山陰道(兵庫県)を歩く

2010年05月30日(日) ~2010年10月08日(金)
総歩数:124134歩 総距離:83.3km

2010年10月07日(木)

村岡~養父

                     晴れ

 7時30分に出発するとすぐに村岡トンネルに入る。790mあるこのトンネルは歩道がなく、すぐ横をトラックが猛スピードで走り抜けるのでかなり怖い。このトンネルの上部に旧道があったようだが、今では道がなくなっていて歩くことができないようだ。トンネルを抜けると温度標示計があり、9℃を示している。深い山の中なので気温が低いが、それでも歩く上では丁度いい気温だ。その先で9号線から分岐して左折、湯舟川沿いに進む。川向こうに鹿田山荘らしき建物がみえる。最初はここで宿泊する予定だったのだが、ドライブイン日本海の方が実際の運営をやられているそうで、食事は日本海から同じものを持ってきているそうだ。それなら日本海に泊まったほうが店も便利だろうと思って日本海に宿泊をしたのだ。この近辺ではこの二軒しか宿泊できるところはない。
 鹿田大橋を右に見ながら9号線を横断、湯舟川沿いを道なりに進むと突き当たりに「厳浄寺」がある。ここは応永年間(1394~1428)にこの地に移転し、その後火災、戦災で二度焼失。延宝5年(1677)に現在地に再建されたという。薬師堂には元禄年間に村岡藩主山名隆豊が奉納した釈迦牟尼立像が安置されているという。門前には安永4年(1775)の大乗妙典六十六部供養塔が立っていた。
厳浄寺 
 ここから右折、昆陽川に架かる大橋を渡って進み、村岡の商店街の中を通る。
 左手に「大運寺」がある。ここは延慶元年(1308)美方町貫田に創建されたと伝えられているが、その後の約二百六十年ほどは記録が途絶えており、その後に山名氏の領地となって慶安元年(1648)に現在地に移転したという。享保元年(1716)に焼失、現在の堂の建物は明和2年(1765)に再建されたということだ。門前に文化6年(1809)の題目石が立っていた。
大運寺 
 その先で9号線に合流する。
右にたじま農協倉庫がある先から道は二股に分かれており、右へカーブする9号線と分岐して直進する。このあたりも旧道は山手にあったようだが、痕跡を見つけることが出来なかったので、そのまま進んでいく。
 左手に「大糠神社」があり、境内に文久2年(1862)、文政6年(1823)と刻まれた常夜燈が建っており、その横に「観音堂」が建っている。ここには近世の六十六部廻国修行者たちの無数の墨書が認められるそうだが、中をみることは出来なかった。
大糠神社 
 その先に地蔵尊、地蔵堂があり、小さな川に架かる水舟橋を渡って左折、坂を上って行く。
 最初の三つ角を右折して、坂を下ると右手に年不詳の六地蔵がある。
年不詳の六地蔵 
 更に道なりに進んでいくと、舗装道が途切れてあぜ道になるが、道は続いているので、これを進むと左手に名号石が立っている。
名号石 
 このあたりに来ると道は藪に覆われていて歩き難い。長い距離ではないが藪コギをしながら進んでいくと、舗装された道に出る。
 藪からの出口に岩があり、それにロープが巻かれていた。注連縄ではないようなので、何か意味があるのかな?と思ったが良く分からなかった。
出口に岩 
 ここから先は圃場整備で道が消失してしまっているので、右折し、すぐ先で左折して舗装された道を進む。
 左手に地蔵尊三体を安置する小堂があり、その先にも地蔵尊三体を祀る小堂があり、その横に寛政7年(1795)の「妙見道丁地蔵六十六部供養塔」、年不詳の「右 京、 左めうけんみち 是より七十五丁」と刻まれた道標、さらに宝暦7年(1757)の廻国供養塔が立っている。
寛政7年 
 ここで道は二股に分かれているので、これを右へ進むと9号線に合流する。
 その先、点滅信号から左折、最初の三叉路を右折して進むと、右手に天保11年(1840)の常夜燈が立っている。
天保11年 
 道なりに進んで一旦9号線に合流、すぐ先から再び左折して進むと、左手に享和元年(1801)の「精米二合報謝一万人供養」塔、光明真言・阿弥陀仏供養塔、享和2年(1802)の光明真言供養塔が並んで立っている。
享和元年 
 農道を進んでいくと、右手に「経塚」が二基並んでおり、そのうちの一基には嘉永3年(1850)と刻まれている。
経塚 
 その先で一旦9号線に合流、「ハチ北高原」の看板が立っているところから、再び9号線から分岐して左へ坂を上る。墓地の中、左手に寛政元年(1789)の大乗妙典六十六部廻国塔が立っている。
寛政元年 
 その先、交差点の左手に「南無地蔵尊 右めうけん 左むらおか」と刻まれた寛政12年(1800)の道標が立っている。
南無地蔵尊 
 この交差点から東の山へ向かう小道もかっては妙見山への参道だったということなのだろう。
 地蔵堂があり、堂内には元文5年(1740)と刻まれた地蔵尊が安置されている。このあたりを含め兵庫県は地蔵尊等の石仏が多い。
元文5年 
 一旦9号線に合流するが、ハチ北口の信号で再び9号線と分岐、直進する。兎塚公民館の前を通って進み、その先の突き当たりを左折して進むと、左手に宝暦10年(1760)の廻国供養塔、宝暦2年(1752)の六十六部宿供養塔、宝永元年(1704)の名号石、更に地蔵堂があって九体の地蔵尊が安置されている。
宝暦10年 
 ここから左折して9号線に合流、その先にある道の駅ハチ北から9号線と分岐して9号線と併行している旧道を進む。
 今日も快晴で歩いていると暑い。
 その先で災害復旧工事が行われており、その工事に携わっておられる方が、「これから峠を越えるの?」と話しかけてこられた。山陰道を歩いていると言うと、ここから先の道は藪に覆われていて歩くことが出来ないし、何よりも最近は頻繁に熊が出没していて危ないので、9号線を歩いたほうがいいと忠告してくれた。たしかにこの先は深い山が続いているようだし、最近は各地で熊の出没が伝えられているので忠告に従って、9号線に出て、これを歩くことにする。
 但馬トンネルの入口の横に旧道があり、「熊の出没注意」という看板が立っていた。
熊の出没注意 
 但馬トンネルは1256mと長い。このトンネルの上を旧道は通っていたのだろう。
 トンネルを抜けて八木谷橋を渡ったところ左手に嘉永2年(1849)の地蔵尊が立っていた。
八木谷橋 
 その先左手に「やまびこ」という看板がかかった、今は閉店している店があり、そこの道路をはさんだ反対側に下る道があるので、これを下っていく。ここは先ほどの工事をされておられる方から教えていただいたのだ。
 道は舗装されていて歩きやすく、静かで気持のいい道なのだが、一方で人家もなく、いつ熊に出会ってもおかしくないような道でもある。
道は舗装 
 八木谷川沿いに下っていくと、ループ橋の下を抜ける。
 左手に六地蔵があり、更にその先右手に三体の地蔵尊が安置されているところを歩いていくと、やがて関宮の集落へ入って行く。
左手に六地蔵 
 このあたりにも地蔵堂が数多くあり、夫々にお花が活けてある。
 関宮郵便局がある。資料によると、このあたりに関宮村道路元標があるとなっていたが分からない。郵便局の方に聞いてもわからないということだった。
 左手、少し入ったところに「多聞寺」があり、宝暦12年(1762)の常夜燈が立っている。
多聞寺 
 ここで昼食にする。宿で作っていただいたおにぎり4個だ。山の中の道ばかりで店がないのでお弁当を作っていただいていてよかった。
 その先で9号線に合流して進んでいくと、左手に六地蔵があり、更にその先左手に稲荷神社がある。 
 左手に「是より妙見道」と刻まれた年不詳の道標が立っている。かってはここから北の但馬妙見山に登ったということだ。
是より妙見道 
 その先の二股を右へ進むと集落の中の道になる。
 左手に大きな常夜燈が立っており、その横に六地蔵、更に慶応元年(1865)の地蔵尊が祀られている小堂がある。
大きな常夜燈 
 すぐ先で9号線に再び合流する。
 左手に歓喜院があり、その先の二股で9号線から分岐して左へ進み、二見川に架かる二見橋を渡るが、その先で再び9号線に合流する。次の信号で9号線は右へカーブするが、そのまま直進する。9号線との分岐のところに上万久里のバス停がある。 ここに温度標示計があって25℃を示している。
日差しが強く暑い!
 分岐した右手に天保10年(1839)の「念佛一千五百萬遍供養塔」が立っている。
天保10年 
 左手に文化4年(1807)の六地蔵があり、その横に地蔵尊坐像を安置する小堂と宝暦12年(1762)の廻国六十六部供養塔が並んで立っている。
文化4年 
 左手に「産霊神社」があり、境内には天保2年(1831)の石灯籠が立っている。
産霊神社 
 万久里のバス停で9号線に合流するが、その先の二股で再び9号線と分岐して左へ進み、更にその先の二股で左へ進む。その先、左手にウィザス ナビ高校というカタカナの高校があり、ここから右へカーブして9号線に合流する。このあたりの道は9号線と合流、分岐を繰り返している。
 その先で再び9号線から分岐して左へ進むと左手に「式内大與比神社」がある。境内には六地蔵があり、その横に大正2年の「後山六十六度入峰供養塔」がある。
式内大與比神社 
 その先、左手にも寛政6年(1794)の六地蔵と名号石がある。六地蔵とは平安中期以降、信仰が盛んになったもので六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)のそれぞれにあって、衆生の苦悩を救済する地蔵菩薩のことをいうが、このあたりでは六地蔵をはじめとした地蔵尊が街道筋に数多く残っている。寛政6年 
 右手に天明6年(1786)の「金剛経千部供養塔」と地蔵尊二体があり、その先で9号線に合流する。
天明6年 
 剣大橋の信号で9号線と分岐して八木川に沿う上八木集落の中を進んでいくと、左手に明和7年(1770)の題目石がある。
明和7年 
 その横から先、9号線の向こうに実行寺が見える。
 今滝寺川に架かる八木橋を渡って進むと、9号線に合流する直前、右手に寛政9年(1797)の六地蔵がある。
寛政9年 
 その先、再び9号線から分岐して右側の道へ入るが、その右手に「従是東出石領」と刻まれた出石藩領の境界石が立っている。
従是東出石領 
 高柳小学校の手前左手に元禄12年(1699)、宝暦6年(1756)、年不詳の三基の題目石、万霊供養塔、そして元禄16年(1703)の名号石が立っている。
 左手に但馬六十六地蔵尊三十一番札所の高柳上地蔵堂があり、堂内には享保10年(1725)、明和4年(1767)の地蔵尊と安政6年(1859)の廻国供養塔が安置されている。
高柳上地蔵堂 
 その先で9号線から分岐して左へ進み、やがて6号線に合流する。次の点滅信号で6号線は右へカーブするが、旧道は直進する。一部というバス停がある。
 小佐川に架かる馬橋を渡り、八鹿仲町商店街の中を通って進んでいると、子供が二人いて話しかけてきた。
「おじさんは旅人ですか?」旅人とはまさに言い得て妙だ。「そうだよ」と答えると、「なにをしているのですか」と問いかけてきたので「山陰道を歩いているんだよ」というと山陰道を知らなかったようなので、「江戸時代に殿様が参勤交代で通ったりした道で、下関から京都まで通じているんだよ」というと、「それを全部歩いているんですか」と驚いていた。
「お金がかかるでしょう」、「10万円ですか」「100万円ですか」、「お金はこのカバンの中に入っているのですか」と詮索が厳しい。そして「サイダー一本持って歩いているんですか」ときた。これには笑ってしまった。少し前にあった自販機でスポーツドリンクを買うつもりでボタンを押すと、サイダーが出てきたのだ。入れ間違っていたようだ。仕方がないのでサイダーをカバンの横に入れていたのだが、目ざとくそれを見つけたようだ。チェックも厳しい。この二人、学校の帰りだそうで、親切にその先を案内をしてくれた。
 左手に八鹿町道路元標が立っていたので、二人をその横に立たせて写真を撮った。マチダカイト君とホリウチユウシン君で小学5年生ということだったが、きちんと気をつけをして写っている姿がかわいい。
八鹿町道路元票 
 道路元標のある奥に「八柱神社」がある。ここは元亀年間(1570~1573)に創建されたと説明されている。
八柱神社 
 ここから右折して八木川に架かる八木川大橋を渡り、すぐに左折して川沿いを進む。次の橋のところから川沿いの道から分岐して十字路を直進するとJRのガードがあり、その手前から右へ坂を上って312号線に合流する。マチダ君の家はこのあたりということで、そこで別れ、その先、左手の少し高台にある和奈美神社を通り、宮越の信号を左折して進む。ここでホリウチ君とも別れる。二人とも親切に道を教えてくれてありがたかった。
 312号線を進んでいくと左手に大屋橋があり、その右手に文政5年(1823)、弘化3年(1846)などの地蔵尊を安置した小堂がある。
文政5年 
 旧道はここから大屋橋を渡って進むのだが、今日の宿はここから橋を渡らずに進んだところにある但馬楽座というヤブ温泉なので、そちらに歩いていく。

 17時25分にやぶ温泉に到着する。入口までくると「時間通りでしたね」と男性の方が声をかけてくれた。ここの責任者の方のようだったが、この方には翌朝もお世話になった。 やぶ温泉は天然温泉、立派な設備で気持のいい宿だった。

 本日の歩行時間   9時間55分。
 本日の歩数&距離 53506歩、36.4km。

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記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
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