島原街道を歩く

2009年05月11日(月) ~2009年05月14日(木)
総歩数:192152歩 総距離:128.2km

2009年05月14日(木)

西目道(長戸~小浜~原口番所跡)

                                 晴れ

 7時45分に昨日歩いた長戸に着き歩き始める。今日はここから小浜へ戻ってくるので、荷物を旅館に預けて身軽になって歩く。今日もいい天気だが、涼しいので助かる。
 すぐ先で251号線と分かれて左斜めへ伸びる旧道に入ると金浜橋があり、その右手に「金浜めがね橋」がある。弘化3年(1846)岡右衛門が架けた橋で島原半島では一番大きく、また古い橋だったが、現在の橋は平成5年に架け替えたということだ。
金浜めがね橋 
 251号線に合流して暫くこれを歩いていき、萩尾歯科があるところから251号線から分岐して右手に伸びる旧道に入り、251号線と併行して歩いていく。やがて小浜温泉の旅館街に入っていく。
 右手に「玉垣額之助の墓」がある。安永8年(1779)現在の小浜町木指に生まれた額之助は19歳で江戸に出て力士になり、文化11年(1814)には大関に昇進。文政6年(1823)将軍徳川家斉の上覧相撲で勝ち、横綱免許があったが、これを辞退し、その翌年に46歳で生涯を閉じたと説明されている。現在と比べると随分高齢になるまで相撲を取っていたようだ。玉垣額之助の墓 
 右手に本多家の門がある。この門は明治4年島原城の城門のうちの一つを本多家が百円で買い受け、現在地に建てたものという。当時米一俵が二円八十銭だったと説明されている。松平忠房が島原藩主になって入国したとき、本多親次は湯大夫の称を受け、この高台に屋敷を構えて湯の管理を行ったという。現在は小浜歴史資料館になっているが、まだ朝が早いので開いていなかった。
本多家山門 
 昨夜の宿はこのすぐ表にあったので、荷物を受け取り出発する。
 すぐ先、階段を上ったところに「小濱神社」があった。ここは古来「湯の神」と称してこの地に祭られていたが、延宝7年(1680)島原領主松平忠房公の命により、小濱大明神として社殿を建立し、小濱村の産土神と定められ、その後、名称を小濱神社として祀られてきた。最近になって劒柄神社の地に新しく社殿を建立し、小濱神社として合祀したと説明されている。横に小さな社が一つ建っており、それは従来小濱神社の境内社として祀られてきた千座神社をお祀りしているということだった。
小浜神社 
 その先に新しい小濱神社(劒柄神社)があり、工事が行われていた。
新小浜神社 
 傳明寺が右手にある。ここには「入徳師翁碑」が立っている。頴川入徳は中国の小児科漢方医で明朝末期の乱を逃れて慶長年間(1596~1615)に帰化した人で、たまたま小浜に来て海岸に湧き出るお湯があることを知り、お湯が人間の病気によく効くことを教えた。小浜温泉が古くから保養地として利用されてきた影の恩人と説明されている。
入徳師翁碑 
  一旦57号線に合流するが、その先のガソリンスタンドのあるところで再び57号線と分かれ、右斜めへ進む。更にその先にある平湯病院の横で道は二股に分かれるので左斜めへ進む。
小浜高校前分岐 その先、小浜町北野の信号の先で直進する細い道を進む。右手に小浜高校を見ながら進み、小川を渡って二股に分かれている道を直進すると山の中へ入っていく。ここから地図に道が載っていないところだ。農作業をされている方がおられたのでお聞きすると、道はあるが途中で猪よけの金網がしてあるので、それをはずして行きなさいといわれた。
 山道を登っていくと確かに金網で道が遮断されている。かなり頑丈に作られているが、針金を手ではずして中へはいることができた。針金を元通りにして山道を登っていくが、金網は道に沿って延々と続いている。なんか自分が猛獣の檻の中へ入れられたような感じだ。
猪よけ金網 
 途中で石垣が残っていたが、峠の茶屋でもあったのだろうか。
山の中の石垣
 かなりの急坂を登り、頂上に着くとすぐに道は下り坂になる。
 やがて山を抜けると舗装道路に出、57号線に合流、すぐ先の木橋の信号から右斜めへ進んで坂を下る。「女人堂跡入口」と書かれた標柱が立っていたが行かなかった。その先突き当りを左へ進み、少年自然の家入口の信号で57号線を横断して進む。
 道が二股に分かれているところがあり、左へ進むと千々石少年自然の家へいく道となっているので、右へ直進すると右手にきのこ工場があった。坂を下っていくと、前方に海が見える。気持ちのいい道だ。
 道が右にカーブするところで左へ下る急な坂道があり、これを下っていくと道路下のガードをくぐり、左へ進む。
 突き当たりに水神様とお地蔵様があるところで右折して進む。
水神とお地蔵様 
 細い道を進み、その先で201号線に合流して進んでいくと57号線に一旦接触し、すぐに左折して進む。
 地図に小さな川が描かれており、その先から右へ進む道があるので注意をしながら進んだが、気がつかずに直進してしまった。その先には上へ上る道はなさそうだったので、一旦引き返してみると、小さな川があった。
 橋があるはずと思っていたのだが、小さいので道路と一体化していて気がつかなかったようだ。もう少し戻ったところに右斜めへ上る坂道があったのでこれを上って行く。
 道は草道になり、前方に大きなカステラ工場があって、その下をグルッと回り込むようにして57号線に出る。
 ここから少し右側へ行くと左斜めに上る道があるのでこれを歩く。
左斜め旧道 
 このあたりは左手に海が広がっており、いい眺めだ。気持ちがいい。
海の展望 
 坂を上りきったところで58号線に合流、左へ進む。愛野展望台前の信号を横断して251号線を進む。周囲は一面のジャガイモ畑だ。これまで全く知らなかったが島原半島はジャガイモの一大産地のようだ。とにかくジャガイモ畑が多い。
 251号線が左にカーブするところを右斜めに進むとその先に地蔵堂が立っており、ここを直進すると左手に「首塚」がある。ここは寛永14年(1637)島原の乱後、キリシタン一万人の首級を三分し、長崎の西坂、天草の苓北町富岡、そしてここ愛野の三ヶ所にそれぞれ埋葬したと伝えられている。また、別にこの地は暴徒と化した一揆軍が小浜、千々石方面から攻め上がってきたので、愛野、吾妻の代官、庄屋、村人がこれを防戦した時、双方の戦死者を葬ったという節もあるという。また現在は古墳時代後期、6~7世紀、この地方を支配した豪族の墳墓ではないかとも考えられているとも書かれている。
首塚 
 その先突き当たりの左側に「原口番所跡」の石碑が立っている。
原口番所跡 
 ここと北目出入口土居口に番所が置かれ、島原領の関所だった。両番所の間は15町(1.3kim)に渡って竹矢来と生垣が作られていて勝手に出入りができなかったということだ。ここで南目、西目街道が終わる。

 13時24分、原口番所跡に到着する。

 これで島原街道を歩き終えたことになるのだが、街道の道順等の標識が全くない街道で、沿道の人も街道のことを知らない人が多く、情報も乏しくて、「新島原街道を行く 松尾卓次著」だけを頼りに歩いたが、頻繁に道を間違い、小浜の前では遂に旧道は分からなくて国道を歩いてしまった。それに最初の二日間はこの時期にしては異常に暑く、かなり体力を消耗してしまった等かなり苦戦をした旅だったが、それでも何とか島原半島を一周することができた。
 それにしても「島原大変 肥後迷惑」と言われる寛政4年(1792)の普賢岳大爆発はさぞすごいものだったのだろう。いたるところに被害が出ていたことが今回歩いてみてよく分かった。

ちなみにこの「島原大変 肥後迷惑」に関する情報を以下にWikipediaから抜粋しておきます。

雲仙普賢岳の火山活動により島原地方(現在の島原市)で有感地震が続き、その後普賢岳から噴煙が上がり、溶岩流や火山ガスの噴出も見られるようになった。活動が収まりかけたかに見えた旧暦4月1日(新暦5月21日)、大地震によって城下町の背後の眉山が大規模に崩壊し、大量の土砂が島原の街を通って有明海へ向かって流れ落ちた。これを「島原大変」という。この時の死者は約5千人といわれている。

有明海に達した土砂の衝撃によって発生した高波が、島原の対岸の肥後国天草に襲いかかった。これを「肥後迷惑」という。肥後の海岸で反射した返し波が島原を再び襲った。津波による死者は約1万人といわれている。

島原大変肥後迷惑による死者は合計1万5千人にも及び、有史以来日本最大の火山災害となった。



 本日の歩行時間   5時間39分。
 本日の歩数&距離  28768歩、18.7km。

島原街道全体。
 総歩行時間 36時間55分。
 総歩数    192152歩。
 総歩行距離 128.2km。
 宿場間距離 108.4km。
           (北目道34.7lkm。)
           (南目道27.8km。)
           (西目道45.9km。)(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離)