島原街道を歩く

2009年05月11日(月) ~2009年05月14日(木)
総歩数:192152歩 総距離:128.2km

2009年05月11日(月)

北目道(日吉神社~土井口番所跡~島原) 

                                  晴れ

 八幡を朝一番の5時34分のJRで出発し、諫早経由で愛野駅に着いて、9時20分に日吉神社〈山王社)に着く。ここが島原半島の入り口、島原街道の終点となっている地点だ。川を挟んだ向こう岸は旧諫早領だった。
小高いところに社殿があり、その奥に巨石が林立している。ここは約千年前の淳和天皇の御代、近江国(滋賀県)坂本の山王日吉神社から御分神され、温泉山満明寺の守護神として創建された。島原藩主は参勤交代の折、必ず駕籠を留められてこの神社に参拝し、長い道中のご加護を祈られたそうで、土地の人は天然痘の神様として崇めていたと説明されている。島原半島の入り口にあたるこの地を三軒茶屋と呼んでいる。
日吉神社 
神社を出て前の道を右へ進んでいくと、右手に「旧温泉軽便鉄道」の愛津駅の表示板が立っている。この鉄道は大正12年5月に開通し、昭和13年8月に廃止されたと書かれている。
愛津駅 
その先右手に「土井口番所跡」の石碑が立っている。島原藩の関所がここに置かれていたところで、島原半島の付け根にあたる場所のため、出入りする人と物を厳しく監視したということだ。
土居口番所碑 
ここから街道は左折して進むが、曲がったところ左側に「猿田彦大神」があり、いかにも旧道らしい。猿田彦はこれから先にも街道に沿って頻繁におかれていた。
土居口猿田彦 
道は右にカーブしており、その先右手に温泉神社がある。「文武天皇が天宝元年(701)に行基菩薩に勅して温泉神社を御創建になり、九州の総鎮守の神としてお祀りになった」と雲仙の満明寺境内にある法華塔碑銘に刻まれており、その神々を分神し、この地に鎮祭された。ここは中世の頃「四面宮」といわれていたが、明治2年に温泉神社と改められたと説明されている。
温泉神社 
 浜口の信号を歩道橋で渡り、これまで歩いてきた道の延長線にある道を進んでいくと愛野の信号がある。ここを越えて一旦251号線を進み、その先の信号で道は二股になっているので、左の道を進むと、左手に愛野駅がある。その先でも道が二股に分かれているので、左の道を直進する.
道は右へカーブしており、その先で251号線を横断して進む。このあたりは石垣に囲まれた家が多く、昔の風情が残っていていい雰囲気の道が続く。
石垣に囲まれた家 
右手に「感恩報謝」の大きな石碑が立っている光西寺がある。江戸時代初期に祐円和尚が創建したお寺ということだ。
光西寺 
その先で千鳥橋を渡り、左折して道なりに進み、突き当たりを右折して進むと251号線に合流する。左手に阿母崎の駅があり、その先で左に入る旧道があるので、67号踏切で島原鉄道を横断して進む。その先70号踏切で再び島原鉄道を横断し、251号線に合流、左手に吾妻大熊郵便局があるところから、左斜めに進んでいく。大塚川に架かる大塚橋、二本木川に架かる二本木橋を渡って進む。
 黙々と街道を歩いていくが、それにしても今日は暑い!夜のニュースで6月下旬から7月上旬の気温だったといっていたが、とにかく暑い!もうこの段階で汗をびっしょりかいている。
 その先に御手橋(おてばし)や武者通橋(むしゃどおりばし)という変わった名前の橋を渡って進む。道端に猿田彦がある。御手橋猿田彦
道なりに進み、251号線を横断して右斜めに伸びる旧道を歩くが、そこに熊野神社の鳥居が立っている。
釼柄神社の鳥居 
左手に諫早湾干拓の潮止め堤防が見える。ギロチンと名づけられたあの堤防だ。豊かだった有明の海に今後どのような影響が出てくるのか。もし更なる悪影響がでた時、誰がその責任を取るのか。もう終わったことではなく今後も見守り続けなければならないことだと思う。
諫早干拓 
 右手に鶴田小学校がある。このあたりから右手に普賢岳が見えてくる。普賢岳はここから以降、ずっと視界に入っていた。
 平和橋を渡ってその先で少し行き過ぎてしまったが、すぐ気がついて元に戻り最初の十字路を左折、251号線、島原鉄道の踏切を渡ってすぐに右折し、海沿いの道を進む。
右手に釼柄神社の鳥居が立っている。
釼柄神社 
81踏切で島原鉄道を渡り、251号線に合流し、これを左へ進んでいくと、信号の先で左斜めへ伸びる旧道があるので、これを進む。
 道なりに進んでいくと、一旦251号線に合流するが、すぐに左斜めへ伸びる旧道があるので、これを進む。左手に島原鉄道の線路、右手は251号線の間の道を歩いていく。その先、86号踏切で線路を横断、海辺の道を歩く。進んでいくと大正駅があり、ここで左折して進むのだが、その角に店があったのでここで昼食にする。
 再び海沿いの道を歩き、道は右にカーブするのでこれを進んで行き、90号踏切で線路を横断して進み、その先で251号線に合流する。その先で251号線は右へカーブするが、旧道はそのまま直進し、境川橋のすぐ先で再び251号線に合流する。暫く251号線を歩き、瑞穂郵便局の先で二股に分かれているので右側の旧道を進む。104号踏切で線路を横断して251号線に合流、その先の西郷長浜バス停の先から251号線と分かれて右斜めへ伸びる旧道を歩く。
 左手の251号線と旧道の間に暫くの間松並木が続く。
松並木
 神代の信号から右折して進むと左手に鳥居が立っているので、そこから街道を外れて左折して進む。右手に「正一位道政院稲荷神社」がある。延享4年(1747)神代鍋島家八代茂興公が京都伏見稲荷から御神体の御分身を勧請したと説明されており、境内には神代家時代より奉斉してあった「神代神社」がある。この地を神代と呼んでいるが、それは景行天皇12年熊襲征伐の時、神代直という従臣がいてその一族がこの土地に残って代々治めたと記してあり、それが地名になったといわれているそうだ。
神代稲荷
またここは鶴亀城址となっており、本丸跡の標柱が立っていたり、二の丸跡、三の丸跡には石垣が一部残っている。弘安4年(1281)、蒙古来襲の際、神代家も出陣したと大宰府管誌に記載されており、当時からこの城が存在していたようだ。空には鶴が舞い、潮の満ちる城の下には亀が泳いでいたのでこの名前がついたという伝説がある。
 天正12(1584)年有馬、島津連合軍と竜造寺隆信が戦い、竜造寺隆信は討ち死にした。隆信と同盟していた神代貴茂はこの城に籠もったが、やがて謀殺されてしまう。その後の天正15年(1587)秀吉は島津討伐のため九州に下向、鍋島藩初代直茂は秀吉の允許を得て旧神代家の領地を神代分藩としたと説明されている。
鶴亀城跡石垣 
その先に神代鍋島家がある。ここは門の内側の広大な敷地の中に延べ317坪の館があり、長屋門と石塀は元禄時代(1688~1704)に建立されたとなっている。これは国見町有形文化財に指定されている。今日は休館なのか、それともいつものことなのか分からなかったが、中に入ることはできなかった。
神代鍋島家 
街道に戻り、突き当りを左折して進むと、左手少し入ったところに藁葺きの永松家が建っている。このあたりは武家屋敷が並んでおり、出水や野田郷の武家屋敷と同じ風情が残っている。永松家武家屋敷 
その先街道は突き当たりを左折するが、右側に常春寺がある。ここは元禄6年(1693)に神代鍋島四代嵩就公が母親桃源院殿花応常春大姉菩提のため桃源山常春寺として建立され、代々の菩提寺となっている。左手奥に二代茂正公から十七代春雄氏までの三十八基の宝篋印塔が立ち並んでいて壮観だ。
 常春寺 
街道に戻り、左折して川沿いに進んで行き、二つ目の橋のところで右折して進む。
 左手に地蔵堂があり、その前に立っている地蔵尊には宝暦7年(1757)と刻まれていた。
倉知川地蔵堂 
倉地川に架かる倉地橋を渡り、国見中学校を左に見て進むが、その先で地図にはない道ができていて少し迷ってしまった。道は二股になっており、最初は直進したが、間違いに気がつき、二股から左へカーブする道を進む。
その先右手に「旧島原藩札元」の標識が立っていた。
島原藩札元 
その先で橋を渡って左折、すぐ先でもう一つ橋を渡って突き当たりを右折する。この橋の横に「かなくそ原」の案内板が立っている。それによると「かなくそ」とは製鉄の際に出てくる鉱滓をいい、このあたりでは「かなくそ」がたくさん出たことからこの地域を「かなくそ原」この坂を「かなくそ坂」と呼んでいる。「かなくそ」はこのあたりの広範囲に分布しており、古代から盛んに製鉄が行われていたと思われると説明されている。
多比良小学校を右に見ながら進むと、すぐ先に「旧島原街道市場跡」の標柱が立っている。その先、二股を左折して進む。
島原藩市場跡 
右手に「旧島原藩馬継ぎ跡」の標柱が立っており、その横に道標が立っている。「→長嵜」と刻まれているところだけ読むことができたが、他は解読できなかった。
島原藩馬継ぎ跡 
右手に「御家清水」の石碑が立っており、その横に井戸があった。ただ説明がなかったので何を意味しているのか分からなかった。
御家清水 
 左手に浄教寺があるが、まだ新しい建物だった。その先で半円を描くように右にカーブして進み、その先で右折して進む。
右手に湯江小学校がある。ここの運動場横に庄司屋敷跡があると資料にあったので、不審者に間違われないように気をつけながら立ち寄ってみた。入り口から坂を上ったところが職員室だったようで先生方がおられたので尋ねると、その案内板のある場所まで案内をしていただいた。それによると平安期、鎌倉期初頭における荘園の荘務を掌る荘官の館を庄司屋敷といい、このあたり一帯は仁和寺の荘官の居館跡と説明されている。屋敷の周囲には堀が掘られ石垣が築かれており、遺構が残っている。
庄司屋敷 
屋敷の中心部にあたるところに当時使用されていた古井戸が残っており、地元の人達は「庄司井戸」とか「かんじんさんの井戸」と呼んでいると説明されている。ただ先生もその井戸や石垣の場所は知らないということで、わざわざご近所の方に尋ねていただいて、井戸と石垣の場所を教えていただいた。井戸は案内板に向かって右手にあり、畑の水遣り等に現在でも使っているということだった。
庄司屋敷井戸 
また石垣は案内板の立っているすぐ下にあった。
庄司屋敷石垣 
お忙しい中、わざわざ案内していただいて有り難かったので、改めて先生にお礼を言って先へ進む。
 湯江川に架かる湯江橋を渡り、右折して進み、更にその先で二股に分かれているので右折して進む。
湯江川に沿って歩いていき、右手に寺前橋があるところで街道は左折して進むが、橋の向こうに東向寺が見えたので、行って見た。境内の入り口に大きな木の根が立っており、そこに「行雲流水」と書かれている。女性の方がおられたので、お聞きするとこの木の根は大水害の時にここに流れ着いたものということだった。ここは島原藩主高力氏の菩提寺として再建され、松平藩主菩提寺淨林寺の末寺ということだ。
東向寺 
左手に加藤酒造があり、酒造特有の煙突が立っている。煙突に「アサニノボル」と書かれているので、これが銘柄なのだろう。雲ひとつない青空に赤い煙突が映えてなかなかいい眺めだ。加藤酒造   
その先、「中」というバス停があり、そこから右折して進む。このあたりは道の両側に古い石垣が残っている。右手に有明中学校があり、その前に地蔵像がある。案内板があり、それには「これは地蔵像といわれているが、肩、肘、手先の流れに記号的造形Wを象っており、隠れキリシタンの聖母像である。下部の造形は衣と思わしいものから出た両足と、衣の左右両端にも地に立つ二つの足があって四脚になり、胴部には横線が刻まれていて、これは櫃、又は石棺を表している。Wはω(オメガ)で聖書ヨハネ黙示録に「われ〈キリスト)はアルパなり(α)ω(オメガ)なり」とあり、ωはキリスト教教徒の最奥の真理、神と神の業の絶対・無限性を示し、また、キリストの再臨を現し、隠れキリシタンの最奥の信仰だった。像の右側には「原幸」=ハライソ〈天国)という字が刻まれており、島原半島の北目には隠れキリシタンは存在しなかったというこれまでの定説を覆す貴重な資料だ」と説明されている。
隠れキリシタン地蔵 
 ここから左折して進むと、その先に橋が架かっており、盲目落橋となっている。メクラオトシ橋と呼ぶようだが、変わった名前だ。何か所以があるのではないかと思ったが、何も標識等はなかった。左手に大三東小学校があり、その先から左折して進み、更にその先突き当りを左折、251号線に併行して進み、大三東バス停のところで251号線に合流して右へ進む。大三東という地名は藩政時代の大野、三之沢、東空閑の三村が合併し、各村名を一字づつとって大三東としたそうでオオミサキと読むそうだ。
 小川を渡って251号線と分かれ、左斜めへ進むと島原鉄道の踏切があり、これを横断して進む。このあたりから海岸沿いの道をしばらく進むが、その先の踏切のところに「三会往還」と書かれていた。
右手に「温泉神社」があるので線路を横断して行ってみた。境内に「御手水鉢」がある。古老の言い伝えによれば、島原城主松平阿波守忠雄公が元禄12年(1699)景華園の竣工に行く折、ここに御参拝になり、寄進されたと説明されている。
温泉神社御手水鉢 
街道に戻って進むと左手に「流死菩提供養塔」が立っている。島原藩は雲仙普賢岳の大爆発とそれにともなう眉山の崩落による大津波で溺死者が多く打ち上げられた海辺ということで、三会、田町、南崩山、布津、須川、南有馬に同形、同碑文の供養塔を建立して供養をした。建立年月日は寛政5年(1793)2月28日・石材は良質の安山岩と説明されている。
流死菩提供養塔1 
その先で踏切を渡り、島原新港の信号で251号線に合流して暫く歩いていくと左手に「沖田畷古戦場跡」の看板が立っており、それに従って左手に入って行くと「竜造寺隆信の供養塔」がある。長年争いを繰り返していた有馬氏と竜造寺氏は天正12年(1584)3月、薩摩へ援軍を頼んだ有馬氏は薩摩との連合軍八千で竜造寺軍数万とこの地で宿命の対決を迎える。この地を沖田畷といい、当時は海岸までの細い道があるだけで、その両側は胸までつかる程の泥田地帯だった。そのため竜造寺軍は大軍の有利さを出すことができず敗北。この戦いによって竜造寺隆信は戦死、九州制覇の夢は消えたと説明されている。竜造寺隆信の供養塔 
街道に戻って進むと、北門の信号から左折、踏切を越えて進むと左手に二本木神社がある。ここは沖田畷の戦いで隆信公を失った家臣のうち住み着いた人たちがその戦死を悼み、霊を慰めようと小祠を建て、霊を祀り、二本木様と仰ぎ、病除けの神としたのが始まりという。また、竜造寺隆信公の死後、当時家老であった鍋島氏が徳川幕府から肥前佐賀藩主として認められた。この政権交代を江戸時代に戯曲として表したのが「鍋島猫騒動」といわれている。
二本木神社 
街道はそのまま海際まで進み、そこから右折して海沿いに進む。その先左手にも先ほどと同様の「流死菩提供養塔」が立っている。先ほどの供養塔と全く同じ形、同じ碑文だ。
流死菩提供養塔2 
 その先で急に道幅が狭くなったところがあり、そこから右折、すぐ先で左折して進むと左手に「猛島神社」がある。ここは昔は今の高島、当時の鷹島にあった鷹島大権現を松倉重政が島原城築城時にこの地へ移したもので、松平忠房が入国すると領内7万石の総社として猛島大明神と改め社領を寄進、社殿を改修した。海辺にあるこの社殿も寛政の大津波で流され、文化10年(1815)に復旧、社殿前の鳥居はそのとき破壊されたものを再建したものという。
猛島神社
 街道に戻り、踏切を渡り、その先で251号線を横断して二つ目の十字路を左折して進むと右手に島原城が見える。ここは以前来たことがあるので、今回は立ち寄らないことにした。その先に今日のホテルがあった。

 19時10分、ホテル着。

 本日の歩行時間   9時間50分。
 本日の歩数&距離  57420歩、38.2km。