出羽街道・浜通り(鶴岡~秋田)を歩く

2012年04月16日(月) ~2012年04月20日(金)
総歩数:212839歩 総距離:150.4km

2012年04月20日(金)

由利本庄~秋田

              晴れ

 ホテルのすぐ近くにバスの営業所があり、そこから7時20分発のバスで出発する。出発したときの乗客は私一人、途中で二人が乗ってきて、途中で降りたため、私が降りた深沢のバス停では乗客はいなくなっていた。ただ、お客も運転手もお互いに、おはようございます。ありがとうございました。ときちんと挨拶を交わす姿がとても印象的だった。これは昨日も感じたことなのだが、とても気持ちのいい感じを受けた。
7時47分に深沢から出発する。今日も左手は海、右手は山という道を黙々と歩くが、山が途切れているところに集落が点在している。
そんな集落のあるところの左手にブロックでできた祠があり、明治8年の地蔵尊他が安置されていた。
ブロックでできた
 折林集落に入るが、右手に「八幡神社」があり、境内に文政5年(1822)の折れた石灯籠があった。
八幡神社
歩いていると、「シートベルト はえぐ せってば!」と書かれた大きな看板が立っている。言葉がわからなくて苦労しているので、思わず笑いがこみあげてくる。
 神沢集落では右手に「金毘羅大権現」「秋葉大権現」と刻まれ、文政と読むことができる石碑が立っている。
文政と
 二古橋を渡った先で街道から外れて右へ進むと、「二古神明社」と少し離れたところに「清光院」がある。ここの境内には享保4年(1719)の石仏が立っている。
二古神明社清光院

 道川集落では左手に庚申塔や墓石が立っている。
 道川踏切でJRの線路を横断して進むと、左手に庚申塔が3基立っている。
 勝手川に架かる勝手橋を渡って進むと、左手に地蔵尊3体を安置する地蔵堂がある。
地蔵堂がある。
 勝手踏切でJRの線路と7号線を横断、上新谷集落の中ほどに地蔵尊4体を安置する地蔵堂がある。
 今日は海は静かで暖かいというより暑く感じるほどの陽気で、わずか2週間前のあの寒さに震えた日々と比較するとえらい違いだ。今回は前回と違って好天に恵まれているので、とても歩きやすい。
海は静かで
寒川のバス停の小屋で昨日のうちにコンビニで買っておいたパンを昼食として食べる。
寒川橋を渡って進むと、右手に「本敬寺」がある。ここの開祖は朝倉義景の血筋である朝倉道景と云われており、当時は越前の国にあったが、織田信長に本家筋の朝倉義景が敗れ、比叡山焼き討ちなどがあった為、現在の秋田市勝平に逃れ、元和2年(1616)に勝平から現地に移転してきたという。
本敬寺
滝ノ原のバス停の少し先に嘉永6年(1853)の庚申塔が立っている。
 左手に祠があり、31体の地蔵尊、庚申塔7基、三界万霊1基が安置されている。
 右手に「滝ノ下御本陣跡」「由利郡境沿岸御陣所跡」の標柱が立ってるが遺構は残っていない。
 すぐ先右手に「相原宗家拝領屋敷」という標柱が立っている。相原家はこの地区の網元だった家だ。
 保存樹になっているクロマツの巨木が立っているところから、街道を外れて右折していくと神明社がある。
 浜田小学校の前に「金毘羅神社」がある。天保12年(1841)網元だった相原清蔵が漁をしているときに、神気ただならぬ大石が網にかかった。清蔵はこれを航海安全の守護神である金毘羅様としてお祀りをしたという。
金毘羅神社
 その先、右手に「西岸寺」がある。ここは寺伝によると天保14年(1843)に創建されており、創建に宗源と西岸という二人の僧が関係したことから、西岸にちなんで寺号にしたという。
 その先で十字路があり、そこに「愛宕町地蔵堂」がある。7体の地蔵尊が安置されているが、本地蔵尊は鎌倉時代前期の作といわれており、愛宕の地名もこの地蔵からきたといわれている。その前に慶応2年(1866)の庚申塔が立っている。
愛宕町地蔵堂
 ここを左折、その先で街道から外れて左折して進むと、「実相寺」がある。創建は不明だが、寺伝によると戦国時代末期のころ旧上表町から毎夜法華経を唱える石像が一体掘り起こされ、村人がそれを安置して庵を建てたという。天保7年(1836)に現在地に移転したという。境内裏手に湧水泉があり、現在も利用されている。
湧水泉
 その先で街道に合流、右手入ったところに「天龍寺」がある。ここは文禄4年(1595)に小野筑後守橘守條が開いたといわれており、最初は黄金谷(関町)にあったが、飛砂がひどく寺が砂埋めになる危険が生じたので享保13年(1728)に現在地に移転したという。
天龍寺
 左手、街道から外れたところに「栗田神社」がある。ここは安政4年(1857)に村民の請願によって建立されたもので、文化年間(1804~18)日本海側住民を飛砂から救うべく砂防林を完成した秋田藩士栗田定之丞如茂を祀っている。大正元年に現在地に遷座したという。
栗田神社
 その先で雄物川に架かる雄物新橋を渡るが、この川も大きな川だ。
 13号線を横断した先、右手に「出入役所跡」の標柱が立っている。ここは寛文8年(1668)に開設され、雄物川を上下する川舟の荷物を検査し、約銭を徴する仕事を行っていた。
 左手に「薪炭置場」の標柱が立っている。ここは秋田藩の用度及び藩士の給与用に薪や炭が蓄えられていたという。
 そのすぐ横に「明治天皇駐輦碑」が立っている。
「明治天皇駐輦碑」
 左手に「倉稲魂神」碑の標柱が立っている「珍寶神社」がある。旭川と雄物川が合流する川尻の港には藩政時代藩の大倉庫が立ち並び、石蔵といわれた籾蔵があり、米や日用雑貨が蓄えられていた。しかしどうしても米や籾がこぼれてしまうので、天保10年(1839)にこぼれた米や籾の供養のため石倉というこの碑を建てたという。
 左手に「総社神社」がある。ここは神亀元年(724)に勧請されたといい、宝永4年(1707)に現在地に移ったという。
総社神社
 右手に「蓮入院」がある。ここは大坂の陣(1615)後、佐竹藩の家臣が念仏行者としてこの地に庵を結んだのが始まりという。境内には文久4年(1864)の湯殿山碑や弘化4年(1847)の太平山碑があり、銀杏の巨木が2本立ってる。
蓮入院
 その先で羽州街道との交点に来る。ここで浜街道は歩き終えたことになる。

 17時29分に歩き終える。

 本日の歩行時間  11時間42分。
 本日の歩数&距離 56127歩、38.8km。

 夜、鐙さん、藤原さんとお会いして食事をご一緒させていただく。
鐙さんは奥州街道を歩いた時にとてもお世話になった方で、東北地区での街道活動の中心的存在の方だ。今回もご連絡をさせていただいたところ、気持ちよく時間を空けていただいた。
 藤原さんは仙台であった街道会議の分科会で一緒にパネラーを務めさせていただいた方で、「羽州街道をゆく」の著者でもある。久しぶりにお会いさせていただいたが、お二人ともお元気そうで楽しいひと時を過ごすことができた。
鐙さん、藤原さんとお

浜街道(鶴岡~秋田)合計
 総歩行時間   43時間41分。
 総歩数      212839歩。
 総歩行距離   150.4km。
 浜街道純距離  137km。(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離)

浜街道(新潟~秋田)総合計
 総歩行時間   85時間53分。
 総歩数      437834歩。
 総歩行距離   319.1km。
 浜街道純距離  295.9km。(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離)


 

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