博多街道(日田街道)を歩く

2023年04月10日(月) ~2023年05月10日(水)
総歩数:55470歩 総距離:37.2km

2023年04月10日(月)

福岡城~都府楼

                    晴れ
博多、福岡と日田を結ぶこの道の前身は、海外への窓口、博多と北部九州の内陸部を結ぶ道として古代から盛んに利用されていた。中世末期には豊後国の大友氏が博多の支配権をめぐり軍勢を動かした道でもある。慶長5年(1600)黒田長政が筑前に入国してからは福岡藩領を通る道で、元和9年(1623)の秋月藩分封後は一部が同藩領を通るようになるなど、この道は筑前と豊後を結ぶ幹線であった。
以前石櫃の追分から日田までは朝倉街道として歩いたため、今回は福岡城から石櫃までを博多街道として歩くことにした。

10時43分に福岡城を出発する。明治通りを横断したすぐ先の三井住友海上のビルの横に「東学問所跡」「修猷館跡」碑がある。福岡藩が天明4年(1784)藩の子弟教育のため設けた二つの藩校の一つ東学問所(修猷館)の跡だ。西学問所は寛政10年(1798)に火災にあって廃校になったため、唯一の藩校として武芸なども教えたと説明されている。
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平和台通の信号から右折して進み、舞鶴2丁目の信号で街道から外れて左へ進み、次の角を右折すると、「大長寺」がある。ここには黒田官兵衛の父母、祖父母の4基の位牌が安置されているという。門の左右は博多塀で、その前に「弘覺大師廿五霊場」と刻まれた石碑が立っている。
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境内には「古木の根」がある。これは天明3年(1783)播磨国(現在の姫路市)で黒田官兵衛の父・黒田職隆の墓所が発見され、その墓所の下から数千年の歳月をかけて樹木が化石化した珪化木「古木の根」が掘り起こされたため、職隆公のお位牌を祀る大長寺へ運ばれたという。
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街道に戻って進み、舞鶴一丁目の信号から街道から外れて左折して進むと、右手に「小林寺」がある。ここには黒田長政夫人、次女、3代藩主黒田光之の長男、11代藩主黒田長薄の四女、3代藩主黒田光之の七男、6代藩主黒田継高の側室、3代藩主黒田光之の側室の墓石があり、お寺の方に案内していただいた。
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黒田藩のお墓はここ以外に崇福寺や東長寺があり、いずれも立派なお墓が残されている。
街道に戻って進むと右手少し入ったところに菅原道真を祀る「水鏡天満宮」がある。大宰府に左遷された菅原道真が、憔悴した自分の姿を川面に映したことからこの名がついたと言われている。当初は今泉にあったものを、江戸時代初期に初代福岡藩主・黒田長政が、福岡城の鬼門にあたる現在地に東の鎮守として移したという。
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蔵本の信号から右折して大博通を進んで行き、その先で左折して進むと「聖福寺」の勅使門に突き当たる。
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ここは建久6年(1195)に鎌倉幕府初代将軍源頼朝からこの地を賜り、栄西禅師を開山として創建された日本最初の禅寺で、天正15年(1587)の太閤町割により寺域も方四町に狭められ、天正17年(1589)に第110世耳峰禅師が二度目の再建をし、ほぼ現在の伽藍配置になったという。山門には後鳥羽上皇から賜った「扶桑最初禅窟」の額が掲げられている。また仏殿は平成26年、栄西禅師の800年大遠諱を迎えるので改修が行われ、古来の禅宗様式を残した丈六三世仏(釈迦、弥勒、阿弥陀)が再現安置されている。
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その先左手に「妙楽寺」がある。正和5年(1316)、大応国師(南浦紹明)の法弟・月堂宗規が開基したもので、草創の寺地は博多湾岸の沖の浜にあり、遣明使一行が宿泊するなど対外交渉の一拠点になっていた。天正年間(1573~1591)に焼失し、慶長年間初代福岡藩主・黒田長政の入国後、慶長年間に現在地に移転した。墓地には三代藩主光之公息男黒田左兵衛の墓や黒田家重臣、博多の豪商神屋宗湛や伊藤小佐衛門の墓などがある。
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左手に「承天院」がある。ここは大宰少弐武藤資頼が円爾弁円を招聘し、宋出身の貿易商・謝国明の援助によって仁治3年(1242)に創建されたもので、一般公開はされていないが、寺蔵の釈迦三尊像(鎌倉期)、 禅家六祖像(鎌倉期)、銅鐘(高麗時代)は国の重要文化財に指定されている。またここは『博多祗園山笠』の発祥の地という。博多祇園山笠は、仁治2年(1241)博多に疫病が流行した時に聖一国師が施餓鬼棚に乗り、町民らに棒で担がせて水をまきながら町中を祈祷して廻って病魔を退散させた事に由来すると言われている。この辺りは歴史のある立派なお寺が数多く存在している。
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承天院を出て左へ進み、公園を抜けて左折して進むと、御笠川に架かる御笠橋の手前左手に「謝国明」の墓がある。謝国明は宋出身の商人で、博多に居住して対外貿易に活躍した人物で、宋で禅宗を学んで帰国した円爾(聖一国師)に帰依し、仁治3年(1242)円爾を開山として承天寺の建立に尽力したという。没後この地に埋葬されたが、墓上に植えられた楠が大きく成長して墓碑を包んでしまったと伝えられ、現在も大楠様の愛称で親しまれているという。ここには碑が立っており、一つの碑には文政丙戌と刻まれていることから文政9年(1826)、もう一つの「謝国明碑文」と刻まれている碑には天保発己と刻まれていたので、天保4年(1833)の物のようだ。12時35分にここを通る。
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ここから橋を渡らずに右折して川沿いの道を進んで行く。ここまでは見るものが多かったが、これから先はあまり見るべき文化財が少なく、淡々と歩いていく。
その先で御笠川に架かる新宿橋を渡ってすぐ右折、川の対岸を進んで行くが、静かな旧道で車の通りも少なくて歩きやすい。
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14時4分板付2丁目の信号で112号線に合流すると急に車の数が多くなる。
左手に飛行場があるので、飛行機が低空で離着陸している。最初のころは着陸ばかりだったのだが、途中からは離陸ばかりになった。風向きが変わったのかな?などと思いながら歩いていく。
筑紫道入口の信号の一つ先の信号の先右手に「猿田彦大神」がある。資料によると嘉永元年(1848)に建立されたものという。14時38分にここを通る。
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山田4丁目の信号から112号線から右へ分岐、すぐ先で左折して進むが、左折したすぐ先左手に「木造聖観音立像」を祀る祠がある。観音像の胎内には応永21年(1414)の墨書があることから、この年に作られたと考えられているという。
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その先で左折して再び112号線に合流するが、この角に「恵比寿神社」がある。ここの創建は不詳だが、この地雑餉隈地区は中世以降は博多宿と二日市宿のちょうど中間に位置し、間の宿として旅籠や茶店などが軒を並べて繁盛していた宿場町であったため、商売繁盛の神である恵比寿さまと防火の神であり、疫病の侵入を防ぐ塞神でもある愛宕さまを宿場の鎮の神として勧請したと説明されている。境内に文政と読むことができる常夜燈が立っており、その横に石碑を包み込むようにして根が張っている楠の大木が立っている。14時58分にここを通る。
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そのすぐ先、右手に「従是 西 那珂郡 東 御笠郡」と刻まれたまだ新しい境境界標跡」碑が立っている。
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そのすぐ先で道は二股に分かれているので、左へ進む。ここは横断歩道がなかったので、車の流れが途絶えたときに走って横断する。
右手に「春日原停留所運動場道」と刻まれた石碑が立っている。
この石碑は雑餉隈在住の草壁氏が現在の場所から春日原駅までの土地と工事費を寄付して春日原停留所道が大正13年に開通したことを記念して建てられたものという。当時は九州鉄道(現西日本鉄道)の福岡~久留米間が開通して春日原停留所が設置されたが、駅に至るまでの道がなく、雑木林を通り抜けていくような小道しかなかったと説明されている。
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その先新川緑地があり、道の両側に木立が立っている中を進んで行く。
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牛頸川沿いに進み、瓦田橋を渡って瓦田3丁目の信号から右へ分岐して進むと、左手に大正末期に赤煉瓦造りで建築され、その後この地に移転されたという「消防ポンプ格納庫」がある。
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御笠川に架かる下大利橋を渡り、九州自動車道の高架下を進む。道路に「日田街道」の標識が埋め込まれている。この標識はここで初めて見たが、この先にも同様の標識が2か所あった。
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水城跡がある。ここは斉明天皇6年(660)に唐・新羅に滅ぼされた百済国の復興救援のため、日本は派兵したが、天智天皇2年(663)朝鮮半島西岸の白村江の戦いで唐・新羅に大敗。この翌年、天智天皇3年(664)に築かれたのが「水城」で、『日本書紀』には、「筑紫に大堤を築いて水を貯えさせた。名づけて水城という」と記されている。中国の万里の長城のような施設で、幅約60mの外濠と、長さ約1.2km・幅約80m・高さ約9mの二段に築かれた土塁(城壁)で構成されており、北東側は「大野城」と、南東側は「小水城」と呼ばれる数カ所の遮断施設とつながることで、内陸への侵入を防ぐようになっていた。その後、大宰府が整備され、水城はその外郭の守りとなって、東西2つの門が設けられていた。
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道路沿い「水城東門跡」がある。寛弘2年(1005)に太宰府に着任した藤原高遠の和歌に「岩垣の水城の関」と詠われていることから、門の両側には石垣が築かれていたと考えられているという。その後寿永2年(1183)までは門が存在していたようだが、その後なくなって現在では礎石のみが残っている。
この横に石仏を2体安置する祠がある。
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すぐ先左手に「姿見井」がある。昌泰4年(901)菅原道真が太宰府に入る際、この井戸で自分の姿を映し、涙を流したことから、姿見井や鏡池と呼ばれるようになったという。
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すぐ横に「衣掛天満宮」がある。ここは菅原道真が太宰府に配流されてきたとき、装束を改めるため、衣を石または松に掛けたことがおこりという。300年前くらいに現在地に祀られるようになったという。文化9年(1812)の鳥居が立っており、また昭和28年に枯れた神木の松を惜しんで加工された扁額と絵馬が拝殿の中にある。16時11分にここを通る。
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右手に「薬師如来」と題目石を安置する祠がある。
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112号線を横断する形で進むが、ここに先ほどあった「日田街道」の道標が二つ道に埋め込まれていた。
左手に丸山病院がある右手に「苅萱の関跡」碑が立っている。 苅萱の関の関守・加藤左衛門尉繁昌は子宝に恵まれなかったため、香椎宮に願かけをした。満願の日の早朝、夢枕に神のお告げをうけその通り実行すると、ほどなくして妻は身ごもり、繁昌は生まれた男の子を石堂丸と名づけた。 石堂丸は、成人して加藤左衛門尉繁氏と名乗り、父と同じく関守をしていたが、あるとき世の無常を悟り、身重の妻と娘を残し、出家して高野山へ入ってしまった。 繁氏が出家して十数年経ったある日、父を探して高野山をさまよう一人の男の子に会った。その子こそ、繁氏の出家後に生まれた、自分の幼名と同じ名前の息子・石堂丸だったのだ。のちに、身寄りをなくした石堂丸が繁氏の元へ父と知らぬまま弟子入りし、父子は一生を仏道修行に励んだという。高野山へ参拝した際、奥の院へ向かう途中にあった刈萱堂を思い出す。この場所は「苅萱」となっているが、高野山は「刈萱」という字が使われている。何か意味があるのかな?
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左手に「関屋と日田街道」と書かれた説明板が立っていて、この地の地名は関屋といい、中世まであった関所「刈萱関」に由来していると書かれている。その奥に「恵比壽像」「猿田彦大神」「阿弥陀如来坐像」の三体が祀られた祠が立っている。
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その先で道は二股に分かれており、ここが日田街道と太宰府天満宮参詣道との分岐点になっている関屋の追分だ。ここに菅原道真の没年九百年大祭に建立された常夜燈と元禄4年(1691)に建てられた「是よりだざいふ参詣道」と刻まれた市内で最も古い道標と、「天満宮 従是二十五丁」宝暦2年(1752)、享和2年(1802)と刻まれた道標が立っている。
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16時28分、ここで今日の歩きを終わることにする。

本日の歩行時間  5時間44分。
本日の歩数&距離 30725歩、20.9km。
本日の純距離    17.7km。
(途中、道を間違えず、寄り道をしないで街道だけを歩いた距離)   

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