島原街道を歩く

2009年05月11日(月) ~2009年05月14日(木)
総歩数:192152歩 総距離:128.2km

2009年05月12日(火)

南目道(島原~深江~布津~有家~西有家~北有家)&一部西目道

                                  晴れ  
 7時30分にホテルを出発する。ホテルは街道の近くにあったのですぐに街道に合流する。
島原のアーケード街に入る。この中程のところ右側に「宝篋印塔形流死供養塔」が立っている。往時このあたりは島原内港の船着場で城下随一の繁華街だったそうだが、寛政4年(1792)の普賢岳大噴火による大津波の被害が最もひどかったそうだ。下二段の台石には溺死者の俗名、戒名百五が刻まれている。この形式の供養塔は熊本県川内町船津地区亀石に一基あるだけで極めて珍しいと説明されている。
宝篋印塔形流死供養塔 
右手に江東寺がある。ここは寛政4年(1792)の普賢岳の爆発に伴なう大地震と大津波で埋没してしまったが、文政7年(1824)説外実言和尚が現在地に再建した。ここには大きな涅槃像があり、その横に板倉重昌の墓がある。寛永14年〈1637〉島原の乱鎮圧の追討として派遣された重昌は寛永15年(1638)に戦死したという。
涅槃像 
 その墓は今村名江東寺境内に建てられたが、寛政4年(1792)の大噴火による土石流で土中に埋もれて行方不明になってしまった。そのため文化14年(1817)江東寺が再建された時に新しく墓を作ったという。その後文政5年(1822)古町別当中村家で井戸を掘っていたところ、地中から流失していた重昌の墓が発掘されたので、現在では二つの墓が立っている。
板倉重昌の墓 
 アーケードを抜ける一つ手前の角から右折しなければいけなかったが、うっかりアーケードを抜けてしまったので、引き返して進む。右手に江東寺の墓地が続いている。その先の十字路を左折して進むと右手に白土湖がある。ここは普賢岳噴火の際、このあたりの井戸から水が噴出してできた湖ということだ。橋を渡り、二股の道の左へ進む。
 右手に「観音堂」があり、お地蔵様が並んでいる。ここに「鰐口」の説明板がある。鰐口は神社や寺院の参詣口につるして打ち鳴らす梵音具で、金口とか金鼓、打金などともいうが、ここの鰐口は白土湖付近の水田で掘り出されて再び奉納されたものという。寛政地変の時に流失したものであろうと説明されている。
鰐口 
 その先左手に「桜井寺」がある。ここは慶長16年(1611)徳川家康の命令で幡随意上人が開基したもので、寛政4年(1792)の普賢岳大爆発で崩壊したが、ほどなくもとの地に建立された。ここに地蔵大菩薩があり、二童子と三童女の戒名が刻まれている。子を亡くした親が冥福を祈ったものだろうと説明されている。
桜井寺 
 その先に「今村刑場跡」がある。ここは松倉重政のころから文献に残っており、重罪人を処刑したり、キリシタン禁制による弾圧でイタリア人宣教師ピエトロ・パウロ・ナバルロの火刑をはじめ多くの信徒が処刑されている。寛政4年(1792)の普賢岳大爆発で埋没してしまったが、あらたに設置され明治3年まで使用されたところで、天保15年(1844)には藩医市川泰朴らが他藩に先駆けて腑分けを行ったところでもあると説明されている。今村刑場跡 
 旅館上の湯が左手にあり、その先から道は二股に分かれている。最初左へ進んだが、ここは右の坂を上る道が旧道だ。坂を上ったところで左折、その先で右折して進むがこのあたりは道路工事が行われており、旧道はかなり失われている感じだ。やがて道は森の中へ入っていく。
 その先小さな川を渡り、坂を上ったところで道は二股に分かれているので左へ進む。
 坂を下ったところで二股に分かれているので、右へ進み、57号線を横断する。左手に第五小学校がある。小川を渡って最初の十字路を左折して進む。広域農道に出、右折して農道を進み、橋を渡る。
 右手に大きく普賢岳が見える。今は休止しているが、過去に大変な被害をもたらし、平成3年にも43名の死者行方不明者を出した山だ。
普賢岳
 広域農道を進んで行き、前方に信号が見えるところで左斜めへ伸びる旧道を進み、突き当りを左折する。前はハウスだ。このあたりからハウスが数多く作られている。その最初の十字路を右折して進むが、すぐに突き当たるので右折、その先で左折、以後一直線にハウスの中の道を進んでいく。このあたりは旧道が失われているらしく、事前調査の段階でよく分からなかったところで、途中で人がおられたので道を尋ねて今歩いている道でいいことを確認する。突き当りを左折して進むと車道に出、251号線に合流して、右折して進む。
 その先で右手に道標が立っており、そこに右斜めから道が合流している。これが旧道の名残のようだったので、少し入ってみたがすぐ先で道は失われているようだったので、引き返して251号線を進む。
旧道道標 
 次の信号でガソリンスタンドを左に見ながら右斜めに進んでいく。右に深江中学校があり、左に「諏訪神社」がある。ここは諏訪神社の末社で、正長元年(1428)現在地に深江村の産土神として祀り、後に村社として村民の守護神となった。境内には巨木が繁っており、特に大楠は樹齢550~600年と推定されている。また街道に接する入り口に文化2年(1805)に奉納された鳥居が立っている。
諏訪神社 
 左手に深江郵便局があり、その敷地内に「深江村道路元票」が立っている。
深江村道路元票 
 そのすぐ先で左折して進み、次の交差点を直進、更にその先の二股に分かれているところも直進して進む。旧島原鉄道の線路跡があるので、これを越えて進む。このあたりの島原鉄道は昨年の3月31日で廃線になったということだった。その先で坂を上る。
 このあたりの地名は平之坂というようだが、確かにかなりの上り坂だ。坂を上り、その先で下ると飯野小学校があり、鳥居が立っているところから左折、すぐ先で右折、最初の十字路を左折、坂を下る途中で右折して進むと嘉永6年(1853)に架橋されたという「新川めがね橋」がある。
新川めがね橋 
 ここの坂を上って行くと左手に「殿様道路」の石碑が立っており、その横から左へ入る藪道があるので、これを歩いていく。
殿様道路 
 苔むした石が多く、これが石畳の跡なのだろう。 ここは最初は森の中だったので下草もあまり生えてなく、問題なく歩くことができたが、途中から完全な藪状態になり、藪コギを行う。
 道がよく分からないためとにかく上を目指して藪の中を歩いていく。15分ほど藪の中を進んでいくと、ようやく土道に出た。ところが左後方から同様な土道が上ってきているので、ひょっとすると私が歩いた藪の中ではなくて、どこかに土道があったのかもしれない。後でGPSの軌跡を見ると右にカーブしているので、藪の中に入ったあたりでまちがったのかも知れない。
殿様道石畳 
 いずれにしてもようやく舗装された道に出ることができ、前を見ると目印としていた「若宮神社」があったので、ホッとした。ここには社殿内に木製の馬頭観音が祀られている。これは文政13年(1830)に奉納されたと推測されており、姿形が馬の像であることから馬頭観音と思われるが、上にあげた二本の手は古代の祈りを表したもので、この像は三位一体〈キリスト教でいう父と子と聖霊のこと)の聖像ともいわれ、昔この地方に住んでいた隠れキリシタンが礼拝するためにひそかに祀ったものではないかとも考えられていると説明されている。
若宮神社 
  ここで地図と実情が異なっていて道が分からなくなり、暫くウロウロしてしまったが、結局若宮神社を前にして左折して進めばいいことがわかってこれを歩く。島原街道は道案内の標識が全くないので、一度迷うと立ち直りに時間がかかる。
 二本目の右折する道を右折して進み、次に家が数軒ある少し変形した十字路を左折、その先の突き当りを右折して進む。左手に「円通寺」があり、大きな鐘突き堂がある。
円通寺 
 その先で旧線路を横断して右折して進む。堂山橋を渡って左手に堂崎郵便局があり、その先左手の251号線に沿ったところにコンビニがあったので、ここでパンを買って昼食にする。今日も昨日以上に暑く、日陰で一休みしてホッとする。街道に戻ると道は二股に分かれているので右へ進む。旧堂崎駅舎を右に見ながら進み、その先二股に分かれている道を左へ進むがこの道はすぐ先で合流しており、橋を渡って右折して進む。
 旧鉄橋の下を通り、突き当りを左折して進むと石畳道がある。横に「下往還 殿様道」の石碑が立っている。ただこの石畳は短い距離だった。
下往還 殿様道 
 右手に「天満宮」があったが、雑草に覆われており、由来も書かれていなかった。
天満宮 
 その後道なりに進み、旧線路を渡りそれに沿って歩く。その先浦河橋を渡らずに進んだが、これは間違いで後に戻り、橋を渡って進む。
 251号線を横断して進むと右手に「萬霊供養塔」がある。この碑は従来寛政4年(1793)の島原大変時における流死者の供養碑として伝えられていたが、建立年月が宝暦4年(1754)2月28日となっており、流死者の供養塔とは年代的に一致しないため、調査の結果、慶長年間のキリシタン殉教の霊を慰めるための供養塔であることが分かったと説明されている。
萬霊供養塔 
 251号線を再び横断して進むと、右手に「専念寺」がある。島原の乱以降、土地、人心は荒廃していたため、当時の島原藩主高力摂津守忠房が村人の生活安定を計ろうと寛永16年(1639)東本願寺の布教所を開設、正保2年(1645)寺院を改築、これが専念寺の開基となった。本堂前の大樹「槙ノ木」は摂津守のお手植えの樹と伝えられ樹齢350有余年という。
専念寺大楠 
 専念寺の前の道が二股になっており、これを左斜めへ進み、右手に南島原市商工会有家支所があるところから左折して進む。最初の細い十字路を右折しなければいけなかったがこれを見落として直進してしまい、大分進んでから気がついて引き返す。
 その先に「亀淵橋」がある。この橋は潜水橋となっており、大雨時に渡ることは大変危険ですという看板が立っている。ここは安永9年(1780)に石橋が架けられたが、その二年後には流されてしまった。その後木橋が架けられたが何度も流失したという。
亀淵橋 
 川原公民館横を左折、その先の二股を右折して進むと橋が架かっており、これを渡らず一旦左折、すぐ先で橋を渡る。
 251号線のガード下を通って進むと右手に「大神神社」がある。神社の前の道を直進し、旧線路を越えて最初の角を右折、小さな橋を渡ってすぐ先の二股を右折、車道に出て右折、坂を上る。
大神神社 
 251号線の信号を渡って左折、階段を上る。このあたり道が失われているようで、そのまま歩いていったが、行き止まりになっていたので引き返し、一旦251号線に出て進み、47号線に分岐するところで47号線に沿って進み、その先で左折して旧道を進む。
 左手に「若宮神社」がある。慶安元年(1648)柳川領津村〈現大川市)から勧請して分霊を賜ったといわれている。この年シケに会い漂流した人がこの村の神社に参詣祈願したところ、霊験あらたかで春風の吹く快晴になったということだ。
左 若宮神社 
 道なりに進んで再び251号線に合流して暫くこれを歩く。前方に旧龍石駅舎が見えるところ、たついし保育園入り口と看板があることころから右折して旧道に入る。龍石橋を渡り、左へカーブしながら進むと251号線に合流する。すぐ右手に「龍石神社」がある。ご神体は大きな石で、岩龍彦命がこの石から雲に乗り昇天したといい、地名のおこりになったという。
龍石神社 
 境橋バス停のすぐ先から道は二股に分かれており、これを右へ進むと、右手に春日神社がある。ここは有馬氏の氏神様だったところだ。
境橋春日神社 
 この先で道を間違えた。日ノ江橋を渡って進んだが、目印としていた地図に書かれている鮮魚店と米穀店がない。そのまま進んでいくと、南島原市役所北有馬総合支所があったので、ここに入って道を尋ねると、目印としていた店はどちらも現在は廃業していてないということだった。改めて道を聞き、大分前に戻ってやり直す。
 本来の旧道は橋口のバス停のところから右斜めへ伸びる道だった。目印になるものが何もないとはいえ、とにかくよく道を間違う。我ながらうんざりしてしまう。
 大平川橋を渡って進むと左手に旧北有馬駅から直進してきた道と交差するところがあり、その次の十字路に「札の辻」の看板が立っており、ここで左折して進む。角に水神が祀られている。
札の辻 
 「南道」の案内板が立っている。それによるとここから三尺町方面に向かう通りを「南道」と呼んでおり、有馬氏の氏神である春日神社のご神体上陸地点といわれている。慶長18年(1613)有馬川の殉教があり、福音となった八名の殉教者達はこの通りを歩き、有馬川の殉教地へと向かったと書かれている。
 ここまでを一応南目道としてカウントする。
 17時3分、北有馬町を終わる。
 島原城から9時間33分、49641歩。

 川を挟んだ向こう側に橋が見え、そこに案内板が立っている。ただ橋がないので川沿いに戻って日野江橋を渡って、元の場所に戻る形で歩く。そこには「有馬川殉教巡礼地」と書かれた案内板があり、それによると慶長18年(1613)棄教を迫る領主に対して無抵抗の抵抗を行うキリシタンへの見せしめに、中洲で八人のキリシタンが柱に縛り付けられ火刑になった。見せしめのはずの処刑は二万人の人が見守り、かえって人々の信仰を強くさせたとして翌年の禁教令を発令させる誘引の一つになったという。
有馬川殉教巡礼地 
 橋を渡って左折、最初の十字路を右折して進む。ここは先ほどの川向こうの道路の延長線上に当たる道だ。その先突き当りを左折、すぐ先で右折、その先で左折、更にその先で左折すると旧線路があるのでこれを渡り、その先で右折して進む。
 251号線を横断したところに「流死者供養塔」が立っている。島原大変の大津波によって流死した人々の霊を弔うために寛政5年(1794)に郡内七箇所に立てられたものの一つだ。
流死者供養塔 
 その先に丸石商店があり、ここでアイスクリームを買う。この時間になると大分過ごしやすくなって来たが、とにかく暑い一日だった。ここでお店の方としばらく話をし、原城への道を聞いて出発する。
 その先から街道を離れて左折して「原城」へ向かう。城跡は今は何も遺構は残っておらず、案内板が立っているだけだった。
 左手に大手門跡がある。有馬監物・大江源右衛門等の指揮の下、布津村、堂崎村、有馬村の三千五百余名が三の丸とともに守備をしたところで寛永15年(1638)幕府軍の総攻撃で細川軍がここを破ったと説明されている。
原城大手門 
 その先に「板倉内膳正重昌の碑」が立っている。幕府軍の統帥として島原の乱鎮圧に当たったが、壮烈な戦士を遂げたと刻まれている。
板倉内膳正重昌の碑 
 街道に戻ったところに「浅間神社」がある。ここは原城御取立の山崎飛騨守が城内に建立し観音像を安置したものであり、その後有馬氏が再営した。神社は島原の乱によって破壊されたが、その後住民により再建され、安産乳出の守り本尊として崇敬されている。「甬(よう)道」がある。これは原城攻撃のために用いられたもので日向国〈宮崎)から杭夫を招いて掘らせ杭中を進んだ。篭城軍はこれを知り迎穴を掘ったが、幕府軍によって三人が殺された。信者側は生葉をいぶし、糞を注いだので、幕府軍の進撃は失敗したと説明されている。
浅間神社 
 251号線に合流し、その先原城前のバス停の先で251号線と分かれ、左斜めへ進む。その先、左手にコンビニ(yショップ)があり、ここから右折して進み、251号線を信号で横断して直進する。六反田橋を渡って進み、251号線の横に出た。旧線路 251号線に併行して道は続いていたのでそのまま歩いていったが、行き止まりになっていたので引き返し、旧線路を越えて251号線に合流して進む。
 その先左手に古野公園があったのでこれを回り込み、251号線を横断して進む。横断したところに「荒川アダムの出身地」という案内板が大きな岩の横に立っていた。それによると荒川アダムは当地〈荒川村)の出身で荒川城主荒川小傳治の一族だったが、棄教に応じないので富岡で処刑した。天草の本渡には天草殉教者第一号として祀られていると説明されている。
荒川アダム 
 18時57分、南有馬吉川郵便局があったので、今日はここまでとし、口之津のタクシー会社に連絡をしてここまで迎えに来てもらう。 今日の宿は口之津にある船員福祉センターで、一般の人も泊まることが出来る施設だ。口之津にはこのほかに宿泊施設は民宿が一軒あるだけだった。
 昨日、今日と30℃を越えたそうで、この時期にしては異常なほど暑かった。さすがにこの暑さの中を歩くのはきつかった。クタクタになって宿に入る。

 本日の歩行時間   11時間27分。
 本日の歩数&距離 60813歩、41.8km。