唐津街道を歩く

2009年05月25日(月) ~2009年06月01日(月)
総歩数:213017歩 総距離:140km

2009年06月01日(月)

前原~深江~浜崎~唐津

                                 晴れ

 7時55分に前回歩いたところから出発する。
 すぐ先右手に追分石が立っている。「左 加布里 唐津街道」「右 舩越港道二里」という字はわかったが、それ以外の字は読み取ることができなかった。
追分石 
 その先で202号線に合流する。
 筒井町西の信号で202号線と分かれて左斜めへ進み、萩ノ浦踏切でJRを横断して進む。左手に萩浦公民館があるところで道は二股になっているので、これを右へ進むと、右手に美咲ガ丘駅があり、その先で道は左へカーブしている。多久川に架かる萩浦橋を渡って右折、古野際踏切を渡って左折する。右手に庚申塔がある。
 長野川に架かる赤坂橋を渡り、赤坂の信号を左折して202号線と分かれて進む。加布里小学校を右手に見ながら進むと、加布里公民館前の信号の先で道は二股に分かれており、右斜めの道を進む。左手に庚申塔が立っている。
庚申塔 
 502号線に合流したところ、左手に「西宮神社」がある。
西宮神社 
 その先左手に「一貴山 銚子塚古墳」がある。ここは糸島地方最大の前方後円墳で、地元では「金の銚子が埋まっている」との伝説から銚子塚と呼ばれている。築造時期は石室構造や出土遺物から4世紀後半と考えられており、古墳時代前期、大和朝廷と強い繋がりを持った、糸島一帯を治めていた首長の墓と考えられていると説明されている。古墳を登っていっていると踏み出した足のすぐ先を蛇が横切っていった。もう少しで踏みつけるところで思わず「ワァ!」と声が出る。蛇もこの時期になると動きがすっかり早くなっている。幸い逃げてくれる蛇だったのでよかったが、何度出会ってもあまり気持ちのいいものではない。銚子塚古墳 
 右手に地蔵堂があり、その先に諏訪神社がある。
諏訪神社 
 すぐ先から二股に分かれている道を右斜めへ進む。
 左手に道標があり「是れ従り りゅうこく道」と刻まれている。
 その先右手に熊野神社がある。明治5年に村社に定められ、明治24年に現在地に遷座したと書かれている。
熊野神社 
 右手に道標があり、「八幡八幡宮 是ヨリ北エ三丁入」文化2年(1805)と刻まれている。
八幡宮道標 
 更にその先羅漢川に架かる上新川橋の横に追分石が立っている。それには「左 加布里道 十七二十九間二尺」「東 前原驛一里十六町一間三尺」「西 深江驛 二十七町二十六間三尺」とえらく詳細な距離が刻まれている。
追分石加布里 
 突き当りを左折、最初の角を右斜めへ進むと右手に「松末稲荷神社」の鳥居が立っている。
 その先に「松末天満宮」があるが、ここの鳥居には享保と刻まれている文字を読み取ることができた。
松末天満宮 
 道なりに進んでいくと202号線を横断して松末羅漢川に突き当たるので、右折して川沿いに歩いていく。その先で202号線に合流して進んでいき、前方に深江橋が見えるところで左折して二つの橋を渡り、更にその先の塩屋町橋を渡って進む。左手に天満宮の鳥居が立っており、その奥に塩屋公民館があった。
 突き当たりに正覚寺がある。ここは元享年間(1321)に開基されたが、元享3年(1431)に戦火で全焼してしまった。天正7年(1579)現在地に再建して開山となったが、文化4年(1807)火事に遭って元禄門(現在の側門)とご本尊を残すのみだった。その後文化11年(1814)に現在の本堂が再建されたと説明されている。
正覚寺 
 ここを右折して進む。
 左手に立派な屋敷があり、ここが深江宿の庄屋さんだったところだ。
深江宿庄屋 
 ここでカウントする。
 10時16分、深江宿を通る。
 前原宿から2時間21分、8.9km。
 右手に「深江神社」がある。ここは高祖城主原田種直が建仁3年(1203)現在地に開基したものだ。天正20年(1592)豊臣秀吉が名護屋城に在陣しているときにこの神社を参拝した。ちょうどそのときに秀頼誕生の報告を受けたので、この神社を秀頼公の産神と思い、時の領主小早川隆景に命じて社殿を再興した。隆景も石の鳥居を奉納したが、それが現在の第二の鳥居であると説明されている。
深江神社 
 右手に小さな社があり、左手に猿田彦があるところから右折して
猿田彦 
 深江小学校の周囲を回るようにして進み、柳川橋を渡り、突き当りの草道を左へ進んで、202号線に合流、少し左へ戻る形で進んで右手川の下第2踏切を越え、すぐに右折して進む。
 左手、石垣の上に「鎮懐石八幡宮」がある。神功皇后が応神天皇を懐妊しながら朝鮮半島へ出兵した時、卵形の美しい二個の石を求めて肌身に抱き、鎮懐として出産の延期を祈られた。願いは叶って帰国後宇美の里で応神天皇を出産、経尺の璧石を子負ヶ原の丘の上に奉納したので、これを鎮懐石と称して皆が崇拝するようになった。神功皇后が懐妊されていながら、朝鮮へ出兵したという古事は各所で語られているので、本当のことのようだ。それにしても戦いが終わるまで出産の延期を願うなど、すごい迫力だ。どのような人物だったのだろうと興味が湧く。
鎮懐石八幡 
 拝殿の床板は85cmを越える幅広い松板が使われており、当時この周辺に大きな松が多かったことを物語っている。
拝殿床 
  またここには「鎮懐石萬葉歌碑」があるが、これは安政6年(1859)に建てられた九州最古の萬葉歌碑といわれ、流麗な書体は美術的にも価値が高いものとされている。
鎮懐石萬葉歌碑 
 「鎮懐石碑」も立っており、これは文化11年(1814)に建てられた碑で鎮座の由来を書いている。その前には「船繋石」がある。
鎮懐石碑 
 境内にトイレがあったので使わせていただこうと思ったが、鍵がかかっていた。仕方がないのであきらめて行きかけると、社務所から奥さんが出てきて鍵を開けてくれた。奥さんの話では最近唐津街道を歩いている人が多いということだった。
 神社の前を通って草道を進み、萩の原第一踏切を渡って202号線に合流する。
 その先で佐渡橋を渡り、佐渡踏切を渡って、最初の角を右折して進む。ところがこの場所は地図のコピーを失敗しており、そこから先が切れいていることにここで気がついた。困ったなと思っていると、ご近所の方がおられたので道を聞くと、唐津街道は202号線を行くのであってこの道は集落の中の道なので違うといわれる。地図がないのでしかたなくその言葉に従って、一旦202号線に戻って進んだが、その先で左手から合流する道がある。どうも旧道のような感じなので、ここから戻ってみると、先ほどの道へ出た。帰宅して地図を改めてみてみると集落の中に残っている道が旧道だったようだ。
 左手に大入駅があり、ここで202号線と分かれて右折して進むのだが、その横にコンビニがあったので、ここで昼食を摂る。
 海岸沿いを歩いてグルッと遠回りするような形で進むと右手に庚申塔があり、その先で202号線に合流する。
 右手に庚申塔が立っており、その先で再び202号線と分岐して右斜めに進む旧道を歩き、福吉の集落の中を歩く。
大入庚申塔 
 集落を過ぎ、202号線を横断して西縄手第3踏切を渡って進むと、少しの間だが右手に杉並木がある。
杉並木 
 左手に池があり、その先で右手に鎖で通行止めにしているところがある。ここが旧道の入口だろうと思ったが、その先は藪に覆われているようだ。強行突破してみようかと思ったが、やめて舗装された道を歩いていく。地図を見るとその先の愛宕神社の辺りに旧道は繋がっているようだったので、注意をしてみてみたがそれらしい道は全くなく、ゴルフ場の入口あたりは金網が張られていて舗装道に出ることもできない状態だったので旧道は完全に失われているようだった。
 「愛宕神社」が右手にある。ここが立花峠の頂上だ。その先右手に「古代の道標」という看板が立っていて、その横に草道が下っているのでこれを進む。
古代の道標 
 一旦舗装された道に出、左手前方に牛舎があるところから右折する旧道があるのでこれを進む。牛舎の牛は見えなかったが、臭いで牛舎ということが分かった。
 その先、左手にミラーが立っているところで左の坂を下っていき、突き当りを右折して進む。
ミラーで左折 
 地図に書かれているように右手にホース格納庫がある。
 右手に「白山神社」がある。文久3年(1863)や天保14年(1843)と刻まれた常夜燈があった。
白山神社 
 右手に鹿家研修施設があるところから左折して進むと、左手階段を上ったところに永見寺がある。
永見寺 
 岸高橋を渡ると右手に鹿家下公民館があり、ここから右折する旧道があるが、土地の方からここも歩くことができないといわれたので、舗装された坂道を上る。十字路があり、これを右折して進む。
 その先で二股に分かれているところがある。おばさんがいたので道をお聞きすると右へ進むという。ただ旧道はあのあたりを通っているといって教えていただいた。今は歩くことができないが、出口はあるといわれていた。おばさんは枇杷をちぎっていて、両手一杯にもぎたての枇杷をくれた。枇杷はちぎりたてが最もおいしいので。早速いただいたが、甘みがあってとてもおいしかった。
枇杷 
 枇杷を食べながら話をする。以前は枇杷を出荷していたが、今は年をとったので出荷していないと言われていた。毎年猿が枇杷を食べて被害が出るそうだが、今年は被害が少なかったそうだ。地面に近いところには電気を通した針金が張っており、これは猪除けということだった。野生の動物がかなり出没しているようだった。
 その先で右手から旧道らしい道が合流していた。大分荒れているようだったが、冬であればこの道は歩くことができるかもしれないと思った。
 山を下ると202号線に合流する。右手に福岡県、佐賀県の「縣界標」が立っている。
県境碑 
 海側を見ると変わった岩がある。これが「包石」というものだ。
包石 
 この岩を見ながら202号線を進んでいったが、地図では左斜めへ上るようになっている。それで一旦県境のところまで戻ってみると左手線路へ上る道があるのでこれを上って線路を横断して畑の中を進んで行き、更に坂を上ると車道に出た。上る途中で左から旧道らしき道が合流していた。車道を右折して進むと側道が通っているので、これに沿って歩いていき、その先で二股に分かれているところがあるので、左折してガードをくぐって進む。小浜踏切でJRを越えて202号線に合流、玉島橋を通って進む。明治の頃はここから左折して川の上流へ行き、明治橋のところから川を渡ったように地図にはなっている。
 橋を渡ってすぐに右折、右手に地蔵堂がある。最初の角を左折して202号線に再び合流、右折して進むと、右手に西福寺があり、その道路を挟んだ前に立派な旧家があったので、ここで一応カウントしておく。浜崎宿は遺構が全く残っていない。
浜崎宿 
 15時40分、浜崎宿を通る。
 深江宿から5時間24分、16.3km。

 浜玉支所前の信号を左折して進み、その先の40号線を右折して進むと、右手に「諏訪神社」がある。ここは延暦3年(784)に創建されたもので、昔韓人斎来が鷹狩りの鷹を朝廷に献上しようとし、勅使諏訪の前はこの地で鷹を受け取った。ところがこの神鷹が三本松という畑の中で蝮の害に遭ってしまったので、諏訪大神はお怒りになり、この地より蝮を払い除けてしまった。諏訪の前は責任を感じて自害したので、地元の人達がその徳を慕って合祀したという。このことから古来より蝮除けの神社とされているということだ。これからも街道を歩く身にとって、蝮には出会いたくないので、しっかりとお願いをしておく。
浜崎諏訪神社 
 浜崎駅へ通じる道路の先で道は二股に分かれており、右斜めへ進むと347号線に合流するので、これを左折して進む。
 虹の松原と呼ばれる松林の中を進んでいく。ここは日本三大松原の一つで総延長役4781m、横幅平均448mあり、大正15年わが国最初の史跡名勝天然記念林と防風保安林を兼ねた特別保護林に指定された。ここは玄界灘に面し潮風による農作物の被害がひどかったので、初代唐津藩主寺沢志摩守広高はこの地に松を植えさせ、保護育成した。その際「この松原には特に自分が愛する松が七本ある。これを傷つけたものは死刑に処す」と言って、その松がどれであるか明示しなかった。そのため松林は盗伐から守られたという。松林の中の道なので快適な道を考えていたのだが、歩道がなく、しかも車の通行量が多いので、あまり快適ではなかった。
虹の松原 
 左手に国境石が立っている。対州領と唐津藩の国境で「従是東對州領」と刻まれている。
国堺石 
 松林が途切れると正面海沿いの小高いところに唐津城が見えてくる。
唐津城 
 舞鶴橋を渡ったところでカウントする。

 17時6分、唐津に到着する。
 浜崎宿から1時間26分、6.6km。

 唐津城から唐津市内を散策しながら、唐津駅に着き帰宅する。
 唐津街道はここで終わるが、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、呼子に名護屋城を築き、当時30万の兵がそこに集結していたことから、唐津から呼子までの間にその軍勢が通った道があるはずだと思った。唐津市役所に連絡をしてみたところ、「太閤道」と呼ばれる道があるというので、地図を送っていただいていた。折角ここまで歩いてきたので、その太閤道を歩くつもりでいたのだが、唐津街道の藪がかなり繁茂しているのを見て、市役所にこの時期太閤道を歩くことが出来るか確認をしてみると、この時期は藪で道が失われている箇所がかなりあり、個人で歩くのは無理だと思われるとのこと、それに「マムシ」もいるので市役所の方々もこの時期は歩かないということでやはり想像通りだった。先ほどの諏訪神社に参拝をしたからといって「マムシ」除けのご利益があるとは限らないので、結局歩くことをあきらめた。ちょっと残念だった。

 本日の歩行時間   9時間11分。
 本日の歩数&距離 52516歩、35.7km。

 唐津街道総合計
 総歩行時間 37時間29分。
 総歩数    213017歩。
 総歩行距離 140km。
 宿場間距離 125.9km。(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離)

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記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん