日光街道を歩く

2007年10月04日(木) ~2007年10月10日(水)
総歩数:246253歩 総距離:156.2km

2007年10月06日(土)

幸手~栗橋~中田~古河~野木~間々田~小山

                                    晴れ

7時に出発する。ヒンヤリとした冷気が身体を包む。歩くには気持ちがいい。
宿を出て少し行くと幸手の一里塚があるが、看板が立っているだけで遺構はない。日本橋から13番目の一里塚だ。三連休の朝ということで街は閑散としている。中川に架かる行幸橋を渡る。川岸の堤に数多くの桜が植えられている。これは江戸を水害から守るために築かれたということだ。橋を渡ったところに、堤改修の際、人柱になった巡礼母子を供養する巡礼供養塔があると資料には書かれていたが、供養塔はなく交通事故者に対する慰霊観音が立っていた。
川を渡って左折し旧道をしばらく行くと安永4年(1775年)に建立された道標があり  「右つくば道」「左日光道」「東かわつま前ばやし」と書かれている。
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これを見ていると近所の方らしい人が近寄ってきて話しかけてきた。日光まで歩くというとそれは大変、ご苦労様といわれてしまった。本当にご苦労なことだ。どこから来たのかと聞かれたので、今回は日本橋から歩いているが、今住んでいるのは北九州ですというと、北九州からここまで歩いてきたと受け取ったらしく、驚いていたので訂正をする。以前北海道を歩いたときも同様なことがあったことを思い出す。
 「小右衛門一里塚」は旧道から少し入ったところにあったので、もう少しで見落とすところだった。何気なく右手を見るとこんもりと木が繁っている場所があり、どうも塚のような感じがしたので行ってみるとやはり一里塚だった。
 日本橋から14里目で高さ2m、周囲9m四方の塚の形が残っており、塚の上には字堤外(現権現堂川)から移築されたという弁財天堂が建てられていた。
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 「焙烙地蔵」がある。江戸時代、関所を通らず利根川を渡ったり、渡ろうと企てて事前に発見された者は、つかまって関所破りの重罪者として火あぶりの刑に処せられたとされている。処刑場も現在の地蔵尊のあった場所だったということだ。こうした多数の処刑者を憐れみ、火あぶりの刑になぞらえて、その後土地の人が供養のため焙烙地蔵として祭ったということだ。またこの地蔵の線香の灰を「えぼ」につけると治るという言い伝えがあり、そのことから「えぼ地蔵」と呼ばれているそうだ。
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 9時28分、栗橋宿本陣跡を通る。
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 幸手宿から2時間31分、14014歩(約8.8Km)。

 この宿には東海道の箱根、中山道の碓氷と並んで三大関所の一つと呼ばれた関所があり、通りから少し入った場所にその跡碑があり、ここは「房川渡中田関所」と呼ばれていた。
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 この関所の場所を近くにあったお店で尋ねると、お年寄りの方が丁寧に教えてくれ、更に八坂神社の前を横切っていったところに、関所番士の屋敷跡があるのでこれも見ていきなさい。池田本陣跡と関所跡それに関所番士屋敷跡は栗橋宿の三点セットだといわれたので見に行く。この屋敷は寛永元年(1624年)に関所番士の住まいとして幕府が設けたもので、定員4名で2人一組となって午前6時~午後6時まで勤務をしていた。その番士の一人が足立氏で今もその子孫がこの場所に住んでいた。

 旧道に戻り土手を登って利根川橋で利根川を渡る。さすがに大きな川だ。栗橋には昭和22年の洪水で利根川が決壊したとき、ここまで水がきたとして電柱に赤いテープが巻かれていたが、それは人間の身長よりもはるかに高いところだった。
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 利根川を渡るとすぐに中田関所跡があり、中田宿跡があった。
 中田宿跡を通る。10時3分。
 栗橋宿から35分、2627歩(約1.7Km)。

 しばらく歩いてJR東北本線の日光街道踏切を渡ると、急に道幅が広くなり歩道も広くなってとても歩きやすい。
この道を進んでいくと右手に古河第二高校があり、その校庭の南隅に「一里塚跡」がある。校庭まで入るわけには行かなかったので道路から写真を撮る。
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 古河本陣跡の石碑が立っている前を通る。
11時29分、中田宿から1時間26分、8259歩(約5.7Km)。

 本陣跡を過ぎて歩いているといい匂いがしてきた。うなぎだ!まだ昼食には少し早かったが、匂いに敏感に反応したお腹がグ~と鳴り出したので飛び込む。「うな重」、うまかった。うなぎ大好き人間なのだ!
 塩滑地蔵という名前のついたお地蔵さんがあった。身体の具合の悪いところに塩をすり込むとよくなるといわれているそうだが、祠の前には塩は置かれていなかった。

 国道4号線に合流するところに鳥居が立っており、中に入っていくと「野木神社」がある。ここは約1600年ほど前の仁徳天皇の頃に創建されたお寺で、文化3年(1806年)火災により全焼したが、すぐに再建されたと説明されていた。参道はかなり長く、大きな木立に囲まれていて、とてもいい雰囲気の立派な神社だ。参道を歩いていくと、本殿の近くに征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷征伐の戦勝記念に植えたという樹齢1200年という大銀杏があった。どちらかというと少々グロテスクな形のこの大銀杏、長い間この世の移り変わりを見てきているわけで、今どのような気持ちで立っているのか聞いてみたい気がした。
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 野木本陣跡を通る。本陣跡の看板が立っている。
12時52分。古河宿から1時間23分、5873歩(約3.6Km)。

 ほぼ直線に近い道を黙々と歩いていくと、右手に八幡神社がある。ここは将軍が日光に参拝するときに小休止する場所で朝、古河宿を立ち、ここで小休止して昼食は小金井の慈眼寺で摂ることが常だったそうだ。
 この後乙女一里塚があったようだが、標識がなかったのか、あるいは私が見落としたのか、いずれにしても気がつかなかった。
 「若宮八幡宮」がある。ここには宝永6年(1709年)に作られた大日如来坐像がある。この仏様は以前は野ざらしだったので「濡れ仏」と呼ばれたそうだ。江戸時代に湯島の渡部九郎兵衛が父母の供養のために作ったということだ。
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 「間々田の一里塚」がある。ここは江戸から18里、間々田宿は11番目の宿ということでどちらも日光街道の中間になるため「間の榎」と呼ばれていたが、いつの間にか「逢いの榎」と呼ばれるようになり、男女の縁結びの榎になったと説明されていた。nikko080-1
 ここを過ぎるとすぐに間々田宿になる。
 日光街道も半分きたことになる。もう半分?まだ半分?
間々田宿本陣跡には看板が立っている。
15時2分、野木宿から2時間10分、12151歩(約7.9Km)。

 西堀酒造という蔵元がある。間々田銘産「若盛」の蔵元だ。立ち寄って試飲ということを考えないではなかったが、かなり疲れてきており、足も痛くなってきていたので、早く小山に着きたいという思いのほうが強く、立ち寄らずに先を急ぐ。小山に入り一里塚跡を探すがわからない。色々な人に聞いて、その場所が現在永島銅鉄商店のある場所だということがわかったので、そこに行って尋ねてみると、ここが一里塚の跡だが今は何も残っていないということだった。

 小山宿は本陣跡も同様で何も残っていないので
「明治天皇行在所」碑の立っている脇本陣跡でカウントする。
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 小山宿を通る。16時37分。
 間々田宿から1時間35分、9077歩(約5.9Km)。

 昨日から足の調子が悪かったのだが、今日は両足の小指にマメができて痛い。これまではしばらく歩いた後に足の調子が悪くなるケースがあったが、これほど早くにマメができるのは初めての経験だ。しかも足をかばって歩くからだろうか、身体にかなり疲れがでてきたので夜マッサージをしてもらう。まだ先は長いのでこの調子ではちょっと困るな。

本日の歩数    52428歩(約33.8Km)
本日の歩行時間 9時間45分

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