木曽街道(上街道)を歩く

2023年03月14日(火) ~2023年03月15日(水)
総歩数:66244歩 総距離:43km

2023年03月14日(火)

清水口~田縣神社前

木曽街道(上街道)は尾張藩の成立間もない元和元年(1615)、木曾山拝領によって名古屋と中山道を結ぶ近道が必要となったため、尾張藩が独自に作った街道で、名古屋城下の東片端(東大手)から中山道の伏見宿までを結んでいた。軍事的な事情から、大きな川に橋がない・升形が多い・2間幅であるなど、五街道に準じた道の作りになっている。藩主など要人は当街道を通ることになっていたことから、庶民向けの下街道と対比して上街道と呼ばれていた。
これらの他に小牧宿を通ることから「小牧街道」、小牧宿に尾張徳川家の別荘があって、藩主の往来があったことから「御殿様街道」とも呼ばれていた。また、楽田追分までは「稲置街道」と呼ばれることの方が多かったという。
「愛知県歴史の道調査報告書Ⅴ木曽街道」及び岐阜県可児市から頂いた資料を参考にした。

清水口の信号の一つ手前の道を10時2分に出発する。
すぐ先で街道から外れて左手少し入ったところに「清瀧寺」があり、地蔵尊を祀る二つの祠がある。
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街道に戻って坂道を下って行くと、右手に「地蔵堂」がある。資料にある「清水弘法様」がこれかな?と思ったがよくわからなかった。
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名鉄瀬戸線の高架下を通って進むと、右手に白竜本店があったようだが、現在は駐車場になっていた。
その先右手に名古屋城築城の際、この地へ移転したという「八王子神社」「春日神社」があり、境内に昭和15年に建てられたという「宮城遥拝所」碑が立っていて、その横に安政7年(1860)、寛政11年(1799)の常夜燈が立っていた。
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すぐ先右手に「稲置街道」「至 犬山」「至 志水」と刻まれた道標が立っている。
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清水五南の信号で街道から外れて左へ進むと解脱寺があったが、入口がどこかわからなくて境内に入ることはできなかった。
街道に戻って進むと、左手に「屋根神様」がある。
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堀川に架かる黒川橋を渡って進むと、左手に虫封じで有名という「児子社」があり、ここにも蕃塀がある。
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その横に慶長19年(1614)に建立されたという「安栄寺」があり、境内に「六地蔵」がある。この石仏は大永7年(1527)と刻まれており、県下で最も古い紀年銘のある石仏として名古屋市有形民俗文化財に指定されている。10時50分にここを通る。
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その先で道を間違ってしまった。左手に金田公園がある所から右折しなければいけなかったが、そのまま直進してしまった。その先に「お福稲荷」があったので、道を間違ったことに気が付いた。ただこの稲荷は見ておこうと思っていたので、とりあえず参拝をした。ここは「山神社」で天正年間(1573~1592)に安井将監・浅野長勝(ねねの養父)が安井城を築く際、鬼門の守護神として勧請したといわれている。境内にはお福稲荷と白竜社も祀られている。
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ここから道を間違ったところまで戻って、再度本来の街道を歩き直して先へ進む。
庄内用水に架かる新安井橋を渡って進むと、左手に「六所神社」がある。
その先で街道は矢田川と庄内川に架かるふれあい橋を渡って進むのだが、渡らずにそのまま少し行くと「成願寺」がある。ここは天平17年(745)に行基によって創建されたと伝えられており、「信長公記」で知られる太田牛一はここで成長したと言われている。ただ、社殿は新しくてえらくモダンな建物だった。
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橋を渡ってすぐ右折して進むと、突き当りに「西八龍神社」がある。
ここは創立年間は不明だが、承平年間(931~938)朱雀天皇の御代と伝えられているという。境内には雷に打たれ、内部が真っ黒に焦げているご神木がたっており、このことから「雷除けの神」として知られているという。
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ここでまた道を間違った。神社を出て右へ行ってしまったのだが、街道は神社の本殿に向かって、後方にある鳥居から出て行かなければいけなかったのだ。ここも改めて本来の街道を歩き直した。写真の鳥居から出る道が街道です。
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右手少し街道から外れた所に「護国院」がある。ここは味鏡山と号して天平年間(729~749)に行基によって創建され、天永2年(1111)に再興されたという。本尊の薬師如来像は行基の作と伝えられている。ここの境内に「右 勝川道」「左 小牧道」と刻まれた元禄の味鋺道標があると資料にあったが、見つけることができなかった。
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そのすぐ横に式内社で延宝6年(1678)に三度目の補修が行われ、天保14年(1843)に再改築されたという「味鋺神社」がある。堀川院寛治7年(1093)競馬の神事が催されたのを始まりとする流鏑馬が例年盛大に奉納され、庄内川の堤防は多数の見物客でにぎわったという。ここにも蕃塀があり、また境内には名古屋城築城の際、加藤清正の命により架けたと伝えられている「清正橋」が移築されている。12時10分にここを通る。
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この辺りは水害防止のため旧家は石垣の上に建てられていると資料にあったが、沿道にそれらしき家を二軒見つけることができた。
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左手に「首切地蔵」がある。この地蔵菩薩は文政(1818~1830)の銘があり、胴体がやや斜めに二つに割れている。昔この辺りの郷士,一ノ曽五左衛門が同家に仕えていた女中に過失があったので手打ちにしようとしたところ、この地蔵が身代わりになったと伝えられていると説明されている。確かに胴が二つに割れている。
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新地蔵川に架かる伊勢山橋を渡って進むと、右手街道から少し離れた所に二子山公園がある。ここは味美古墳群を構成する古墳で、「白山神社古墳」「御旅所古墳」「二子山古墳」がそれぞれ隣接して残存している。二子山古墳はその中で最大の規模を持つ前方後円墳で、墳頂部に白山神社本殿がある。いずれも5世紀から6世紀初めにかけてのものと考えられている。
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街道に戻って、今度は左手に「春日山古墳」がある。ここも味美古墳群の一部で前方後円墳。ここは春日山公園になっていて、入口の右手奥に「三圀傳来 釋迦如来」「爲釋 了思信士 妙順信女 江戸桜田和泉町 尾張屋松五郎」「是与里八丁 常安寺」と刻まれた天保7年(1836)の「立石の道標」が立っている。
12時48分にここを通る。
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道路の右側に延命地蔵が見えるが、道路を横断することができなかったので、写真のみ撮った。
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味美駅西の信号の手前左手に「一里塚跡」碑が立っていて、「旧稲置街道 味鋺原新田一里塚跡」と刻まれている。
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右手に資料によると「右 志ミ州道 左 かち川道」と刻まれた宝暦8年(1758)の「椎樫地蔵」がある。わが子の冥福を祈って建立されたもので、もとは椎の古木があったことからこの名が付いたという。
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春日井町信号のすぐ先右手に「今上天皇御駐蹕處」碑が立っている。
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左手に正念寺があり、ここに常夜燈と「来興に穂麦喰はん草枕」という貞享2年(1685)に詠まれた芭蕉の句碑が立っている。また境内には「當寺中興開基碑」と刻まれた天保14年(1843)の石碑が立っていた。13時53分にここを通る。
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その先左手に「春日寺神明社」があるが、ここは戦前小牧飛行場を造るときにこの地に移されたという。
左手に「念佛四千二百萬遍」と刻まれた碑と聖観音像を安置する祠がある。
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左手に自衛隊の基地を見ながら進むとその先で墓地に突き当たる。この入口に題目石が立っていて、右側の題目石は文政11年(1828)と刻まれている。
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右手に「外山神社」がある。ここの境内で大正4年に弥生時代後期の青銅製の銅鐸が出土したという。14時36分にここを通る。
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北外山の信号の手前左手に「馬頭観音」がある。
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右手少し入ったところに「三十番神宮」がある。「三十番神」というのは神仏習合の信仰で「一ヶ月三十日間、交替で国を守るとされる神」のこととされており、日蓮宗では「法華経の信仰者を守る神」として三十番神を祀るという習慣があったという。三十番神宮の創建年代等は不詳だが、ご近所の方がおられたのでお話をお聞きすると、地元では「おばんじん」と呼ばれているそうだ。日蓮宗講中の番神堂として創建され、30の神様が鎮座されていたという。
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右手に「啓運寺」があり、境内に「木戸高札場旧蹟」の石碑が立っていて、ここに木戸及び高札場が設けられたと説明されている。
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この辺りが小牧宿の入口だった。15時11分にここを通る。
啓運寺の道を挟んだ前に「秋葉社」がある。江戸時代小牧宿やこの近くで大火があったことから火防守護の神である秋葉社の祠をここに祀ったと説明されている。
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その先左手に脇本陣だった「岸田家」があり、屋根神様がある。この家に伝わる弘化3年(1846)と安政3年(1856)の改造時の配置図と現状を比較すると母屋の平面には大差がないと説明されている。
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小牧四丁目中の信号の所に「小牧宿本陣跡」の説明板が立っている。江崎家が代々世襲してきた本陣は明治24年の濃尾大震災で倒壊したそうで、現在遺構は何も残っていない。
すぐ先左手に「清洲道起点」の標識が立っていて、「清須の街と小牧宿を結んでいた清須道の起点です」と説明されている。
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左手に屋根神様があるが、ここと先ほどあった岸田家だけが昔のままの状態で屋根神様が残っている。
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突き当りに「戒蔵院」がある。ここは元々は小牧山の南側にあったが、17世紀初頭の江戸時代に行なわれた上街道の整備に伴い、元和9年(1624)に現在地に移転したという。門前右手に「南 名古屋」「東 木曽海道 犬山道」「西 一の宮 つしま 清須」「村内石橋八ケ所寄進」と刻まれた寛政10年(1798)の道標が立っている。
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街道はここから右へ進むのだが、左手に小牧宿の本陣を務めた江崎家の菩提寺である「西林寺」があるので行ってみたが、門が閉まっていて境内には入ることができなかった。
街道に戻って進むと、左手に石碑、石仏がある。「国内百八十八個所供養塔」碑、比較的新しい地蔵と弘法像、更に資料によると「小牧原新田中」と刻まれた天明年間の馬頭観音が安置されている。
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左手にJA尾張中央 味岡支店がある前に「左 岩崎山御野立所跡」「右 犬山」と刻まれた昭和2年の石碑が立っている。16時6分にここを通る。
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左手新木津用水の上に「岩崎清流亭の藤」がある。あいにく時期ではなく、剪定中だったため藤を見ることはできなかったが、樹齢300年ともいわれるこの藤は元々、江戸時代に休憩所として清流亭を始めた平手柳左ヱ門が、岩崎山に住む兼松七左ヱ門からもらって育てたもの、と伝えられている。
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加藤清正が架けたという清正橋が復元されていると資料にあったので探してみたが、わからなかった。
その先で102号線から一旦左へ分岐して進み、すぐ先で再び合流する。
右手に「新四国八十八ケ所 當山」と刻まれた石碑が立っており、その横に地蔵尊と馬頭観音が立っている。
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左手に「田縣神社」がある。ここの創建の年代は不詳だが、かなり古い神社で、古い土着信仰に基づいており、子宝と農業の信仰を結びつけた神社という。毎年3月15日には豊年祭が行われ、男達が大男茎形(おおおわせがた)と呼ばれる男根をかたどった神輿を担いで練り歩き、小ぶりな男根をかたどったものを巫女たちが抱えて練り歩く。それに触れると子を授かるという伝承があるという。大男茎形は直径60センチ、長さ2メートル余りで、毎年新しくヒノキで作られ奉納されているという。3月15日というと翌日だったので、一日違いだった。翌日木曽街道を歩き終えて帰る際、電車の中から数多くの参拝客がいるのが見えた。
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久保一色の信号の所に小祠が三つ並んでいる。
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16時37分、ここで今日の歩き終わりとする。

本日の歩行時間  6時間35分。
本日の歩数&距離 34740歩&22.7km。
本日の純距離    18.4km。(途中、道を間違えず、寄り道をしないで街道だけを歩いた距離)   

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