山陰道(兵庫県)を歩く

2010年05月30日(日) ~2010年10月08日(金)
総歩数:124134歩 総距離:83.3km

2010年10月08日(金)

養父~和田山~茶堂

                      曇

 今日は朝から曇り空。天気予報では夕方から明日にかけてかなりの雨が降るということだったので、雨の降らない間に少しでも先へ進んでおきたいと思って先を急ぐ。
 大屋橋まで歩くと20分はかかるし、ここは山陰道ではないので、時間節約の意味もあって何か交通機関はないかと思って宿の方にお聞きすると、大屋橋まで送ってくれることになった。先を急ぐ身にとってはありがたいことだ。
大屋橋を渡ったところまで車で送っていただき、7時43分に出発する。
 右手に年不詳の二体の地蔵尊と五輪塔が祀られている。
不詳の二体 
 その先、右手に「養父神社」がある。ここは延喜式に名神大社と記載されている歴史のある神社で、社殿のうち御霊社は応永20年(1423)に建てられたもので、本社は元禄9年(1609)に建立されたという。
養父神社 
 養父の静かな町並みの中を進んでいくと、養父コミセン前というバス停があり、そこに「従是北出石領」という境界石が修復されて立っている。
従是北出石 
 右に「西念寺」があり、門前に文政9年(1826)等の二基の名号石、宝篋印塔、天明年間の常夜燈などが立っている。
西念寺
 その先、左手の民家の庭先に道標があり、「右 京 大坂 はりま」「左 いつし」と刻まれている。
庭先に道標 
 右手に文久元年(1861)の地蔵尊等を安置する地蔵堂があり、その横に寛政12年(1800)の題目石など三基、更に破損した名号石一基が立っている。
文久元年 
 猿岩踏切でJRを渡り、トンネルのところで左へ進んで川沿いの道を進む。
 右手に「淨安寺」がある。境内に開山400年記念碑が立っていた。
淨安寺
 このあたり線路に併行して一直線に道が伸びている。
 高瀬踏切を渡って左折、線路沿いに進むと左手に年不詳の地蔵堂がある。
高瀬踏切 
 宮田の信号で9号線に合流すると、「大歳村道路元標」と「ふくち山 いつし ミや道」と刻まれた年不詳の道標が並んで立っている。
大歳村道路元票 
 その先、信号を渡った右手に地蔵堂があり、境内には文政8年(1825)や天明2年(1782)の廻国供養塔が立っている。
文政8年 
 和田山トンネルをぬけた次の角で左折、下田踏切でJRの線路を越えて進むと左手に「無量寺」がある。ここの門前には文政6年(1823)の名号石が立っている。
無量寺 
 右手に道標があり、「右 くわん○○」と刻まれているが、よく判読出来ない。資料を読むと、古老の話として道路の拡張により道標も少し移動しており、またかっては現在ほど埋没せず、文字が全て判読できたと記されていた。
右 くわん 
 左手に地蔵堂があり、天保5年(1834)の六地蔵が安置されており、その前には安政3年(1856)の名号石が立っている。資料によるとこの地点は陣屋跡と伝えられているそうだ。
天保5年 
 更にその先、左手に地蔵堂があり、その横に文政10年(1827)の名号石と寛政6年(1794)の法華供養塔が立っている。
文政10年 
 ガード下を通ってJRの線路を越え左折、左手に和田山駅を見ながら進む。その先、第二玉置踏切を渡ったところの左手に地蔵堂が立っている。
 円山川に架かる玉置橋を渡って進むが、このあたりコスモスと彼岸花が咲いており、秋を感じさせてくれる。
コスモス 
 その先で9号線に合流、すぐ先の黒田踏切でJRの線路を越える。
 左手、階段を上ったところに「式内石部神社」があったが、由来等は何も書かれていなかった。
 左手に文政5年(1822)の名目石があり、その両横に地蔵尊が二体祭られている。
文政5年 
 JR梁瀬駅を右に見ながら進み、ガード下を通ってJRの線路を越えると、左手に文政10年(1827)の名号石と身代り観音石像が立っている。
身代り観音石像 
 かっては庄屋だったという田治米酒造の立派な屋敷が立っており、その前に「梁瀬村道路元標」が立っている。この場所が山陰道と京街道の合流点となっている。
梁瀬村道路元標 
 ここから左折して進み、JRのガード下を通って進む。
 右手に地蔵尊を安置する小堂があり、その横に寛政11年(1799)の名目石が立っている。
寛政11年 
 ここから坂を上っていき、二股に道が分かれるので、ここは右へ進む。この道はきれいに舗装された立派な道だが、だれも通らない静かな道だ。その先で9号線と一旦合流するが、すぐ先から左へ分岐し、大内集落の中を通っていく。
 左手に宝暦2年(1752)の名号石と嘉永2年(1849)の千躰地蔵供養佛が並んで立っている。その先で9号線に合流する。
千躰地蔵供養佛 
 左手、少し入ったところに新宮神社があり、その入口左手に弘化3年(1846)の名目石と南無大慈大悲観世音菩薩と刻まれた宝永4年(1707)の石柱が立っている。
弘化3年 
 また、右手には八体の地蔵尊を安置した地蔵堂が立っている。
八体の地蔵尊 
 すぐ先から9号線と分岐して左手に伸びる63号線に入り、坂を上って行く。
 左手に天保6年(1835)の名目石と「右 たんご道 左 ざいごう(?)」と刻まれた傾いた道標、そして「なりあいみち」と刻まれた石仏が並んで立っていた。
傾いた道標、 
 更にその先にも「なりあいみち」と刻まれた何体もの石仏や道標が立っていた。何もない山の中の道なので、こういった道しるべがあると、道を間違っていないことが確認できてとても有り難かった。おそらく昔の旅人も同じ気持だったのだろう。
なりあいみち 
 右手に「夜久野茶堂」がある。ここは寛政年間(1789~1801)に一道貞心禅師が開基したもので、信州稲荷山の一道貞心禅師が諸国巡歴の際、この地に立ち寄ったが、かや、すすきが生い茂り、旅人が難渋することを知って、庵を結び、茶をたてて道行く人に供したのが始まりという。現堂宇は昭和24年に直見西垣高源寺が廃寺になるに際して、移築したものという。
夜久野茶堂 
 その先、右手の道から少し入ったところに「丹波 但馬国境石」が立っているので、ここを兵庫県と京都府の境としてカウントすることにする。
国境石 
 12時51分に但馬(兵庫県)を歩き終えて丹波(京都府)に入る。

 兵庫県の山陰道は深い山の中だった。湯村温泉以降養父まではJRのアクセスもなく、ひたすら山の中の道を歩いた。地蔵尊が街道沿いに数多く安置されていたのも、人里離れた山の中の道ということが関係していたのだろうか。現在でこそ、舗装された道があって歩くことに何の支障もないが、当時は大変な難路だったのだろうと思う。


 本日の歩行時間   5時間8分。
 本日の歩数&距離 28178歩、19.1km。

 今日はこの後、下夜久野駅まで歩いたが、それは京都府の山陰道として、改めて掲載させていただきます。

山陰道〈兵庫県)総合計
 総歩行時間  22時間30分。
 総歩数    124134歩。
 総歩行距離  83.8km。
 山陰道(島根県)純距離 80.8km。(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離)

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