山陰道(京都府)を歩く

2010年10月08日(金) ~2010年10月23日(土)
総歩数:187398歩 総距離:126km

2010年10月22日(金)

瑞穂町~須知~園部~鳥羽~亀岡

                      曇

 7時18分に出発する。今日の空は曇っているが、雨は降りそうになくて歩きやすそうだ。
宿から直進して444号線に合流し、中台川に架かる天下橋を渡る。
 右手に「西岸寺」があり、門前に「和泉式部卒去之地」という石碑が立っている。和泉式部の墓は全国にあって、これまでも各地でみてきたので、ここもその一つなのだろう。
西岸寺 
 右手に小祠がある。このあたりは昨日まで歩いた道と違ってこうした小祠が数多く建っている。
右手に小祠 
 曽谷川に架かる道土橋を渡ると、右手に「山内一豊公ゆかりの地 土佐太守山内氏先祖の地」と書かれた看板が立っている。山内氏の先祖がこのあたりに住んでいたということなのだろう。
 左手に愛宕神社があり、その先に「丹波散策の道」という標柱が立っているところから444号線から分岐して左折して進む。
丹波散策の道 
 左手に「熊野神社」があり、境内に宝暦14年(1764)と刻まれた石灯篭が立っている。
熊野神社 
 更に左手に「宝昌寺」があり、境内に享保21年(1736)の地蔵尊を安置する小祠、その横に年不詳の五輪塔が置かれている。
宝昌寺 
 曽根川に架かる曽根橋を渡って進むと、左手は府立丹波自然運動公園になっている。公園のフェンスに沿って進むが、道に栗の実が沢山落ちている。
左手に道標があり、「右ハ 京」「左ハ せこ(?)」と刻まれている。
右ハ 京 
 444号線に合流するところの左手に年不詳の地蔵尊を安置した小祠とその横に五輪塔が置かれている。
年不詳の地蔵尊 
 444号線を進み、左手に須知幼稚園があるところから444号線から分岐して右斜めへ進み、須知の街中を通る。
 左手に「須知村役場跡」の碑が立っている。ここは山陰道の須知宿の本陣であった前田家のあったところで、その子孫が明治29年に北海道に移住する際、須知村に寄贈されたと説明されている。
須知村役場跡 
 その先で道は二股に分かれており、ここを左へ進み川沿いの道を歩く。
 右手に「導観稲荷神社」がある。ここの創建は不明だが、古来茶ノ木山中腹にあり、弘化年間(1844~1848)に社殿を改築、大正9年に現在地に移転したという。境内には樹齢400年といわれる杉の巨木があり、その根元から湧き出る泉は「導観さんの岩清水」といわれて水を汲みに来る人が多いという。
導観稲荷神社 
 その先で9号線に合流するが、少し左へ戻ったところに山際の道があり、これを進む。
 左手に「地蔵、観音堂」がある。大正4年に再建されたと書かれているが、これらが何年に作られたのかはわからなかった。
地蔵、観音堂 
 その先で9号線に合流する。その先、新水戸の信号の先、京丹波町の消防団の建物があるところから左斜めへ伸びる旧道を進む。その先で9号線に合流するが、これを横断して二股に分かれているところを左へ進み、集落の中を進む。
 坂を上って進むと、左手に年不詳の常夜燈が立っている。
坂 常夜燈 
 その先で9号線に合流するが、資料によると、ここから9号線の左手に観音峠を越える旧道が通っているようになっているが、道は分からなかった。更に観音トンネルを抜けた右手下に観音堂があり、そこから山の中を旧道は通っていたようだ。9号線から下を見ると確かに観音堂が見えるが、その先で道は全く失われているようだった。そのため9号線をそのまま進んでいく。用野峠に続いて観音峠も歩くことを断念した。
 右手にJAの中部物流センターがある少し先から9号線から分岐してあぜ道があるので、これを進んでいき、その先で9号線を横断、最初の四つ角を右折する。その先で再び9号線を横断、その先でもう一本車道を横断して進む。
 左手に「千手観音堂」がある。ここは山陰道と篠山街道の分岐点であり、観音堂の前に文化元年(1804)の道標が立っている。道標には正面に「左 はりま ささやま」「右 たんご たじま 大原」と刻まれており、右面に「左 京 亀山」左面に「右 京 亀山」と刻まれている。
千手観音堂 
 観音堂の前に独特の形をした巨木があり、その下に顔を白く塗った地蔵尊が置かれている。
独特の形をした巨木 
 二股を右へ進み、園部川に架かる園部大橋を渡って、すぐに9号線から分岐して左斜めに進む。
 右手に「御先大神」「明月大神」という額が掲げられた「稲荷神社」がある。ここは慶応元年(1865)に社殿を創立したもので、明治41年に現在地に再建されたという。社前に山陰道の道標があり、それには「天保7年(1836) 京大坂若州野々村亀山妙見山」と刻まれている。
稲荷神社 
 その先で上本町商店街へ入って行く。
「そのべ本陣」という旗が各所に立っている中を進んでいくと、右手に合羽家という旅館があるが、ここが園部宿の脇本陣だったところで現在でも営業をされているということだった。
合羽家 
 その先右手に小林酒店の看板がかかった土蔵があるが、このあたりが園部宿の本陣の跡だ。昔はもっと大きな家だったそうだが、現在ではかなり縮小されているということだった。
小林酒店 
 右手に「妙光寺」があり、門前に享保7年(1722)の題目石が立っていた。境内にある妙見宮には天保15年(1844)の石灯篭が立っていた。
妙光寺 
 その先で道は二股に分かれており、旧道は右手へ進むようだが、現在は通りぬけが出来ないという看板が立っていたので、ここは直進し、園部踏切でJRの線路を越え、その先のガード下を通って9号線を越え、すぐに左折して進む。
 右手に地蔵尊3体が安置されている地蔵堂があるが、ここの地蔵尊も顔を白く塗られている。
地蔵尊3体 
 このあたりの地蔵尊にはいずれも顔を白く塗られているが、山口県の街道を歩いた際も、同様に白く顔を塗られた地蔵尊があったことを思い出す。
その先で9号線に合流し、9号線が右へカーブするところから旧道は左へ分岐して川沿いの道を進む。
 京都丹波道路の下を通って進むが、このあたり昔の街道の面影が残っている。
街道の面影 
 451号線に合流、板野川に架かる岩鼻橋を渡って進むと、右手に「岩鼻地蔵尊」のコンクリートで作られた祠がある。
岩鼻地蔵尊 
 右手に「これより鳥羽宿」と刻まれた石柱が立っている。鳥羽宿は宝永年間(1700~)に設置された宿で、70軒ほどもある栄えた宿だったと説明されていた。右手に旧本陣だった家が建っている。
これより鳥羽宿 
 八幡川に架かる八幡橋を渡り、道が二股に分かれているところを左へ進む。右手に年不詳の「阿弥陀堂」とその横に「大乗経典一石一字塔」が立っている。大乗経典一石一字塔 
 八木の集落の中を歩くが、ここも昔の雰囲気が色濃く残っている。
八木の集落 
 その先で9号線に合流、川関踏切でJRを越えて進むと、右手に「浄土三部妙典一万一字塔」と小祠に年不詳の地蔵尊が安置されている。
浄土三部妙典一万一字塔 
 左手に年不詳の道標が立っており、「右 あたこみち」「是より小山へ三り」と刻まれている。
右 あたこみち 
 左手に「藤越神社」がある。ここは創建年は不明だが、天正年間(1573~1592)明智光秀の丹波平定のころ、兵火によって焼失し、江戸後期に再建されたという。元文5年(1740)の鳥居や石灯籠が立っている。
藤越神社 
 右手に千代川小学校があり、そこに「新御殿門」がある。これは天正5年(1577)明智光秀によって亀山城内の御殿門として建てられたものという。
新御殿門 
 千々川に架かる大泥橋を渡ると右手に道標地蔵尊がある。正面に「観世音菩薩」と刻まれており、「右 そのへ」と刻まれているが、左はなんと刻まれているのか判読できなかった。
観世音菩薩 
 ここから左折し9号線を横断して進むと、左手少し入ったところに「天満宮」があり、境内に「菅公腰掛石」がある。菅原道真公が園部からの帰途、里長の家で休憩されたのが起源と伝えられており、そのことから「休み天神」ともいわれている。安永6年(1777)の常夜燈が立っている。
菅公腰掛石 
 小林踏切でJRを越えて進み、突き当たりに愛宕山の常夜燈が立っているところから左折、細い道を進んでいき、次の角を左折、左手に阿弥陀寺があるところから右折、次を左折、更に次を右折とクネクネとした道を進んで行き、願成寺川という小川に架かる東条橋を渡り、更にその先の犬飼川に架かる並河橋を渡って左折、川沿いに進む。左手に宇津根橋があるところから右斜めへ進むと左手に「法源寺」と「伊達神社」が並んで建っている。 伊達神社は延喜式神名帳に記載された古い神社だが、延享4年(1747)の大堰川の氾濫で隣の宝蔵寺(表示板では法蔵寺となっていた)とともに流失し、記録類は失われてしまったという。石垣に寛政元年(1789)再建と刻まれていることから、その年に再建されたことが窺われるという。 
伊達神社 
 宇津根踏切でJRを越えて402号線に合流して進む。
 右手に文政元年(1818)の愛宕山常夜燈が立っている。
文政元年の愛宕山 
 その先に道標が立っており「左 京 いせ道」の文字が刻まれている。
左 京 いせ道 
 ここの二股を左へ進む。
 曽我谷川に架かる常盤橋を渡ったところに山陰道のことを書いた看板が立っており、その先右手に「西光寺」がある。ここは天平勝宝元年(749)に行基が建立した庵で基行院と称したのが始まりという。その後治承元年(1177)に鹿ケ谷事件に関わって死罪となった藤原師光入道西光法師の遺骨を後白河院の命により、同庵に埋葬し、西光寺として一宇が建立されたという。その後慶長年間(1597~1615)に現在地へ移設され、寛永年間(1624~1644)に再建されたという。
西光寺 
 亀岡市の中心街へ入って行く。「亀岡町道路元標」があり、その横に「すぐ穴太」と半分埋もれた道標のようなものが立っている。
亀岡町道路元標 
 右手に「銀札会所跡」の看板が立っている。江戸時代中頃、亀山藩の銀札の取引所である銀札会所がこの辺りにあったという。
 その先に旧山陰道の表示板が立っており、それに従って右折する。亀岡市内にはこうした表示板がかなり立っており、歩く上で助かった。
旧山陰道の表示板 
 右手に寛政9年(1797)の「子安地蔵尊」があり、その横に三年坂の説明板が立っている。それによると安産祈願のため、子安地蔵を安置する北町の地蔵院に参詣する人々が通ったところから産寧坂、これが転じて三年坂になったと記されている。
子安地蔵尊 
 右手に「大園寺」がある。ここは天文22年(1553)に川北に建立されたが、明智光秀の城下町の形成に際して、現在地に移転したという。その後火災で焼失し、現在の本堂は宝永7年(1710)に再建されたという。
大園寺
 突き当たりを左折、すぐ先を右折して進むと右手に「円通寺」がある。ここは大永2年(1523)に形原松平家の奥方の菩提寺として創建され、寛政元年(1789)に現在地に移転したという。
円通寺 
 町を歩くと提灯に灯りが灯っている。明日から亀岡祭が行われるそうで、この祭りは毎年10月23日から3日間行われる鍬山神社の例祭で11基の山鉾が巡幸するという。
提灯に灯が灯っている 
 17時30分にホテルに到着する。

 本日の歩行時間   10時間12分。
 本日の歩数&距離  52203歩、35.3km。

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歩人
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