唐津街道を歩く

2009年05月25日(月) ~2009年06月01日(月)
総歩数:213017歩 総距離:140km

2009年05月25日(月)

若松洲口番所跡~海老津駅 

                               晴れ
 唐津街道は自宅から日帰りが出来る街道なので、暑い時期になっても、日を選んで気楽に歩くことができる街道として、これまで後回しにしていましたが、今年の前半戦に予定していた街道を順調にこなしてくることができたため、今日から歩き始めることにしました。
 若松の渡船場のすぐ前に「洲口番所跡」の碑が立っている。ここは船着番所とか船改番所ともいわれており、正徳年間(1711~1716)、福岡藩が人や品物の出入りを監視、管理するために設けたもので、若松のほかに芦屋と福岡に置かれていた。寛延4年(1751)若松代官が廃止されて、黒崎代官の管轄になり、明治4年に廃止されたと説明されている。
洲口番所 
 ここを7時20分に出発する。今日も快晴、気持ちのいい朝だ。左手は洞海湾、その向こうは戸畑だ。
 右手に善念寺がある。ここは浄土宗第三祖良忠上人が嘉禎3年(1237)に久留米の善導寺にて二祖鎮西上人より浄土宗の法灯を継承し、四十八願になぞらえて、四十八の寺の開創を発願、若松の浜にも立ち寄って草庵を結んだことに始まる。今の本堂は明治29年に建て替えられたものという説明がなされていた。
善念寺 
 資料によるとその先右手に御茶屋跡と書かれているので行って見たが、遺構は何も残っていなかった。今回の資料は「唐津街道 河島悦子著」で1万分の1の地図で書かれており、歩くことを想定した本になっていて分かりやすい。
 本町2丁目の信号を直進して進むと、左手少し入ったところに極楽寺がある。寛正元年(1460)に道了が開基したといわれており、現在の本堂は昭和5年に俊工したという。木造寺院では九州で一番大きいといわれているそうで、石炭景気に湧いていたころ、門信徒が多額の寄付をして建設したとご近所の方に教えていただいた。
極楽寺 
 左手にJR若松駅を見るあたりから暫くは旧道が失われているようだ。地図には駅の横から右斜めに進む道と、駅の先から右斜めへ進む道の二つが描かれていたが、駅の横から山手に上る道を歩いた。修多羅小学校の横から金比羅宮の鳥居の横を通り、急坂を下る。その先で再び坂を上り、左折して古前小学校の前を通って進む。地図で見ると宮丸一丁目のあたりは僅かの間、旧道が残っているようだが、特に遺構は残っていなかった。
 右手に「白山神社」がある。ここは当初元正天皇の霊亀2年(716)に加賀国石川郡白山権現(現石川県白山比咩神社)を童子丸の地へ勧請して女躰権現として祭り、寛永5年(1628)童子丸の社を現在地に遷して白山権現と改めたという。ここには嘉永2年(1849)、白山神社に奉納された一人一面形式の「板絵著色三十六歌仙図絵馬 三十六面」があり、市指定有形文化財になっている。寛永3年(1626)と刻まれた鳥居が立っていた。
白山神社 
 この先も旧道は失われており、その先にある「日吉神社」の下は明治15年字図では縦横に道があって不明、と資料に書かれていた。
 199号線を歩いていくと日吉神社が右手にある。ここは第52代嵯峨天皇の御代(809~823)に近江国〈現滋賀県)の日吉大社の御分霊をこの二島の地に遷座されたのが始りと伝えられている。 
日吉神社 
 左手に大きなショッピングセンターがあり、その先から199号線に併行して左手に旧道が暫くの間残っているが、やがて199号線に合流する。
 鴨生田の信号から左折して江川大橋を渡り、すぐに右折して川沿いの遊歩道を歩く。資料では川を挟んで両側に旧道があったようになっている。川沿いを歩いていき、新払川大橋を渡って対岸へ出、そこから再び川沿いに進んでいく。その先で26号線に合流するが、その先で、旧道は再び二手に分かれているので、汐入橋を渡って進もうとしたが、若戸病院のところで道路が工事中になっていて通行できなかったため、引き返して橋を渡って対岸を進み、汐入大橋を渡って先ほどの旧道の延長線上にある道を進む。右手に小敷橋がある。 
 左手に「太閤水」がある。文禄元年(1582)豊臣秀吉は朝鮮出兵のため、肥前名護屋に出陣したが、そのとき大坂から肥前名護屋までの道々に太閤塚や給水所を整備した。この地小敷においても里人に命じて飲料水を得た。後に石を畳んで井戸にし、太閤水と名づけたと説明されている。太閤水はこれから先も街道に残っていた。
太閤水 
 その先で道は土道になり、高須橋で行き止りになるので、橋を渡って26号線に合流して進む。浅川橋があり、この横を進むが、丁度店があったので、入って昼食にする。
 26号線を進んで行き、向田橋の信号のところで、道をまちがってしまったが、すぐに気がついて、引き返し、川に沿って進んでいく。
大君神社 
 右手に安徳天皇の霊を祭る「大君神社」があり、このあたりの地名も大君となっている。小高い山の上に神社はあったが、屋根だけがある建物があり、その向こうの林の中に小さな祠が立っているのみだった。この先も旧道は失われていたので、大君団地の裏を回り、森の中を通って舗装された道に出、総合運動公園入口の信号を左折して進み、山鹿唐戸の信号を右折、その先を左折して進む。
 その角に城山神社がある。嘉永6年(1853)の石柱が立っており、庚申塔と猿田彦があった。
城山神社 
 右手に「安楽寺」がある。ここには元暦元年(1184)の創立といわれる「輪蔵附経蔵」があると案内板が立っている。それによると輪蔵、経蔵共に保存は良好であるが傳大士・脇侍は破損していると書かれている。これは豪商倉野儀兵衛義知の嫡子義寿が安政5年(1858)寄進したと説明されている。
安楽寺 
 芦屋橋は工事中で仮橋で遠賀川を渡り、その先で右折して進むと右手に「福岡藩焚石會所跡」の石柱が立っている。焚石(石炭)は福岡藩の独占事業として財政を助けたが、明治5年に廃止されたと説明されている。
福岡藩焚石會所跡 
 その先、分かりにくいが、左手に塩田屋薬局があるところから、左折して進むと左手に「蘆屋警察署址」の石柱が立っている。明治8年に警察掛巡視所として設置されたが、明治22年に若松に移り、芦屋は分署になったと説明されている。
蘆屋警察署址 
 右手街道から少し入ったところに「遠賀郡役所址」の石柱が立っている。それによると明治6年遠賀郡猶調所が設置され、明治9年遠賀郡役所になった。明治31年に折尾に移転するまでここで地方行政を行っていたと説明されている。
遠賀郡役所址 
 左手に「筑前蘆屋宿場構口の跡」の石柱が立っており、その横に弘化2年(1845)の一宇一石塔と猿田彦が立っている。
筑前蘆屋宿場構口の跡 
 芦屋宿は宿場町としてよりも遠賀川を使った物流拠点として栄えた側面が強かったようで、宿場としての遺構は何も残っていないため、ここでカウントする。
 13時54分、芦屋宿を通る。
 若松から6時間34分、19.9km。

 その先、芦屋小学校の先から航空自衛隊芦屋基地が広がっており、旧道は失われてしまっているので、基地の周囲をグルッと回るような形で495号線に沿って歩く。左手に芦屋競艇場があり、練習をしているのか、エンジン音が聞こえていた。ギャンブルはやらない私だが、芦屋競艇はよく耳にするところだ。
 その先、木原酒店があるところで左折するとすぐ先に粟屋のバス停がある。基地で失われた旧道はここから少し右手に戻ったところから残っている。暫く行くと岡垣町に入るが、その先で左斜めに伸びる旧道があるので、これを歩く。ただ距離は短い。
 その少し先で495号線が右へカーブするところがあり、旧道はここを直進する。
 旧道に入ると急に車が少なくなり、静かになる。左手に須賀神社があり、その先に庚申塔が二つ祀られている。資料には「さいのかみ」と書かれている。
庚申塔二つ 
 前牟田橋を渡ってすぐに左折し、川沿いを歩く。川から離れたところで、左手に広渡造園の建物があるところから、右斜めへ伸びる旧道を進む。
 「氏森神社」が右手にある。ここは山田村大坪にあった氏森神社と山田村押田の聖母山にあった氏守八幡宮を寛永年間に領主黒田公の寄進により合祀したと説明されている。神殿の裏に「安産腰掛石」がある。参拝した婦人はこの石に腰を掛けて安産を願えば霊験あらたかといわれている。あまり安定がよくないようだが、妊婦が座って大丈夫なのだろうかといらぬ心配をしてしまった。
氏森神社 
 3号線の高架下を通って、山田小学校を左に見ながら進み、287号線を横断して山田バス停から左折、突き当りを右折して進む。その先で道をまちがってしまい、グルッ一周する形で海老津駅に出た。今日はもう一つ先の教育大前駅まで行こうかと思っていたのだが、この失敗でなんとなく気持ちが萎えてしまい、一日中陽射しが強かったこともあって、無理をしないことにして海老津駅で終わることにした。
ただ次回のことを考えて旧道の場所を確認だけしておくと右折したところを直進すればよかったということが分かった。
 16時30分、海老津駅に着く。

 本日の歩行時間   9時間10分。
 本日の歩数&距離  51222歩、32.4km。

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