九里半街道を歩く

2023年04月18日(火) ~2023年04月19日(水)
総歩数:71514歩 総距離:46.1km

2023年04月19日(水)

柏原~船附湊

                          曇り
 7時25分に柏原を出発する。
左手に八幡神社があり、ここに芭蕉の句碑がある。
「戸を開けはにしに 山有いふきといふ花にもよらす雪にもよらす 只これ孤山の徳あり」「其まゝよ 月もたのまし伊吹山」
奥の細道結びの地、大垣へ伊吹山を見ながら歩き、大垣の門人高岡斜嶺邸の句会でこの句文を残したという。

左手に「東見付跡」がある。「柏原宿東の入口で、道の両側に喰違いの形で土手(土塁)が築かれていた。見付とは本来城門のことで宿場用語となった。見付は宿場西口にもあった」と説明されている。
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左手に「照手姫笠地蔵」がある。二体の地蔵尊の右側の背の低いものが照手姫傘掛け地蔵ということだ。「中世の仏教説話「小栗判官・照手姫」にまつわる伝承の地蔵です。常陸国(茨城県)小栗の城主小栗判官助重(すけしげ)が、毒酒のため落命の危機にあいながらも餓鬼阿弥となり、一命を取り止めるのです。これを悲しんだ愛妾照手姫は、夫助重を箱車に乗せ狂女のようになり懸命に箱車を引張って、ここ野瀬まで辿りつきました。そして野ざらしで路傍に佇む石地蔵を見つけ、自分の笠を掛けて一心に祈りを捧げたところ、地蔵は次のお告げをしたといいます。
「立ちかへり 見てだにゆかば 法の舟に のせ野が原の 契り朽ちせじ」
勇気をえた照手姫は、喜んで熊野に行き、療養の甲斐あって夫助重は全快し、再びこの地に来たり、お礼にお寺を建て、石地蔵を本尊として祀ったのです。これを「蘇生寺」といい、近くの長久寺(廃寺)の末寺として栄えましたが、慶長の兵火で焼失、その後再興されることなく石の地蔵のみ残り、「照手の笠掛地蔵」として親しまれてきました。」と説明されている。
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野瀬踏切でJRを横断して進むと、左手に神明神社があるが、ここで旧東山道が合流している。県境、寝物語長久寺から坂下JR踏切までの中山道は旧東山道の上に作られた道ということだ。
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左手に「寝物語の里」碑がある。近江と美濃の国境は、この碑の少し横にある細い溝だった。この溝を挟んで両国の番所や旅籠があり、壁越しに「寝ながら他国の人と話合えた」ので、寝物語の名が生まれたといわれている。
また平治の乱(259年)後、源義朝を追ってきた常盤御前が「夜ふけに隣り宿の話し声から家来の江田行義と気付き奇遇を喜んだ」所とも「源義経を追ってきた静御前が江田源蔵と巡り会った」所とも伝えられている。
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車返踏切でJRを横断すると、今須の信号の右に「車返しの坂」があり、その先に「車返し地蔵堂」がある。南北朝時代の歌人で公家の二条良基大臣が、不破関屋が荒れ果てていて、板庇からもれる月光の風情を眺めるのが面白いと聞き、不破関屋に行くことにした。ところがそれを聞いた不破関屋の家人は見苦しいところは見せられないとあわてて屋根を修理してしまった。そのことをこの坂まで来た時に聞いた良基は、落胆し京へ引き返していったので、以後この場所を「車返しの坂」と呼ばれるようになったという。まさに酔狂な人がいたものだ。
8時5分にここを通る。
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右手に自然石の常夜燈があり、その先右手に八幡神社がある。
更にその先左手に明治36年の常夜燈が立っている。
今須郵便局があり、その前に文化5年(1808)の常夜燈が立っている。京都の問屋河地屋が大名の荷物を運ぶ途中、今須宿のこの辺りでそれを紛失してしまったので、金毘羅様に願をかけ、一心にお願いをしたところ、荷物ができてきたので、そのお礼にこの常夜燈を建立したという。
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左手に「問屋場」だった山崎家がある。今須宿には一時七軒の問屋があり、これは全国的にも珍しかったという。美濃十六宿のうちで当時のまま現存しているのはこの山崎家のみと説明されている。
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左手に今須小学校、中学校があるが、ここに本陣の伊藤家があったという。8時23分にここを通る。
左手少し入ったところに「妙応寺」がある。ここは正平15年(1360)に、今須領主長江重景が、亡き母・妙応のために創建した県下で最も古い曹洞宗寺院という。境内には、徳川家康が関ケ原合戦を終え、腰掛けて一服したと言われる「徳川家康腰掛石」がある。この石は以前は本陣だった伊藤家が代々守り伝えてきたものだったが、明治3年に本陣が廃止されて以降、この地に移設されたという。
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右手に復元された今須の一里塚がある。
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すぐ先で左へ分岐して今須峠へ向かう。静かな山の中の道だが、ここはとても険しい道だったという。「従是東 不破郡山中村」と刻まれた道標が立っている。
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山中踏切でJRの線路を横断して進むと、左手に「常盤地蔵」がある。
「平安末期、此処山中村で置きた常盤御前の不幸な出来事は、涙なしには語れない.常盤は「義経がそのうちきっとこの道を通って都に上る筈,その折りには是非道端から見守ってやりたい。」と、宿の主人に形見の品を手渡し息を引き取った。時に常盤43歳。主人は常盤の念願が叶うよう街道脇に塚を築き、手厚く葬ったのである。(右手下約300メートル先にあり)その後哀れに思った村人は、無念の悲しみを伝える常盤地蔵を塚近くのこの場所に安置し、末永く供養することを誓い合った。案の定寿永2年(1183)義経上洛のため弐万余騎を率いて、当地若宮八幡神社に到着し、西海合戦勝利を祈願。合わせて母の塚及び地蔵前では、しばしひざまずき、草場の陰から見守る常盤の冥福を祈ったという。」という説明板が立っている。
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その先で道は二股に分かれているので、左へ進み、すぐ先で左折すると左手に「常盤御前の墓」がある。
「都一の美女と言われ、16歳で源義朝の愛妾となった常盤御前。義朝が平治の乱で敗退すると、敵将清盛の威嚇で常盤はり、今若・乙若・牛若の三児と別れ一時期は清盛の愛妾にもなります。伝承では東国に走った牛若の行方を案じ、乳母の千草と後を追ってきた常盤は、土賊に襲われて息を引き取ります。哀れに思った山中の里人が、ここに葬り塚を築いたと伝えられています。」と説明されている。8時57分にここを通る。
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新幹線高架下を通った先右手に「鶯の滝」がある。ここ山中村は関ヶ原・今須の間の村として活気を帯びており、この滝は今須峠を上り下りする旅人を癒してくれる格好の場所だったという。滝の高さは5mほどだが、水量が豊かで年中鶯の鳴く平坦地の滝として街道の名所になっていたという。
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黒血川を通るが、ここは壬申の乱の際、この地山中で両軍の初の衝突が起き、両軍の兵士の流血が川底の岩石を黒く染めたことからこの名前がついたという。
左手に高札場跡碑が立っている。関ヶ原宿と今須宿の中間に位置していたことから間の宿と呼ばれていて、この場所に高札場が設けられていたという。

関の藤川(藤古川)がある。この川は関所の横を流れていたことからこの名前が付いたという。壬申の乱では両軍がこの川を挟んで開戦。関ヶ原の合戦では大谷吉継が上流右岸に布陣をするなど、この辺りは軍事上要害の地だったという。
「不破関西城門と藤古川」の案内板が立っている。「不破関は藤古川を西限として利用し、左岸の河岸段丘上に主要施設が築造されていた。この地は大木戸という地名も残っていて、「西城門」があったとされている」と説明されている。遺構は何も残っていない。
坂を上った右手に「不破関跡」と「不破関守跡」がある。東山道の美濃不破関は東海道伊勢鈴鹿関、北陸道越前愛発関とともに古代律令下の三関の一つとして壬申の乱後に設けられたという。関守は延暦8年(789)の関の停廃以後に任命されたと考えられていると説明されている。ここは標識が変な方向を指していて、少しウロウロしてしまった。9時32分にここを通る。
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左手少し入ったところに「不破関関庁跡と兜掛石」の説明板がある。
それによると「この辺りに中心建物があったとされ、ここに祀られている石は壬申の乱の時、大海人皇子が兜を掛けた石と伝えられている。左斜めうしろには同皇子使用の沓掛石がある」と説明されている。
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「井上神社」社標が立っているところから街道から外れて右へ進んで行くと、樹齢800余年と言われる「月見 宮大杉」が立っている。この辺りが関ヶ原の戦いの時、福島正則が布陣した場所だという。
街道に戻って進むと、すぐ先右手に「月見の宮 福島陣跡一丁」と刻まれた石碑が立っている。ここから行くとよかったのかもしれないと思った。
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左手に「西首塚」がある。関ヶ原の戦いで夥しい数の死者が出て、その埋葬の為に東西の首塚を造営したという。
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右手に明治5年の常夜燈が立っている。
左手に「至道無難禅師生誕地 関ヶ原宿脇本陣」がある。禅師は慶長8年(1603)に本陣だった相川家に生まれ、江戸時代前期の臨済宗妙心寺派の高僧だったという。当家はその後脇本陣を務めたといい、この門はその面影を伝えていると説明されている。本陣は今はないという。9時59分にここを通る。
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関ヶ原駅前の信号から右折して進む。ここで中山道と分岐する。
右手に「公門愛宕神社」がある。天保14年(1843)に創建されたという。
その先左手から道が合流するところに鳥頭坂追分地蔵堂があり、その前に「左 旧道」と刻まれた道標が立っている。その先に九里半歴史回廊が建てた「九里半街道」の標識が立っている。今回九里半歴史回廊の方から貴重な資料をいただいて非常に助かった。
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鳥頭坂を下り、新幹線の高架下を抜けると、右手小高いところに薩摩藩の旗がはためいている。ここに島津豊久の碑がある。関ケ原の合戦終盤、島津隊は敵中突破を図って、徳川家康の本陣をかすめて伊勢西街道へ進んだが、島津豊久がこの地烏頭坂で井伊直政・松平忠吉らを迎え撃った。豊久は重傷を負って伊勢西街道へと逃れたが、傷が重く自害したという。
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その先門前口のバス停の所で道は三本に分かれているので、左へ進むが、ここに「木曽神社御由緒碑 二百米」と刻まれた石碑が立っている。
坂を上った右手に地藏堂とその横に「義仲の寝覚の山か月かなし」という芭蕉の句碑が立っている。その先に木曽義仲を祀る「木曽神社」がある。
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左手に天保6年(1835)の秋葉山常夜燈が立っている。
左手に八幡神社の鳥居とその横に明治16年の秋葉社常夜燈が立っている。
左手に麦房神社がある所から右手街道から少し入ったところに「善性寺」があり、その裏手に「馬つなぎ石」がある。
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街道に戻って進むと左手に問屋だったという「五井家」がある。大きな屋敷だ。
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道を下って行くと、右手に嘉永7年(1854)の大神宮常夜燈があり、更にその先突き当りに天保12年(1842)の自然石の常夜燈では街道で一番大きいという金毘羅大権現常夜燈がある。11時24分にここを通る。
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街道はここから左折して進むのだが、直進すると「琳光寺」があり、本堂の左手に「長寿院盛淳」の墓がある。関ヶ原の戦いで西軍が総崩れとなり島津軍が敵中孤立した際、島津豊久の進言で義弘は数万の大軍を縫って敵中突破を敢行した。「鳥頭坂の退却戦」だ。長寿院盛淳は剛力の家来・玉林坊に義弘を背負って山中突破するように命じた後、島津義弘から拝領した陣羽織と、石田三成から拝領した軍配を身につけ、義弘の影武者となった。最期については諸伝あり、定かではないが、義弘の名を名乗って奮戦したが討ち取られたとも、敢えて義弘の名を名乗って切腹したとも伝えられているという。また琳光寺の裏側に「左 平井 今須」「親鸞上人御旧跡所」と刻まれた道標がある。
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街道に戻って進むと、左手に明治41年の秋葉山常夜燈がある。
右手に牧田小学校がある左手に「右 江戸道」と刻まれた道標が無造作に置かれている。
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牧田郵便局から右折して大垣市消防団牧田分団の横の草道を進む。
左手に嘉永7年(1854)の神明宮常夜燈がある。静かな細道を進んで行く。
左手に「馬頭観世音」がある。これは「牛の観音さん」と呼ばれており、嘉永5年(1852)以前に創建されて、御神体は当時谷川の青石で三体彫った観音さんのうちの一体ということだ。横に嘉永5年(1852)の常夜燈がある。
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左手に安永9年(1780)の大神宮常夜燈がある。上石津では最古の常夜燈という。その先右手に小祠があるが、「おたすけ地蔵」という提灯が祠の中に下がっていた。
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左手に「素盞鳴神社」があり、その先左手に「牛の観音さま」と地元で呼ばれ、文化11年(1814)に近江長岡より勧請した小社「四方四里神社」がある。
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牧田川に架かる広瀬橋を渡って左折して進むと、左手に大神宮常夜燈が立っており、文化14年(1817)と刻まれているが、新しいので再建されたのかな?と思った。
薩摩カイコウズ街道に合流するところ右手に自然石の常夜燈がある。
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この道は交通量が多く、歩道もないので歩き難かったが、その先で右へ分岐して56号線へ進み、その先で道は二又に分かれているので左へ進むと、左手に林覚寺があり、その先左手に八幡神社がある。この辺りは車が通らず歩きやすい。その先に砲弾の形をした碑が立っており、その横に常夜燈がある。この砲弾の碑は何なのだろうか?説明板がなかったので分からなかった。
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左手に高田中学校がある所から右へ分岐して進むと、左手に景陽寺があり、その先右手に愛宕神社がある。ここの境内に大きなイチョウが立っており、この木に「イロハモミジ」が着生している。本来は地上生であるイロハモミジが樹上で着生生活をしているのは珍しいと説明されている。
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左手に「秋葉神社」があり、その先右手に文化3年(1806)に創業したという造り酒屋「玉泉堂」がある。14時1分にここを通る。
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左手に老人福祉センターがある所から右折、更にその先で左折して西美濃厚生病院の前を通り、養老線の美濃高田第5踏切を横断して金草川沿いの土手を進んで行く。車はほとんど通らない気持ちのいい道を進んで行く。
右手から道路が合流するところ右手に「九里半街道」と刻まれた大正4年の道標が立っている。その先右手下に「福地神社」がある。ここは天明4年(1784)に現在地へ移転したということで、境内に天明6年(1786)の常夜燈が立っている。15時13分にここを通る。
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この先で道に迷ってしまって、大分ウロウロしてしまったが、左手に「市神神社」を見つけて本来の街道がわかった。その先左手に「八幡神社」があり、天明7年(1787)と読める常夜燈が立っている。この辺り天明年間のものが多い。
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左手に秋葉神社があり、そのすぐ先右手に大正14年の常夜燈がある。更にその先左手にもう一つ秋葉神社がある。
16時13分に「船附港址」碑に着く。船附湊は烏江湊・栗笠湊と共に濃州三湊といわれ、中世末期から江戸幕府末期までおよそ三百年間繁栄したと刻まれた「船附湊址」の説明碑が並んで立っている。
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本日の歩行時間  8時間48分。
本日の歩数&距離 44763歩、29.2km。
本日の純距離    26.3㎞。(途中、道を間違えず、寄り道をしないで街道だけを歩いた距離)   

九里半街道総合計
歩行時間   14時間4分。
歩数&距離  71514歩、46.1km。
純距離     40.9km。(途中、道を間違えず、寄り道をしないで街道だけを歩いた距離)   

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記録

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かっちゃん
歩人
かっちゃん