山陰道(京都府)を歩く

2010年10月08日(金) ~2010年10月23日(土)
総歩数:187398歩 総距離:126km

2010年10月21日(木)

福知山~生野~下大久保~瑞穂町

                     小雨

 7時40分に長田野工業団地を出発する。今日は小雨が降っている。このままひどくならなければいいがと思いながら歩き始める。工業団地を抜けると、下六人部小学校が左手にあるが、このあたりの道は旧道の面影が残っている。ただ出勤時間にかかっているためか、車が多い。

 左手に昭蓮寺という大きなお寺があり、その先で天井川という小川に架かる長田橋を渡って進むと9号線に合流する。
舞鶴若狭自動車道の手前から左斜めへ伸びる旧道に入ると、左手に「伊能忠敬」が文化11年(1814)にこの地を測量したという看板が立っている。今更ではあるが、56歳から始めて70歳まで全国を測量し続けた気力、体力には驚嘆するものがある。私はいつまでこうして歩き続けることが出来るかな?
伊能忠敬 
左手に「郡四国霊場 第六十四番 岩崎薬師堂」がある。お堂の横に石仏があり、年号が刻み込んでいたが、劣化していて読み取ることが出来なかった。
岩崎薬師堂 
その先で9号線に合流する。
左手に元文4年(1739)の地蔵尊を祀る小祠がある。
元文4年(1739)の地蔵尊 
すぐ先で再び9号線から分岐して左手へ進む。このあたり、いかにも旧家と思わせる家が多い。
右手に「北向き地蔵」がある。宝永3年(1706)に建立されたこの地蔵尊は珍しい北向き地蔵尊として、住民の暮らしや街道を歩く旅人の安全を願って建立されたという。ここには文政7年(1810)の常夜燈が立っており、また樹齢数百年といわれ福知山市の指定文化財になっている、かごの木、むくの木の巨木が立っている。
北向き地蔵 
 その先で9号線に合流する。
その先、右手道路の向こう側に大きな木があり、その木に気をとられて、そのまま直進してしまった。ここで道を間違えたのだ。
大きな木 
途中で左手に「京街道」の看板が立っており、その場所に左手の坂から下ってくる道があって、それが旧道のようなので、道を間違えたことに気がつく。
京街道」の標識 
その旧道がどこから分岐しているのか確かめるため、道を戻ってみると、先ほど見た大木の横から9号線から分岐する坂を上る道があったので、これを上って行く。
大木の横 
その先で道は二股に分かれており、ちょうど地元の方がおられたので道をお聞きすると、旧道は左手の路地のような草道ということだったので、これを進む。
道は二股 草道 
左手に墓地があり、その中に年不詳の六地蔵が安置される祠がある。
墓地の六地蔵 
 その先、左手に「くびなし地蔵」が小祠に安置されているが、年不詳で由来も書かれていなかったので詳細は分からなかった。
くびなし地蔵 
 ここにも先ほどの看板と同じものが立っていて、「古道京街道 地域づくり協議会」と書かれている。
古道京街道 
 この近辺に同様の標識が立っており、有志の方が立てられたのだろうが、歩く者にとってはこのような標識が立っていると非常に助かる。
 左手に「生野神社」がある。ここは延喜式式内社に記載されている古い神社で、鎌倉時代から江戸時代末期までは御幣神社(みてぐらはん)と称されていたという。慶長年間(1600頃)社殿の改築が行われ、明治6年に生野神社と改称、昭和4年に拝殿が新築されている。
生野神社 
 この神社の前で道は二股になっており、この左手へ進むが、ここにも標識が立てられているので、これに従って左手に上六人部小学校を見ながら進む。
 その先にも標識が地図とともに書かれており、それに従って川沿いに出て、階段をのぼり、土師川に架かる三俣大橋を渡る。橋の上から左手の川土手を見ると、「安井の渡し」と書かれた標識が立っているのを見ることが出来る。昔はこの場所が渡し場だったのだろう。
安井の渡 
 堀越橋を渡って、右斜めへ進み、その先の変則五叉路の左から二番目の道を進む。進む方向に「生野神社下 蓮花池」の看板が立っている。
堀越橋を渡って 
 左手に「生野天神宮」がある。この神社は用明天皇(585~587)の頃に丹波国七天神の一つとして建立されたという、古い歴史を持つ神社で、元禄7年(1694)に京都吉田の住人によって御神体菅原道真公を再献されたと説明されている。宝永3年(1706)の石灯籠が立っていた。ここには「金の椎の実」の民話が残っていると説明されていた。
生野天神宮 
 生野の街中に入る。ここは平安時代から京の都と丹波国を結ぶ京街道(山陰道)の宿場町として栄えたところで、三条大橋から丁度二十里のところにあり、今も静かな山間の宿場町の風情を残している。
 その先で一旦9号線に合流するが、すぐに右斜めへ分岐する旧道を進む。更にその先で9号線に合流、左手にJAのガソリンスタンドがあるところから右へ坂を上る。静かな山道を進み、芦淵の信号で9号線に合流、寺尾川に架かる新橋を渡って進む。
 左手に地蔵尊が3体安置されている小祠がある。地蔵尊には「左 くろい」と刻まれているので道標地蔵なのだろう。右もなにやら刻まれていたが、読み取ることは出来なかった。
左 くろい 
 すぐ先から左折、9号線から分岐して土師川沿いに進むが、その先で二股に分かれているところがあり、最初ここを間違って右へ進んでしまったが、途中で気がついて左へ進む。その先で9号線に合流する。辻の信号から右斜めへ進み、突き当たりを左折して進むが、その先で9号線に合流できず、グルッと遠回りをしてようやく合流することができた。
 細身川に架かる細身橋の歩道橋を渡り、すぐに右折すると、左手に年不詳の2体の地蔵尊がある。
細身川に 
 右手に宝暦4年(1754)の常夜燈と小祠そしてその横に4体の地蔵尊がある。
宝暦4年の常夜燈 
 その先で道は二股に分かれているところがあり、直進する道は土道になっていたので、そのまま進んでみたが、その先で道は網で仕切られて行き止まりになっていたので、二股のところまで戻って、左折して進む。その先で再び道は二股に分かれており、その角に地蔵尊がある。ここを何も考えず直進してしまったが、どうも道が違うようだ。丁度ご近所の方がおられたので、道をお聞きすると、先ほどの地蔵尊のところから左へ進むのが旧道だと教えてくれ、しばらく一緒に歩いてくれた。旅をしていてこうして親切にしていただくと本当にありがたい。地蔵尊を良く見ると「左り 京」「右ささ山道」と刻まれており、道標地蔵だったことが分かった。
左り 京 
 ここから左へ進むと松林があり、昔の街道の雰囲気が残っている。土師川に架かる柳瀬橋を渡って進むと、9号線に合流する。その先で道端に立っておられた方が「何をしているのか」と話しかけてこられた。色々話をしている中で、細野峠のことを聞いてみた。ここは今日の難所と思っていたところだ。横にあった郵便局の方も出てこられて一緒に話を聞いたが、峠は通れないのではないかということだった。
 その先で9号線から分岐して右斜めへ進み、兎原の集落の中を進む。
その先で 
 ここも旧家の面影を残している立派な家が多い。
 土師川に架かる両橋を渡り、三和郵便局があるところに来る。もし峠を通らず、9号線を迂回するならば、ここから左折して進まなければいけない。峠を越えるのであれば右折するのだ。進むか、迂回するか迷っていると、ご近所の方がおられたので、峠を越えることができるかどうかお聞きすると、峠に入る前に家があるのでそこで聞いてみるといいだろうということだった。この言葉を聞いて、とりあえず峠の入口まで行ってみようと思った。ここから右折して進むと、右手に「影清稲荷大明神」がある。
影清稲荷大明神 
 さて、いよいよ今日の最大のヤマ場である細野峠だ。ここは地図に道が載っていない場所だ。右手に「細野峠越」「歴史の道百選」の看板が立っており、その先に小学生が書いたという細野峠の大きな地図が立っている。
細野峠 
 意外に整備されているかもしれないとこのとき思った。そして峠を抜けるまでに2kmの距離があるということもわかった。山の中の2kmはかなりの距離だ。山へ入る直前に民家が並んでいるが、だれも外に出ていない。仕方がないのである家の呼び鈴を押してみるとオバアサンが出てこられたので、峠を越えることができるかお聞きすると、最近山崩れがあって通れないのではないかと言う返事だった。やはり無理かと思って引き返していると、今度はオジイサンがおられたので、その方に聞くと、大丈夫だろうという返事。さて、進むか迂回するか、益々迷う。しかし迷ってばかりいても仕方がないので、とりあえず「ちょっとだけ」行ってみようと思った。この「ちょっとだけ」でこれまで失敗をしたことがあるので、今日は無理をしないようにしようと自分に言い聞かせて再度山へ向かった。ところが山道になって間もなく、いきなり道が二股に分かれている。もちろん地図にはこんな道は載っていない。それに標識もない。
道が二股 
 これから先、このような分岐がいくつあるのかわからないし、当然山の中なので聞く人もいない。これは駄目だと思って、すっぱりあきらめて9号線を歩くことにする。
 9号線をしばらく歩いていくと、右手に細野峠の登り口の看板が立っていた。先ほどのところから登るとここに出てくるのだ。しかしその横に「通行止」の大きな看板が立っており、土砂崩れのため通行できませんと書かれた紙が貼り付けてあった。どうやら無理をしなくて正解だったようだ。ただ、折角の峠越えだったので、歩くことが出来なくてちょっと残念だった。
通行止 
 巌洞橋の手前から9号線から分岐して右斜めに伸びる山際の道を進む。右手に「巌洞岩」の説明板が立っており、それによると「この洞穴から鶏を放つと三和町に出たという伝説がある」と書かれていた。ただ金網が張っており、その向こうは藪状態でどこがその洞穴なのか分からなかった。
巌洞岩 
 下大久保の集落の中を進み、土師川に架かる畑ヶ瀬橋を渡って進み、下大久保の信号で9号線を横断する。
 右手に「旧山陰街道跡」の看板が立っており、「江戸時代宿場町として栄えた。本陣、名酒、回車、宮田屋、泉屋、餅屋等の屋号があった」と書かれている。
旧山陰街道跡 
 右手に「金毘羅神社」がある。建立年は不詳で大物主神を祀っており、江戸時代は航海安全の神とされたが、雨乞いの神、豊作をもたらす神とされたという説明板が立っていた。周囲を木々に覆われているので写真を撮ってみると、暗く写っていた。
金毘羅神社 
 山際の集落の中を通って進み、9号線に合流する。
下地のバス停の先で9号線と分岐して右斜めへ進む。バス停の時刻表をみると一日に7本のバスが通っていた。これまでの山陰道の経験から行くと、「7本も」通っている・・・かな?
土師川に架かる大橋を渡って進むが、このあたりも遺構は何も残っていない。兵庫県では沿道に数多くの年代を重ねた地蔵尊や題目石、名号石があったが、京都府に入ると急に少なくなっている。何か理由があるのだろうか?
その先で9号線に合流するが、このあたりから雨足が強くなる。土師川に架かる市場橋を渡ってすぐに左折して進む。
 左手に年不詳の常夜燈が立っている。
左手に年不詳 
 その先で再び9号線に合流する。資料で見ると、ここから9号線を進むようだったが、川向こうに道が続いており、その道は先で9号線と合流しているようだ。雨が強くなってきており、しかもこのあたりの9号線には歩道がない。車の巻き上げるしぶきがすごいし、風圧で傘が飛ばされそうになるので、ここは9号線を横断して川向こうの道を進むことにする。この道は車が全く通らない静かな道だったので助かった。
 その先で9号線に合流したが、ここから先は歩道がついていて助かった。
 右手に「熊野神社」があり、天保3年(1832)の常夜燈が立っていた。
熊野神社 
 坂井のバス停の先から9号線から分岐して左斜めへ進む。土師川に架かる青山橋を渡って進み、その先で9号線に合流する。旧道は9号線に合流する前から左折し、山の中を通っていたようだが、現在は道がなくなっているようなので、9号線を進む。
 左手に地蔵堂があり、その横に年不詳の二体の地蔵尊が立っている。
左手に地蔵堂があり、 
 出口の信号から9号線と分岐して右斜めへ進み、173号線を横断して、瑞穂の街中へ進む。
 17時10分、今日の宿である油屋旅館に到着する。ここは街道に面しているので助かる。
今日は終日小雨が降ったり止んだり。宿に着く直前に一時強い雨足になったが、それ以外はあまり強い雨ではなくてよかった。

 本日の歩行時間   11時間30分
 本日の歩数&距離  53135歩、35.8km。

 

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記録

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歩人
かっちゃん