九里半街道を歩く

2023年04月18日(火) ~2023年04月19日(水)
総歩数:71514歩 総距離:46.1km

2023年04月18日(火)

朝妻湊~柏原

                           曇りのち雨
 九里半街道は、米原の朝妻湊と揖斐川の支流である牧田川上流の船附・栗笠・烏江の濃州三湊(岐阜県養老町)を結ぶ街道で、距離がおよそ九里半(38km)あることから九里半街道といわれた。水運と陸運を利用して、名古屋や伊勢方面の荷物を関西・北陸方面へ一番短く、早く、安く運べるルートであった。
道は時代とともに変遷しているようだが、今回は朝妻湊を出発し、中山道の番場宿の先で中山道に合流して進み、今須宿から関ヶ原を経由して牧田宿へ向かう道を歩いた。そのため今須宿から平井を経由して牧田宿へ向かう道は歩かなかった。
資料は岐阜県「歴史の道調査報告書 第一集 中山道・美濃路・谷汲巡礼街道・九里半街道」と「九里半歴史文化回廊」の資料を使用した。

 街道を歩く前に「朝妻城址」と思われている「中嶋神社」に立ち寄ってみた。朝妻城はこの中嶋神社を中心に築かれていたと考えられているという。戦国時代の武将だった新庄直昌が天文年間に築城し、その子直頼は浅井氏に属したが、後に織田信長に降り、秀吉の馬周りになって、子孫は常陸麻生藩主(茨城県行方市)として明治まで大名家として存続したという。
又その先、朝妻湊へ向かう途中に仕出し屋があるが、ご近所の方にお聞きすると、ここが本陣があったところということだった。
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 朝妻湊跡の碑が二つ立っている。ここは湖上交通の要衝地として奈良、平安時代から江戸時代に至るまで、重要な役割を果たしてきた。木曽義仲や織田信長の軍が都へ向かって船出したのもこの湊からだったそうで、当時は家屋が千軒以上あったという。その後米原、松原、長浜という彦根三港が整備、栄えていく中で朝妻湊は廃止になったという。
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12時5分にここを出発する。街道は碑に向かって左手の角が出発点だ。
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左手少し入ったところに「朝妻神社」があり、大きな常夜燈が立っている。左手の先に天野川が流れており、その向こう側に蛭子神社があって、彦星と織姫の墓が伝えられており、朝妻神社にある彦星塚は雄略天皇の第四子星川椎宮皇子の墓とされていて、男性と付き合いたいと願ってお参りすると、その恋が成就すると伝えられているという説明板が立っている。
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左手に湯倉神社があり、その先突き当りを右へ進んで8号線の下を通って進み、上多良踏切でJRを横断、突き当りを左折するが、ここに「国宝 薬師如来」と刻まれた社標とその前に「やくし道」と刻まれた道標が立っている。これは歩き終えた後で調べて分かったのだが、「真廣寺」というお寺があって、そこに平安時代末期の作と考えられている薬師如来が安置されているという。この薬師如来は霊仙の山中にあった霊仙寺の本尊であったものが、天野川に流され上多良の岸にたどりついたものと伝えられているという。拝観は事前に連絡する必要があるようだ。
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すぐ先で右折し新幹線の高架下を通り、その先で右折、更にその先で左折してあぜ道のような土道を進む。
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左手に「岩脇稲荷神社」がある。創建は不明だが、正徳4年(1714)の絵図に名前があることから、それ以前に創建されたという。本殿は一間流造千鳥破風唐破風向拝付で大変優雅なものであると説明されている。13時9分にここを通る。
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左手小高いところに「岩屋善光堂」がある。推古天皇の御代、信濃国に本多善光という仏教信者がいた。ある時夢のお告げによって難波の堀に三尊の仏像を見つけたため、信濃国へ奉持しようと思って、朝妻の湊に着き、中山道に向かう途中でこのご尊像を岩上に安置したところ、「この岩窟にとどまらん」という御仏の声が聞こえたため、ここにお堂を建てたのが始まりと説明されている。天明元年(1781)の常夜燈が立っている。
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左手に「蒸気機関車避難壕」が二つ並んでいる。これは太平洋戦争末期に東海道線及び北陸線の蒸気機関車を空爆から守るために掘られた防空壕で、未完のまま終戦を迎えたという。
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善光寺踏切でJRを渡ると、左手に石仏があり、その先は土道になっている。
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その先の左手に墓地があり、土道はその前を通っているので、そのまま進んで行くと、その先で道は行き止まりになっている。道を間違ったと思って墓地まで引き返すと、ちょうどお墓のおまいりをされておられる方がおられたので、道をお聞きすると、墓地の一番左手(入口に近いところ)から墓地を右に見ながら、墓地沿いに進んで行き、8号線の壁沿いに右へ、墓地の周りを周回するように進むと階段があって、これを上ると8号線の西円寺の信号の所に出た。この道は草が茂っていて教えて頂かなければ分からなかったところだったので、助かった。写真は8号線の西円寺の信号の所に出た場所の写真です。逆方向から来た場合はここが墓地の入口になります。
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西円寺の信号の三叉路に出たところから直進して21号線を進まなければいけなかったのだが、まちがって右へ8号線を進んで行ってしまった。右下を見ると先ほど間違った墓地の先の道が見えるので、てっきりこの方向だと思い込んでしまったのだ。途中でGPSを確認して間違いに気が付いたのでよかった。
ここでウロウロしてしまって随分時間をロスしてしまった。
21号線は歩道がなく、交通量も多いので歩き難い。北陸自動車道の高架下を抜けてすぐ先で右折して旧道を進むと、急に車が少なくなってホッとする。
左手に明照寺や正覚寺を見ながら進んで行き、14時28分に中山道に合流する。ただ標識等は何もない。中山道はまだ歩き始めたばかりの2007年5月に歩いているが、この場所を通ったことは全く何も覚えていない。当時は九里半街道なるものがあるということさえ知らなかった。
右手に「中山道 ひぐち」と書かれた看板が立っているのを見て、中山道を歩いているのだという実感がわいてきた。右手に地藏堂があるが、これから先もこのような祠は頻繁に見かけた。
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丹生川に架かる丹生川橋を渡ると、左手に「一類孤魂等衆」と刻まれた石碑が立っている。江戸時代後期、東の見附の石垣にもたれた一人の旅の老人が「母親の乳が飲みたい」とつぶやいていた。それを乳飲み子を抱いた母親が不憫に思って母乳を飲ませてやると、涙を浮かべて喜び、老人はお礼に70両という大金を差し出すと安らかに亡くなった。この母親はお金はいただくことはできないと、老人が埋葬された墓地の傍らにこの碑を建てて供養したという。
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その先で道は二股に分かれているので右へ進むと、十字路右手に「近江西国第十三番 霊場松尾寺 従是南廿町」と刻まれた道標が立っている。
その先、左手に「中山道醒井宿」「柏原宿へ一里半」「番場宿へ一里」と刻まれた平成5年に再建された道標が立っている。
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右手に「西行水」があり、「泡子塚」がある。岩の上には、資料によると仁安3年(1168)の五輪塔がある。伝説では西行法師がこの泉の畔で休憩されたところ、茶店の娘が西行に恋をし、西行が飲み残した茶の泡を飲むと懐妊して男の子を出産した。西行法師が関東からの帰途、再びこの茶店で休憩したとき、娘から一部始終を聞いて、その子がもし我が子なら元の泡に帰れと祈ると、児は元の泡になったという。
西行にも煩悩があったのだろう・・・・と思った次第。。。。
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右手に地蔵川が流れており、年間通して14℃程度の清らかな水が流れる清流だ。ここに「十王」と刻まれた常夜燈が立っている。この奥から水が湧き出ているのだが、ここは平安時代中期の天台宗の僧侶「浄蔵法師」が諸国を巡り修行の途中、この水源を開いて仏縁を結ばれたと伝わる水で、本来「浄蔵水」と呼ばれるところ、近くに十王堂があった事から「十王水」と呼ばれるようになったと言われているという。
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左手に庄屋を務めていた「江龍家」の門だけが残っており、「明治天皇御駐輦所」碑が立っている。
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右手に問屋場跡の川口家住宅がある。建築年代が17世紀中~後半と推定される貴重な建物と説明されている。
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そのすぐ横に旧本陣があり、現在は料亭になっている。15時18分にここを通る。
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右手に「醒井延命地蔵」がある。弘仁8年(817)干ばつが続いたため、伝教大師(最澄)が比叡山で降雨のお祈りをし、醒井へ来ると、老翁が現れて、ここに地蔵尊を刻んで安置すれば雨が降るだろうと言ったので、最澄は地蔵菩薩を刻んで祈念すると大雨になったという。地蔵菩薩は当初水中に安置されていたので「尻冷し地蔵」と言われていたが、慶長13年(1608)大垣城主だった石川日向守が辻堂を建立してここに安置したという。
ところでJRの醒ヶ井駅はケという字が入っているが、醒井宿はケがない。何か理由があるのかな?と思った。
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右手に加茂神社があり、その前の地蔵川に「腰掛石」「鞍掛石」があり、更にその横に「日本武尊」の像がある。
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その先に「居醒の清水」があり、湧水が湧き出している。ここは日本武尊が伊吹山の神との戦いに敗れ、醒井の地でこの湧き水によって一命を取り留めたという伝承が残っている。
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その先で道は右折する枡形になっているが、ここは東の見附(番所跡)だったという説明板が立っている。
「鶯の端跡」があり、「 ここからは西方の眺めがよく、はるか山間には京都の空が望めるというので有名で、旅人はみな足をとめて休息した」と説明されているが、現在は何も見えない・・・
左手に旅人の喉を潤し、旅の安全を祈願したという「佛心水」がある。
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右手にまだ新しい「一里塚の跡」「中山道」と刻まれた一色一里塚跡碑がある。
左手に八幡神社を見ながら進むと、街道の面影を残す松並木がある。
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左手に小川の関地蔵堂がある。小川の関は律令時代から存在していたという。
その先にある小川の関の説明板には「近江坂田郡志には、稚淳毛両岐王(わかぬけのみたまたおう)の守りし関屋(現存しないが関所の施設)と書かれ、大字柏原小字小黒谷、大字梓河内小字小川の辺りに比定、小川、古川、粉川または横川の転訛せし地名としている。一面どこも植林され原野となっているが、戦時中は食糧増産のため開墾、畑となっていた所である。古道の山側には整然と区画された屋敷跡「館跡」を確認することが出来る。)と書かれている。16時28分にここを通る。
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左手に白山神社がある右手に「従是明星山薬(師)(以下埋没)」「やくしへのみち)」と刻まれた資料によると享保2年(1717)の長沢の道標が立っている。
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左手に「掃除丁場と並び松」の説明板が立っている。それによると「掃除丁場とは、街道掃除の持場・受付区域のこと。貴人の通行に備え、街道の路面整備・道路敷の除草と松並木の枯木・倒木の処置・補植に、柏原宿では江戸後期二十一ケ村が夫役として従事した。丁場の小さい所は、伊吹上平等村で15m、大きい所では、柏原宿を除き長浜の加田村で488mもあった。江戸時代の柏原宿では、松並木のことを「並び松」と呼んでいた。また、東西両隣り(長久寺・梓河内)、村境までの街道松の本数は、明治五年の調査から逆算、幕末には約450本植えられていた。」と書かれている。
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柏原宿西見附跡の説明板が立っている。
「この地点は海抜174mで彦根城と比較する、天守閣の上に天守閣をもう一つ、大垣城では六つ積み重ねないとこの高さに届かない。柏原宿は東見附まで13町(1.4㎞)ある高地の町並み」と説明されている。
右手に「柏原一里塚跡」碑が立っている。日本橋から数えて115番目の一里塚で、両塚とも現存しないと説明されているが、街道から少し離れたところに復元されていた。
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左手に文化12年(1815)の金毘羅山常夜燈が立っている。
右手に「郷宿」跡がある。郷宿とは江戸時代、村の世話役や農民が公用で城下町または陣屋などへ行った際の定宿のことだ。
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右手に享保2年(1717)のやくし道道標が立っていて、「従是明星山薬師」「屋久志へのみち」「やくしへのみち」と刻まれている。
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柏原宿は各民家の軒下に「旅籠屋」、「艾屋」「造り酒屋」といった屋号や役職を示す表示板が設置されている。名物は「伊吹もぐさ」で当時は十数店の店があったという。
「西の荷蔵跡」の説明板が立っている。運送荷物の東西隣宿への継立が当日処理できない場合、荷物を蔵に預かった。この蔵は西蔵と呼ばれ、藩年貢米集荷の郷蔵でもあった。と説明されている。
左手に日枝神社があり、その先左手に安永6年(1777)の秋葉山常夜燈が立っており、ここが高札場(札ノ辻)だったという説明板が立っている。
左手に本陣だった南部家がある。建物は皇女和宮宿泊の時に新築されたという。17時12分にここを通る。
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左手に「問屋役年寄」と看板があり、ここは映画監督吉村公三郎の実家と書かれている。
左手に「脇本陣」だった家がある。柏原宿では本陣を務めた南部家の別家が脇本陣を務めていて、問屋役も兼務していたという。
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右手に「東の荷蔵跡」、「問屋場跡」がある。問屋とは街道の運送問屋のことをいい、柏原宿では江戸後期には六軒の問屋があったという。
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ここから柏原駅はすぐそこなので、17時19分に歩き終わる。

本日の歩行時間   5時間14分。
本日の歩数&距離 26751歩、16.9km。
本日の純距離    14.6km((途中、道を間違えず、寄り道をしないで街道だけを歩いた距離)   

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