高野七口 京・大坂道(不動坂)を歩く

2016年11月19日(土) ~2017年03月19日(日)
総歩数:72836歩 総距離:37.7km

2016年11月19日(土)

河内長野~天見駅

                           曇り時々雨
 西高野街道を歩き終えた後、まだ時間があったので、高野街道京・大阪道を歩くことにして、10時23分に河内長野駅を出発する。
 左手に弥生時代の銅鐸と寺院の梵鐘をイメージしたという道標のモニュメントが立っている。
 そのすぐ先、左手に「吉年家」があり、樟の巨木が立っている。この樟は昭和45年に市指定天然記念物に指定されているが、その当時でも樹高20mあったという。
道標のモニュメント
 すぐ先で道は二股に分かれており、高野街道は右へ進むが、街道から外れて少し左へ行ったところに「長野神社」がある。本殿は室町時代のもので国指定の重要文化財となっている。
長野神社
 分岐点に戻って細い下り坂を進むと、「西條家」がある。ここは創業享保3年(1718)の酒造元で、酒蔵通りに建つ旧店舗は、国登録文化財に指定されている。「天野酒」という銘柄という。一度飲んでみたいものだ。
西條家
 この辺りも河内長野市が設置した道標が所々に立っており、それに従って左折、石川を渡って進み、別久坂(びっくさか)を登っていく。
 左手に「右 かうや道」と刻まれた自然石の道標がある。
右 かうや道
 烏帽子形山の山すそを進んでいくと、右手階段の上に「烏帽子形八幡神社」がある。本殿は文明12年(1480)の建立で国指定重要文化財に指定されている。烏帽子形山の頂上には楠木七城の一つと伝えられる烏帽子形城跡があり、山城特有の土塁や空濠が残されているという。
10時47分にここを通る。
烏帽子形八幡
 右手に地蔵尊を安置する祠があり、その横の石仏に花が手向けられていた。
石仏に花
 喜多平野地蔵尊がある。
喜多平野地蔵尊
 その先左手に「増福寺」がある。室町幕府の三管領家の一人、畠山義深公がこの地に隠居したことから、村人達は、義深公の冥福を祈る為に、追善法要が行われて、旧寺跡に新たに一寺を建立すると同時に彼の法名を持って直ぐに寺号とし、今の増福寺が名づけられたという。建物は応永年中(1394年~1411年)8月に建立されたと伝えられている。ここは三日市宿の北の入り口で高札場となっており、お寺の前に復元された高札が立っている。
増福寺高札

 すぐ横に「金刀羅神社」がある。
金刀羅神社
 このあたりの道には「高野街道」と書かれた標識が埋め込まれている。現代の道標だ。
高野街道
 右手に「月輪寺(ガチリンジ)」がある。ここのご本尊は木造薬師如来坐像で、鎌倉時代初期の作品とされていて、大阪府の指定文化財になっている。寺伝によると、平安時代の初期、長野村に住んでいた諸越長者という人が、弘法大師から薬師如来を与えられて大切にしていたが、長者が亡くなると妻が郷里の三日市に戻り、そこにお堂を建てたのが月輪寺の起こりと伝えられているという。
月輪寺1月輪寺2

 天見川に架かる三日市橋を渡ると、昔、高野街道の宿場町として栄えた三日市宿の跡だ。天見川の水は澄んでいてとてもきれいだ。

 「油屋本陣 天誅組史跡」の碑が立っている。大阪から高野山までは16里あり、大阪を朝、出発すると夕方につくのが8里目の三日市町周辺だったため、このあたりは宿場町として栄え、中でも「油屋」は江戸時代に、本業は菜種油の製造、販売を営みながら、高野詣の本陣格の旅籠として有名だったという。幕末の文久3年(1863年)には、時の油屋の主人・庄兵衛が、天誅組の吉年米蔵、水郡善之祐と親しくしていたのが縁で、天誅組の一団が宿泊したということが説明されている。
油屋本陣
 この辺り、旧い格子の家が並んでいて、往時の面影を残している。その先には18世紀後半に建築されたという「八木家住宅」がある。
格子の家八木家

 三日市町駅まで来たところで、11時15分になった。これから先には食事をする店がないようだったので、昼食を摂ることにした。

 食事を終えて先に進むと、新高野橋の手前左手に「西 高野山女人堂江八里」の里程石が立っている。
 11時45分にここを通る。
八里」の里程石
 371号線に合流して進み、新町橋を渡って進むと、右手に「一国一宇庚申」と刻まれた石塔が立っており、その奥に庚申堂がある。境内に安永9年(1780)の灯籠が立っている。
一国一宇庚申庚申堂
 
 その先で371号線から右へ分岐して進むと、右手坂道を少し上ったところに「石仏寺」がある。この坂道が旧道で、石仏寺から天見川まで急な下りになっていて、鳥居坂を呼ばれ、高野街道の難所の一つだったと資料に書かれている。現在は石仏寺のところで道はなくなっている。
境内には享保9年(1724)の宝篋印塔や元文4年(1739)の弘法大師座像がある。
12時13分にここを通る。
石仏寺享保9年

 その先石仏南の信号で舗装道に合流するが、ここは歩道がなく、車の通りも多いのでちょっと怖い道だった。
 その先右手少し入ったところに祠が見えたので行ってみた。これが資料に記載されている「北向き地蔵尊」のようだ。
北向き地蔵
 この祠のすぐ上に草道があり、これが旧道かなと思ってここを歩いたが、どうも違っていたようだ。ただ車道は歩道がなくて怖いのでこちらを歩いてよかった。
草道
 この草道が車道に合流するところに車道から右に分岐した道があり、これが旧道のようだったので、これを進んでいく。 
 その先で371号線に合流して進むと、右手に「清水井戸」がある。
清水井戸
 その先で、371号線から左へ分岐して進むと、左側に天見簡易郵便局があり、その先の橋のたもとに左側に小祠があり、自然石が三つ祀られている。
、自然石が三つ
 天見川に架かる高橋を渡って最初の辻が「御所の辻」だ。ここに地蔵堂があり、190cmほどの地蔵尊が安置されている。昔ここで火災があり、付近一帯は焼野原になったが、この地蔵岳は焼けなかったという。その前に「御室」と刻まれ、天皇家を意味する菊と桐の文様が描かれた元文2年(1737)の線香立てがある。これは正平3年(1348年)に、大和賀名生(奈良県五條市)にいた南朝の後村上天皇が、天野山金剛寺に皇居を移すさいに、この付近で一夜を明かしたそうで、その栄光を喜んで村人が「御所の辻」と呼ぶようになったという説があり、また、ある皇族の姫君が高野山に参詣する途中、この御所の辻のあたりで「神隠し」にあったので、姫君の菩提を弔うために御堂を建て、その際、菊と桐の紋章の使用が許可された、という伝承が残っているという。堂の左手には「右かうやくまのミち」と刻まれた元文6年(1741)の地蔵道標があり、その奥に宝篋印塔が立っている。
12時52分にここを通る。
御所の辻
 ここから右折して進むが、その角に明和9年(1772)の太神宮灯籠が立っており、「右 かうや 左 かうんこうせみち」と刻まれたどいう地蔵道標がある。
左 かうんこうせみち
 右手に「松明屋」がある。ここは弘法大師が京都・東寺から高野山に百箇日参りをして、最終日の百日目を迎えたときに、この地で夜明けを迎えられた。明るくなったので松明を大地に突き刺すと、松明から根と枝が伸びて、みるみるうちに大木に成ったという伝承がある。また弘法大師が、京都の嵯峨天皇に参内するために高野山から降りてきた際、松明屋付近の村人におもてなしを受けて、そのお礼に粽の製法を教えた。弘法大師直伝の粽は、食べれば病人がたちまち治ってしまう霊験あらたかな「大師粽」として、数多くの高野山への参詣者が求めたという。
松明屋
 旧道から小さな橋を渡って371号線に合流して進むと、右手に「高野山女人堂江七里」の里程石が立っている。
13時10分にここを通る。
七里里程石

 その先左手に天見小学校があるところから137号線から左へ分岐して進み、13時30分に天見駅に着くと、ちょうど電車が入ってくるところだったので、切符を買う間もなく電車に飛び乗る。この時間帯、この駅は一時間に2本しか電車がないので、間に合ってよかった。ここから大坂へ出て、I君は金沢へ、私は小倉へ帰る。

 本日の歩行時間   3時間7分。
 本日の歩数&距離 11955歩、9.3km。
 本日の純距離    8.3km.(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離)

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