朝鮮人街道を歩く

2014年10月25日(土) ~2014年10月27日(月)
総歩数:88185歩 総距離:62.2km

2014年10月25日(土)

野洲~篠原

                                          晴れ

 朝鮮通信使は室町時代から江戸時代にかけて李氏朝鮮から日本へ派遣された外交使節団で、豊臣秀吉の文禄・慶長の役後しばらく途絶えていたが、江戸期に入って再開された。この使節団は朝鮮国の首都漢陽を出発して釜山に着き、ここから海路対馬へ向かう。その後壱岐、赤間関(下関)を経由して瀬戸内海を渡り、大阪湾へ入って淀川を遡り、淀の納所に到着、ここから鳥羽街道を北上して京に入った。京から東海道を草津へ向かい、ここから分岐して中山道へ進む。中山道野洲の行畑で中山道から更に分岐、その先の鳥居本で再び中山道に合流するが、この野洲から鳥居本までの道が朝鮮人街道と呼ばれている。この道は関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が、佐和山城からこの街道を通って上洛した吉例の道で、大名行列の往来は許されなかった街道だったという。使節団はなぜ中山道を使わず、この街道を通ったかという理由に、この吉例の道であると同時に、400名を超す大人数の使節団を受け入れる環境が近江八幡、彦根という都市に整っていたということがあるという。使節団はその後、美濃路を経て、名古屋の熱田で東海道に合流して江戸へ向かい、約2000㎞を約五か月以上かけて進んだという。

 中山道との分岐点にあった「右 中山道」「左 八まんみ(ち)」と刻まれている享保4年(1719)の道標は、現在は中山道と朝鮮人街道の分岐点より少し下がった「蓮照寺」の境内に置かれている。「八幡道」とは朝鮮人街道のことであり、地域によっては「唐人街道」「京道」「京街道」「彦根道」とも呼ばれていたという。またその横には「従是北淀領」と刻まれた山城国淀藩領だった行合村の村境から移築した境界石が立っている。
分岐点
 蓮照寺を出て中山道を分岐点に向かって進む途中右手に行事神社があり、ここに「背くらべ地蔵」と「阿弥陀如来立像」がある。この石仏は鎌倉時代のもので、中山道を行き交う旅人の道中を守ったといわれており、また当時は乳児がよく死んだので、子を持つ親たちが、「わが子もこのお地蔵さんくらいになれば、あとはよく育つ」と背くらべをさせるようになり、いつしか「背くらべ地蔵」と呼ばれるようになったという。
背くらべ地蔵
 この神社には鳥居と拝殿のあいだに、大きな勧請縄がかけられている。毎年、1月に氏子たちによって架け替えられ、村に悪霊や疫病などが入ってこないようにと 1年間 吊るされるという。
勧請縄
 その先で中山道との分岐点に着く。ここには分岐点を示す標識が立っている。
分岐点を示す標識
 ここを11時48分に出発する。
 右手に野洲小学校があり、街道との間に「祇王井川」が流れている。奈良時代の頃、この地の庄司橘次郎時長の子供だった祇王・妓女が、平清盛の寵愛を受けた。祇王は故郷の水利が悪く、旱魃に悩まされていることを清盛に訴え、承安3年(1173)に三上地先の野洲川から琵琶湖野田浦に至る約12㎞の水路を作ってもらったという。その恩恵をたたえて、この水路を「祇王井」と名づけ、現在でも近郷十カ村の灌漑用水をまかなっているという。
祇王井川
 右手に駅前サウルス公園があるが、ここは野洲群勧業館や野洲郡役所があったところで、後には野洲町役場があった場所だ。
 野洲駅前の信号交差点の右手に真宗木辺派の本山である錦織寺への道標が立っている。
錦織寺
 街道はその先でJRの線路によって消滅しているため、跨線橋を渡って線路の反対側にでる。跨線橋を渡った先、左手に「円光寺」がある。ここは長福寺と円光坊というお寺が室町時代末に合併してできた天台宗の寺院で、本堂は康元2年(1257)に建立された。境内には同時期に建てられたという九重石塔が立っている。これらはともに重要文化財に指定されている。
円光寺
 JRの線路を渡る前の道の延長線上に伸びている道を進み、祇王井川を渡って富波乙の集落を進んでいくと、左手少し入ったところに「生和神社」がある。ここの草創は平安時代で、その後富波荘の領主鎌倉左衛門次郎が祖先を氏神として祀ったと伝えられている。本殿は南北朝時代の建立と考えられている。また境内には鎌倉時代の建立と考えられている春日神社本殿があり、共に重要文化財に指定されている。
生和神社
 その先、左手入ったところに「常楽寺」がある。「滋賀県歴史の道調査報告書」によると、ここには平安時代の釈迦如来坐像や室町時代に造られた観音大士坐像があるということだったが、だれも住まれていないようで、わからなかった。
 街道に戻って進むが、旧い歴史を感じさせる家が数多く建っている。
歴史を感じさせる家
 この辺りは古くは古墳時代の遺跡や、平安時代、鎌倉時代の遺跡があり、また、室町時代後半の六角氏の家臣として、このあたりを中心に勢力を伸ばした永原氏の本拠地でもあった。織田信長は永原氏の没落後、家臣佐久間信盛を上永原城に配し、羽柴秀吉は賤ヶ岳の戦いでここを軍勢の集結地点として使用するなど、古来ぞれぞれの時代での戦略上の拠点でもあった場所だ。
右手に旧屋棟川の守神を祀っているという「屋棟神社」がある。
屋棟神社
 その前、街道を挟んで反対側に足利義持が創建したと伝えられている「福泉寺」がある。
福泉寺
 その先へ進んでいくと、左手に福泉寺の伽藍の一堂であったという「薬師堂」がある。ここには平安時代後期の作品といわれる薬師如来坐像がある。
薬師堂
 ここから街道を外れて左折して進むと、永原氏の菩提寺の「常念寺」がある。ここには正応元年(1288)の層塔がある。
常念寺
 街道に戻って進み、その先から再び街道から外れて左折して進むと、「土安神社」がある。祇王井川を造るとき、工事の途中で蹉跌したが、夢に現れた一童子が工事の手法を授けたことによって完成したので、上流を祇王井川、下流を童子川と名づけ、この童子を土安神社に祀ったという。
土安神社
 ここから更に左折して進むと、「永原御殿址」がある。ここは徳川家康から三代家光までの将軍上洛時の宿泊所として使用されたという。特に寛永11年(1634)の家光上洛の際には大整備が行われ、本丸、二の丸、三の丸と、それまでの約六倍の広さに拡充されたという。その後貞享元年(1684)に廃止され、今ではわずかに石垣の一部が残るのみとなっている。
永原御殿址
 その先に「菅原神社」がある。ここは文禄元年の天神社記によれば、文治2年(1186)源頼朝公の勧請により創立と記されているが、創立は更に古く、康保年間(964~968)と説明されている。ここの神門は室町時代後期のものとされており、重要文化財に指定されている。
「菅原神社
 ここから逆方向へ戻って行くと「祇王寺」がある。ここは祇王、妓女を祀っているそうだが、無住で中を見るには予約が必要とのこと。そのため見ることはできなかった。
 ここから街道に戻って進むと、右手に明治13年の常夜燈が立っている。またそのすぐ横に「朝鮮人街道」の看板が立っている。こうした標識は歩くうえで非常に助かるものだ。
明治13年の常夜燈朝鮮人街道

 その先で48号線に出る。街道はそのまま48号線を横断して進むのだが、今日は夕方までに京都まで戻らなければいけないので、ここで街道から離れて右折して進むと、その先右手に少し入ったところに「春日神社」がある。ここの神門は永正8年(1511)に建てられた簡単な造りの棟門で、重要文化財に指定されている。
春日神社
 15時5分に篠原駅に着く。

 本日の歩行時間   3時間17分。
 本日の歩数&距離 17586歩、12.4km。
 本日の街道純距離 5.7km。(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離)

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