朝鮮人街道を歩く

2014年10月25日(土) ~2014年10月27日(月)
総歩数:88185歩 総距離:62.2km

2014年10月27日(月)

稲枝~鳥居本

                                     曇り一時雨

 7時35分に彦富町の信号を出発する。2号線は一直線に通っていて、周囲は田んぼだ。すでに刈入れは終わっている。この辺りは昔は松並木があり、松街道と呼ばれていたというが、現在はその面影は全くない。
 しばらく歩いていき、2号線が右に曲がるところを直進する。街道の先、突当りに「国昌寺」がある。ここには彦根市指定文化財になっている平安時代後期の聖観音坐像がある。
国昌寺
 この辺りには、前日守山で宿泊し、近江八幡で昼食を摂った通信使一行が休息をとる山崎御茶屋があったという。街道は山すそを通って進むが、左手に「奥山寺」「従是荒神道 八町」寛政10年(1798)と刻まれた道標が立っている。
奥山寺
 更にその先左手にも全く同じ道標が立っており、その奥に荒神山神社がある。参道は紅葉が始まっていてきれいだ。
同じ道標参道は紅葉

 そのすぐ先左手に「天満天神宮」がある。ここは清崎、賀田山両村の産土神を祀っている。
「天満天神宮
 右手に宇曽川が流れているが、この川は江戸時代には彦根藩の年貢米を回送するなど舟運に盛んに利用され、運送川が訛って宇曽川になったという説もあるという。この川に架かる天満橋を渡って進むが、この橋の袂に「右 千手寺」「左 八まん」と刻まれた道標が立っている。
右 千手寺
 橋を渡った先で左折して進むと、その先右手に朝鮮人街道を書かれた看板が右手に立っている。
 その先左手に西国三十二番札所観音正寺の湧水があり、横に赤い鳥居と稲荷神社の小祠がある。
観音正寺の湧水
 甘呂町東の信号の一つ先の角を右折、その先で今度は左折して進み、犬上川に架かる犬上橋を渡るが、この橋は歩道がなく、車の通行量はかなりあるので、ちょっと怖い。
 左手にこの地の産土神を祀る「白山神社」があり、道路の右手には「白山神社御旅所」の石柱が立っている。
白山神社
 右手に「十王村の水」がある。 ここは湖東三名水(五個荘清水ケ鼻の水、醒井の水、十王の水)の一つとして知られているという。池中には六角形の地蔵堂があり、中には石造りの母乳地蔵尊が安置されている。この名水を飲むと母乳が良く出るという伝承があるという。近所の方と思われる男性が二人、ペットボトルをいくつも持って水を汲みに来られていた。
私もいつもの癖で飲んでみたが、冷たくておいしかった。
十王村の水
 その先、街道から外れて左手に入ったところに浄土真宗本願寺派の「明照寺」がある。ここは明徳元年(1390)に浄土真宗に改宗、慶長4年(1599)に現在地に移ったという。石山合戦の際には多くの信者を結集させ、他の真宗寺院と共に織田信長に激しく抵抗したことでも知られている。ここの庭園は作庭時期は不明ながら、芭蕉が明照寺に滞在している時に、「百歳の景色を庭の落ち葉かな」という句を残していることから、江戸時代前期には作庭されていたと考えられているという。この庭園は彦根市指定文化財になっており、庭園の奥には芭蕉が没した際、彼が生前使用していた渋笠をもらって埋めたという笠塚がある。
明照寺笠塚

 街道に戻って進むと、右手に「鳴宮神社」がある。ここは平田山の山すそを利用して築かれた神社で、平田の産土神として延文年間(1356~61)に創建されたが、その後焼失、元亀3年(1572)に再建されたという。
鳴宮神社
 その先、街道を外れて右手へ入ったところに「彦根神社」がある。ここは当初彦根山に鎮座していたが、彦根城築城で一時廃されていた。七代藩主井伊直惟の時にこの地に再建され、彦根の総社になったという。
彦根神社
 その左手に「長久寺」がある。ここは長久3年(1042)に開創されたと伝えられており、現在の本堂(観音堂)は寛永6年(1629)の建立されたものという。
長久寺
 街道に戻って進むと、左手に橋向の産土神を祀る「蛭子神社」がある。
蛭子神社
 その先で芹川に架かる芹橋を渡るが、この川の両岸には人工的に開削された芹川の堤防を強化するために植えられたという樹齢300年前後という欅の巨木が並んでいて壮観である。
欅の巨木1欅の巨木2

 芹川を越えると彦根の城下町に入っていく。彦根の城下町は築城とともに進められ、元和8年(1622)頃にはほぼ主要な町割りは完成したという。
 銀座町の信号の所に「久左の辻」の石碑が立っている。江戸時代、このあたりに住した豪商近藤久左衛門の名に由来して、ここを久左の辻と呼んでいたという。
久左の辻
 ここから街道は左折して商店街の中を進む。右手に滋賀銀行があり、その裏に「長光寺」がある。
 ここは元和2年(1616)伊賀名張の僧能賢が彦根藩士三浦与右衛門の協力によって建立したものという。ここには彦根市指定文化財で平安時代後期の作といわれる木造毘沙門天立像が安置されている。
長光寺
 街道はこの先から右折して進むのだが、直進して彦根城に向かう。その先で右折して進むと、道の両側は城下町の雰囲気を感じさせる造りになっている店が並んでいる。
 左手に「宗安寺」がある。表門は慶長8年(1603)に佐和山城の大手門を移築したもので、通称赤門といわれている。表門の右手には「徳本行者名号碑」が立っている。また本尊の阿弥陀如来は夏の陣の際に大坂城より持ち出された淀君の念持佛という。
宗安寺表門徳本行者名号碑

 境内には大坂夏の陣で戦死した豊臣方の武将「木村重成公の首塚」がある。
木村重成
 濠を渡って大手門橋から彦根城に入っていく。ここは多くの大老を輩出した譜代大名である井伊氏14代の居城であった。徳川四天王の一人といわれた井伊直政は関ヶ原の戦いの後、石田三成の居城であった佐和山城に入城したが、居城を移すことを検討しているうちに戦いの傷が原因で亡くなってしまった。その後家督を継いだ直継の時代、慶長8年(1603)に彦根城の築城を開始、元和8年(1622)にすべての工事が完了、彦根城が完成した。
彦根城1彦根城坂道

 天主閣は国宝に指定されているが、国宝指定の現存天守を持つ4箇所の城郭は姫路城、松本城、犬山城そして彦根城であり、今回彦根城を見たことによって、これらすべてを見学したことになる。
天主閣
 それ以外に重要文化財に指定されているのは天秤櫓や西の丸三重櫓及び続櫓(1棟)等々がある。
天秤櫓西の丸三重櫓

 彦根城を出て、街道に戻る。街道は城から戻ってくると、中央町へ曲がる商店街の一つ手前を左へ曲がり、その先で右折して現りそな銀行の横から商店街に戻ることになる。ここは枡形になっている。
 右手少し入った所に「長松院」があるが、ここは慶長7年(1602)に創建されたお寺で、関ヶ原合戦の鉄砲傷がもとで亡くなった井伊直政が荼毘に付されたところだ。
長松院
 右手に「蓮華寺」がある。ここは井伊家の旧領だった上野国箕輪から移された日蓮宗寺院で長松院とともに井伊家とのつながりが深く、井伊家の保護で発展したという。
蓮華寺
 その先で街道から外れて左へ進み、中濠に沿って右手へ行くと「鈴木屋敷長屋門」がある。中級武家屋敷の長屋門で文久2年(1862)に建立されたものだ。
鈴木屋敷長屋門
 その先で右折して進み、JRの線路を越え、その先の2号線に合流、佐和山トンネルを通る。この辺りはトンネルの上を旧道は通っていたようだが、今では道はなくなっている。また石田三成の居城だった佐和山城はこの山にあった。トンネルを抜け、その先で2号線から右へ分岐して進み、新幹線の高架下を通って進むと、中山道に合流する。
 13時54分に中山道に合流する。ここに「右 彦根道」「左 中山道 京いせ」と刻まれた文政10年(1817)の道標が立っている。
右 彦根道

 本日の歩行時間   6時間19分。
 本日の歩数&距離  31572歩、22.5km。
 本日の街道純距離  15.2km。(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離)

朝鮮人街道総合計
 総歩行時間      17時間33分。
 総歩数         88185歩。
 総歩行距離      62.2km。
 朝鮮人街道純距離  43.0km。(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離)

 

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん