祠がある。一番左の地蔵の光背部分には「那智山」と刻まれており、熊野信仰によって彫られたもののようだ。
那智山
 右手に1体の地蔵尊を安置する小祠がある。
右手に1体
 左手に1体の地蔵尊を安置する小祠がある。
左手に1体
 左手に2体の地蔵尊を安置する小祠があり、その横に石碑が立っているが、何と刻まれているのか読み取ることはできなかった。
2体の地蔵尊
 この辺りも地蔵堂が数多く存在している。
 左手に「是ヨリ高野山女人堂江十一里」と刻まれた里程石がある。里程石はいずれも安政4年(1857)に作られたものだ。
15時31分にここを通る。
十一里石
 左手に「西高野街道」「岩室郵便局跡」「家塾跡」と刻まれたまだ新しい碑が立っている。家塾とは現在の学習塾のようなもので、地元の有識者が行っていたもののようだ。
岩室郵便局跡」「家塾跡
 天野街道との分岐点に来る。ここには「右 あまの山二里」「左 かうや山十里」と刻まれた天保13年(1842)の道標とその横に地蔵尊2体を安置する地蔵堂がある。このうち1体は地蔵道標になっていて「右あまの山道」「左かうや山道」と刻まれている。その横には「高倉寺法起菩薩」と刻まれた石碑が立っている。
15時39分にここを通る。
天野街道
 右手に「太神宮」と刻まれた天保元年(1830)の灯籠が立っており、中台に「於かげ」と刻まれている。
天保元年
 その先で道は急な下り坂になり、前方の展望が一気に広がる。
前方の展望
 この坂を「尾張坂(おわり坂)」と呼ぶようだ。他の方のHPを参考にさせていただくと「おわり」は一般に、地形が突き出しているようなところに付けられた地名で、ここも上今熊の台地が南に突き出ており、地形に由来する地名とも考えられるが、これとは別に「尾張」とも考えられている。江戸時代の中期以降の狭山池の改修には、黒鍬(くろくわ)という愛知県知多半島出身の土木技術集団が関わっていたが、南河内地方では、土地を開墾するときなどに雇われる人々の集団を「おわり」と呼んでおり、池守(いけもり)の田中家文書には「尾張」と記されている。このような高度な技能集団が拠点を構えていた場所とも考えられる。」と記されている。

 I君が「これだけ歩ければ、もうどこへでも歩いて行くことができるな」とつぶやいている。日ごろゴルフにはよくいっているようだが、これほど歩いたのは初めてとの事。今日はパテックスを6枚持参してきているそうだ。

 三津屋川を渡るが、ここが下高野街道との合流点になっている。下高野街道は中高野街道へも通じている。その手前右手に「牛滝地蔵堂」がある。これは慶応3年(1867)に建立されたもので、牛滝とは牛をまつる信仰で、牛の健康を願って、川の水で毎年牛瀧さんの日に地蔵の前で牛の足を洗ったという。
牛滝地蔵堂
 橋を渡ったところで道を間違えて川沿いを進んでいってしまったが、幸いすぐ気が付いて、橋を渡ってすぐの最初の二股を左へ進む。 

 右手に「三津屋地蔵尊」がある。
三津屋地蔵尊
 十字路の左手に下の町集会所があり、その前に大正15年の「弘法大師御堂建立碑」が立っており、御堂の中には弘法大師、役行者、地蔵尊などが安置されている。ここから右折して進む。
下の町集会所
 右手に明和7年(1770)の「大神宮灯籠」と「正法寺の案内石」が並んで立っている。正法寺は現在廃寺になっており、跡地には、歴史の道調査報告書では正法寺公民館が立っているとなっていたが、他の方のHPでは「茱萸木公民館」となっているというものもあった。確認は取れていません。
正法寺の案内石
 右手に「玄昌法師地蔵堂」がある。この地蔵は地元では「酒かけ地藏」と呼ばれ、お供えしたお酒を患部に塗ると御利益があると言われているそうだ。台石には「玄昌法師 明和六年(1769)」と刻まれている。
酒かけ地藏
 左手に「是より高野山女人堂江十里」と刻まれた里程石がある。
16時29分にここを通る。
十里石
 その先で16時36分、今日の歩きを終わり、滝谷駅へ向かう。今日はこれから門真まで出て、大阪在住のクラブの仲間二人と合流、四人で飲むことにしている。 

本日の歩行時間   6時間16分。
本日の歩数&距離 25324歩、19.6km。
本日の純距離    15.7km。(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離)

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん