唐津街道を歩く

2009年05月25日(月) ~2009年06月01日(月)
総歩数:213017歩 総距離:140km

2009年05月29日(金)

香椎駅~箱崎~博多~福岡~姪浜~前原 

                             曇り時々雨

 7時5分に香椎駅前の街道(504号線)を出発する。右手に西鉄香椎宮前駅を見ながらJRの踏切を渡って進む。左手に博多高校、その先に多々良中学を見ながら進み、3号線に合流する。
 若宮入口の信号の先、歩道橋がある手前で一旦3号線を離れて右斜めに進むが、すぐ先で3号線に合流する。
 火の見下の信号を横断し、左斜めへ進むと左手に「三面地蔵」がある。
三面地蔵 
 504号線を進んでいき、多々良川に架かる大橋を渡る。
 都市高速の高架下を通って進むと、左から合流する道があり、その交点に道標が立っている。
道標1 
 多々良新川に架かる浜田橋を渡って進み、松島3丁目の信号を横断して直進する。その先、松島1丁目の信号の先で道は二股に分かれているので、右斜めへ進み、原田橋を渡っていくと、21号線に合流するので、これを右折して進む。
 筥松新橋を渡り、JRの高架下を通って進み、箱崎3丁目の信号の次の信号を左折して進む。
 左手に「筥崎宮」がある。ここは醍醐天皇の延長元年(923)に創建され、延喜式神名帳に八幡大菩薩筥崎宮一座名神大社として掲載されている。宇佐・石清水両宮と共に日本三台八幡として朝野の崇敬厚く、特に鎌倉時代以降は武神として武家の信仰を集めたところだ。「敵国降伏」の宸翰を掲げる楼門は伏敵門として有名である。国指定重要文化財となっている本殿・拝殿は天文15年(1546)大内義隆再建、楼門は文禄3年(1594)小早川隆景造営、石造一ノ鳥居は慶長14年(1609)黒田長政建立、石燈籠は観応元年(1350)の在銘、また天正15年(1587)千利休寄進がある。
箱崎宮 
 箱崎宿は全く遺構が残っていないため、ここでカウントする。
 8時32分、箱崎宿を通る。
 青柳宿から3時間40分、15.5km.
 左手に福岡県庁があるところの右側に「崇福寺」がある。ここは仁治元年(1240)湛慧禅師によって創建されたが、天正14年(1586)の島津氏と大友氏の合戦によって焼失、慶長5年(1600)福岡藩初代藩主黒田長政によって現在地に再建され、黒田家の菩提寺になった。ここの山門は福岡城本丸表御門だったが、大正7年にこの地へ移設されたものだ。
崇福寺 
 また名島城から移築されたといわれる「唐門」が境内にあるが、これは市内に残る唐門の中で最古のもの。山門と共に福岡県有形文化財に指定されている。
唐門 
 境内の北西には黒田如水や長政をはじめ四代、六代、九代の藩主などを祭った「福岡藩黒田家墓所」がある。ここは昭和25年に改葬が行われ、墓域は以前の5分の1程に縮小され、現在12基の石塔が並んでいる。中に入ることはできなかったので、門の外から写真を撮る。
福岡藩黒田家墓所 
 千代3丁目の信号で信号を渡って、左側の旧道に入らなければいけなかったのだが、ついそのまま直進してしまった。右手に「濡衣山松源寺」がある。ここは寛文9年(1669)了満法師の開基で本堂は慶長12年(1607)黒田長政建立の崇福寺仏殿を後年ここに移したと説明されている。
濡衣山松源寺 
 この後、石堂大橋を渡って直進してしまった。蔵本の信号を通り過ぎて暫く行ったところでようやく間違いに気づき、後に戻ってやり直す。ヤレヤレだ。
 改めて歩いてみると、御笠川に架かる石堂橋の横に「濡衣塚」が立っている。ここは聖武天皇の頃(724~749)、筑前国司・佐野近世の娘が継母に無実の罪を着せられ、近世の手によって殺された。これが「濡れ衣」の由来となった出来事で、ここはその娘を供養した塚と伝えられている。高さ165cm、玄武岩製の板碑と呼ばれる中世特有の石造物で、康永3年(1344)に建立。正面の太く刻まれた3つの梵字は上が大日如来、右下が宝幢如来、左下が天鼓雷音如来を表現しているということだ。
濡衣塚 
 その先リバレインの手前で右折して3号線に合流する。このあたりは旧道が失われているようだ。このあたりが博多宿となっているようなので、ここでカウントする。
 9時41分、博多宿を通る。
 箱崎宿から1時間9分、2.6km。
(もっともこのあたりは道を間違って歩いており、距離のみ参考になります)
 西中島橋を渡って進むと、左手少し入ったところに「水鏡神社」がある。この神社は一名水鏡神社といい、延喜元年(901)菅原道真公が大宰権帥に左遷されて博多に上陸した時、四十川(現在の中央区今泉)の清流を水鏡にして姿を映されたので後世その地に社殿を建てて水鏡天神、又は姿見天神といった。慶長17年(1612)初代藩主黒田長政が現在の地に移築遷座し、寛永18年(1641)二代藩主黒田忠之が社殿を再建した。現在福岡市の中心にある「天神」という地名は当社に由来すると説明されている。
水鏡神社 
 昭和通りに戻って進むが、このあたりは博多の中心街でもあり、人通りが多い。今日は朝から風が強く、昼前後から霧雨が降り続いている。日が照るともう暑いが、だからといって雨の中を歩くのもあまりいいものではないと贅沢なことを考えながら歩く。
 左手に大濠公園があるところ、旧道は荒戸の信号の手前から右斜めに伸びていたようだが、現在では失われているので、荒戸の信号から右折、すぐ先で左折して昭和通に併行して進む。
 福岡宿も全く何も残っていないので、ここでカウントする。
 10時42分、福岡宿を通る。
 博多宿から1時間1分、3.1km。
 唐人町のアーケード街を通り、抜けたところから左折して進むが、そのまま直進すると正面に善龍寺がある。
 右にカーブしながら557号線を横断して進むと右手に「鳥飼八幡宮」がある。朝鮮出兵から帰着した神宮皇后が鳥飼村平山というところに着いたので、鳥飼村の人々が厚くもてなしたところ皇后は大いに喜び、この地に泊まって近臣たちにも杯をふるまった。その後、村ではこの地に社を建て『若八幡』と名付けて奉拝したのが鳥飼八幡宮の起源とされている。
鳥飼八幡宮 
 その先、右手に「金龍寺」がある。ここは永正5年(1508)に建立され、慶安2年(1649)の黒田忠之が現在地に移築したといわれている。
金龍寺 
 境内には福岡藩医の家に生まれ養生訓などで有名な貝原益軒・東軒夫婦の墓がある。また「倉田百三福岡寓居の記」と刻まれた石碑が立っている。それによると出家とその弟子を大正6年に出版した倉田百三は病気療養のため、今川金龍寺境内の貝原益軒記念堂(後の金龍幼稚園)に一年余仮寓したと書かれている。
貝原益軒 
 その先、西新の商店街で昼食を摂る。ここの商店街は人が多く、活気があるように思う。藤崎の信号で明治通りに合流し、金屑川に架かる飛石橋を渡り、更に室見川に架かる室見橋を渡って進む。
 右手に「愛宕神社」の参道である階段があるので、街道を離れて上っていった。ここはかなりの高台にあるようで、階段はきつかった。ようやく上ると曇り空ではあったが、高いだけあって眺めがよく、能古島や玄海島などが一望に見渡せられた。この神社は十二代景行天皇(72)に創建されたという古い神社で、福岡最古、東京、京都と並ぶ日本三代愛宕の一つとして有名な神社ということだ。ここは昭和3年に日本で二番目、九州では初となるロープウエイが作られたそうで、参拝客や観光客で賑わっていたということだ。しかし戦争中にロープ、ワイヤー、車体まで供出し、男性従業員が徴兵されるなどしたため、昭和18年に廃止されたということだ。
愛宕神社 
 街道に戻り、愛宕西の信号の先で右斜めへ伸びる旧道に入り、その先姪浜1丁目の信号で明治通りに合流して進む。
 姪浜小学校の信号で左にカーブする明治通りと分かれて直進する旧道を進むと右手に「住吉神社」がある。ここは天平15~16年(743~744)に建立、応永23年(1416)現在地に遷座したという。神功皇后が応神天皇を胎内に宿したまま新羅に遠征し、戦いに勝って帰国した時、当地の小戸付近の浜に上陸し、濡れた衵(アコメ)の御衣を乾かされたので衵ヶ浜(後転じて姪浜)といい、現在の宇美において応神天皇を出産されたと伝えられている。
住吉神社 
 また、イザナギ尊が禊払いをされるとき、河童が現れ道案内のお手伝いをしたことにより除災招福の神の使いになったという伝承があり、境内には河童の像が立っていた。
河童 
 また樹齢700年という御神木が立っており、神社の古さを象徴しているようだ。
住吉神社ご神木 
 姪浜宿は何も遺構が残っていないため、ここでカウントする。
 13時2分、姪浜宿を通る。
 福岡宿より2時間20分、5.6km。

 その先で明治通りに合流する。興徳寺橋の袂に庚申塔が立っている。
 道は「生の松原」に入っていく。右手松林を抜けて海岸へ出ると「元寇防塁」が約50mに渡って復元されている。文永11年(1274)約3万人の元軍は対馬や壱岐を襲った後、博多へ上陸して甚大な被害を与えたので、鎌倉幕府は再来襲に備えて建治2年(1276)約20kmに元寇防塁を築かせた。
生の松原 
 この生の松原地区は肥後の国(熊本県)が分担し、海側に高さ2.6m前後の石積みを行い、陸側には土と砂を突き固めた通路を設置したものだった。弘安4年(1281)に元の大軍は再び日本を攻めてきたが、上陸はできなかったということだ。
元寇防塁石垣  
 松林を抜けると右手は海が広がっている。今日は風が強いので波しぶきが道路まで上がってきて、歩いているとしぶきをかぶってしまった。
海 
 その先でもう一カ所元寇防塁があると案内が出ている。ここは石積みではなく、土塁で、盛土になっていた。ここは豊前の国が担当したといわれているそうだ。丁度草刈をされていたが、こうして管理をすることも大変なことだろう。
元寇防塁土塁 
 すぐ先にガソリンスタンドがあり、その先から右斜めへ伸びる旧道を進むと右手に二宮神社がある。ここは今宿五郎江(現今宿小学校)にあったものを正徳年中(1711~1715)に現在地に遷座したといわれており、稲の生産豊穣と疫病厄除、福徳開運の神社として親しまれていると説明されている。この神社のすぐ後ろには海が広がっている。
二宮神社 
 その先左手角に「右櫻井道」と刻まれた追分石があるので、ここを左折する。
右櫻井道 
 今宿の信号を渡っていくと左手に宿場の名残という「馬つなぎ石」がある。
馬つなぎ石 
 今宿も遺構が残っていないのでここでカウントする。
 14時42分、今宿を通る。
 姪浜宿から1時間40分、6.1km。

 その先の今宿横町の信号で左折、JRの高架下を通って進みその先で左折。前方に福岡前原道路が見えるところ、バイバスの一つ手前、高架下の次の十字路を右折して進む。このあたり道路工事が行われており、ちょっと分かりにくかった。
 左手に「丸隈山古墳」がある。これは江戸時代初めに発見されたもので、5世紀前半に築かれた前方後円墳、男性人骨と鏡をはじめとした副葬品が残っていたことからこの地域を代表する首長の墓と思われているということだ。階段を上って行くと横穴式石室があった。
丸隈山古墳 
 その先右手に「伊覩神社」がある。850年頃、仲哀天皇ならびに神功皇后に仕えた伊覩の国の県主(古墳時代の地方長)を祀っており、先ほどあった丸隈山古墳がこの県主命の墓といわれているそうだ。
伊覩神社 
 左手に周船寺小学校があり、その先から右折、高田東の信号で202号線に合流、左折して進む。瑞梅寺川に架かる池田橋を渡り、左手に大きな集合住宅のあるところから右斜めに旧道が僅かに残っている。ここは目印がないので、少し行き過ぎてから気がつき後に戻って進む。これを歩くと川に突き当たるので、一旦202号に合流して潤橋を渡り、その先で先ほどの旧道の延長線上の道を進む。潤の信号で202号線に合流して進む。
 右手に八幡宮があり、天正8年(1580)と刻まれた石柱が立っている。ここは創建は不詳で明治5年に村社に列格、明治9年に社殿建立、平成5年に再建と説明されている。
八幡宮 
 上町中央の信号から道は二股に分かれているが、202号線を進み、左手に前原郵便局があるところから右斜めへ進むと、「人馬継所」の表示板が立っている。
人馬継所 
 その先、古い建物があるところから右折していくと「法林寺」がある。ここは天正2年(1574)に創建されたが、このあたり一帯が前原宿の本陣跡という。
法林寺 
 ここでカウントする。

 16時52分、前原宿を通る。
 今宿から2時間10分、8km。


 ここから筑前前原駅へ行って帰宅する。

 本日の歩行時間   9時間47分。
 本日の歩数&距離 56599歩、37.4km.。

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