高野七口 京・大坂道(不動坂)を歩く

2016年11月19日(土) ~2017年03月19日(日)
総歩数:72836歩 総距離:37.7km

2017年02月08日(水)

御幸辻~学文路

                             曇り

 8時44分に御幸辻の昨日歩いたところから出発する。御幸辻の駅へ分岐するところの左手に赤い鳥居とその奥に小祠がある。
御幸辻
 右手に「牛頭天王神社」があり、ここに「正遷宮奉賛金のお願い」と書かれた旗が立っている。この旗はここに来るまでにもあちこちに立っていた。平成30年5月に遷宮の予定のようだ。境内には嘉永7年(1854)の常夜燈が立っていた。
牛頭天王神社1牛頭天王神社2

 神社を右手に見ながらそのまま直進してしまったが、すぐ先で行き止まりになっていた。道を間違ったのだ。街道は神社から左折、すぐ先で右へ分岐する道だったので、これを進んで、その先で371号線に合流する。
 右手に天保5年(1834)の常夜燈とその横に石仏が立っているところから371号線から左へ分岐して進む。
天保5年
 一旦371号線に合流、更にその先で再び371号線から左へ分岐して進み、鉄道の高架下を通った先で道は二股に分かれており、ここの左手に「西 右かうや 左京大坂道」「北 右わか山こかは 左い勢ならはせよし野 追分」「東 京大坂道」「南 南無大師返上金剛」と刻まれた道標が立っている。
右わか山
 二股を左手に進むと、24号線を横断した先に文化11年(1814)に建立された東家渡場大常夜燈籠が立っており、その横に「高野山女人堂江四里」と刻まれた四里石と「歯痛地蔵尊」を祀る小祠がある。ここには天正15年(1587)応其上人によって橋が架けられ、このことからこの地を橋本と呼ぶようになったという。この橋は三年後に紀ノ川の増水によって流失してしまったため、その後は舟による無銭横渡が行われるようになったという。もとは同型の燈籠二基が相対して建てられていたが、うち1基は紀ノ川の洪水によって流失したという。
東家渡場大常夜燈籠四里石

 ここから紀ノ川に架かる現在の橋本橋を渡る。

 橋を渡って右折して進むと、右手に2体の地蔵尊を安置する地蔵堂があり、天保5年(1834)の常夜燈が立っている。この祠を挟んで左右に宝暦2年(1752)の常夜燈が二基立っている。これが紀ノ川南岸渡し場のあった場所で、三軒茶屋の大常夜燈楼と呼ばれている。
三軒茶屋の大常夜燈楼1三軒茶屋の大常夜燈楼2

 その先右手に「西行庵」がある。ここには平安時代末期の歌人西行が一時止住したと伝えられ、西行像とされる像が堂内に残されていることから、西行ゆかりの地として「西行庵」と呼ばれているという。
西行庵
 ここの右手に「高野街道六地蔵第一」の地蔵尊が安置されている。これは江戸時代後半ごろに高野詣を行う旅人の安全を祈念して置かれたものといい、第六地蔵まである。祠の中には「をうくわん かうやさん道」と刻まれた地蔵道標があり、その横には文化3年(1806)の常夜燈が立っている。10時15分にここを通る。
六地蔵第一
 その先の突き当りに地蔵堂があり、台石に「右 高野道」と刻まれている。
右 高野道」
 右手に文政13年(1830)の常夜燈、西国三十三か所供養塔そして観音堂がある。
文政13年
 ここから左折、すぐ先で右折して進むと左手に「戸隠神社」という小祠がある。
戸隠神社
 更にその先に371号線の下をくぐったところに2体の石仏を安置する小祠がある。
371号線の下
 この道は街道から外れているのだが、社皇神社へ行こうと思って道を間違えたところに偶然あったものだ。
 その先で「社皇神社」がある。ここは大同2年(807)に勧請されたという古い歴史をもつ神社で、境内には文化8年(1811)の常夜燈た立っている。街道をそのまま歩いていくと、371号線の下をくぐって、すぐ先を左折すると、右手にあることになる。
社皇神社
 左手に「清水不動寺」がある。境内には文化5年(1808)の常夜燈が立っており、右手には天保5年(1834)の地蔵尊を含む地蔵堂がある。
清水不動寺
 左手に学文路中学校がある右手に3体の地蔵尊を安置する祠がある。これは「焼けん地蔵」と呼ばれており、昔、清水の村で大火事があったとき、この地蔵尊だけは焼けなかったという。
焼けん地蔵
 更にその右手、紀ノ川の堤防の上に大師堂があり、その横に二つの小祠があるが、何を祀っているのかわからなかった。
大師堂
 右手に「福成成就寺」がある。境内に弘法大師一千年供養塔をはじめとした石仏等がある。
福成成就寺1福成成就寺2

 船越喜右衛門の顕彰碑が立っている。船頭だった喜右衛門は嘉永5年(1852)の紀ノ川大洪水の際、危険を顧みず舟を出して孤立した多数の村人を助けたという。
船越喜右衛門
 370号線に合流するところ右手に「高野街道六地蔵第二」を安置した祠がある。その前に道標が立っているが、何と刻まれているのか判読できなかった。
六地蔵第二
 その先の民家の玄関前に「高野山女人堂江三里」と刻まれた三里石がある。11時20分にここを通る。
三里石
 その道を挟んで左手には「かむろ大師堂」がある。弘法大師が高野山を開かれた時代のかむろは梅の名所で「香室」と書いていた。ここに謡曲高野物狂の主人公である高師四郎が住んでいて、学問を広めるために尽力したため、この地方では字の読めない者が一人もいなかったという。こうしたことから香室を学文路と書くようになったという。
かむろ大師堂1
 高師四郎が亡くなったとき、その死を悼んで弘法大師が菩提のため読経をされたのだが、その時、弘法大師が腰かけられた石が「大師さんの腰かけ石」として安置されている。
腰かけ石
 学文路郵便局のポストの横に「興山寺領境界標石」が立っている。これは興山寺領と紀伊藩領との境界に設置されたものという。
興山寺領境界標石
 郵便局の左手に「右 京 大坂道」と刻まれた元治元年(1864)の道標が立っている。
元治元年
 370号線を横断するが、ここの右手に「右ハ慈尊院みち 是より一里」「左ハ高野みち 女人堂迄三里」と刻まれた宝暦8年(1758)の道標が立っている。
右ハ慈尊院みち
 370号線を横断して進むが、道は急な登坂になる。右手に地蔵尊を安置する二つの小祠がある。
二つの小祠
 右手に「石童丸物語 玉屋宿跡」と書かれた碑が立っている。
玉屋宿跡
 石童丸物語とは平安時代末期、筑紫国(現在の福岡県)の領主だった加藤左衛門尉繁氏が、側室・千里ノ前に嫉妬する本妻の姿を見て、世の無常を感じ、すべてを捨てて出家することを決意。高野山で修行の日々に入り、苅萱道心と呼ばれるようになった。一方、千里ノ前は播磨国(現在の兵庫県)に移って石童丸を産むが、苅萱道心はそのことは知らなかった。石童丸が14歳のころ、旅の僧から父に似た人を高野山で見たという話を聞き、母の千里ノ前とともに高野山に向かった。しかし、当時の高野山は女人禁制だったため、石童丸は千里ノ前を学文路の宿に残し、一人で山を登り父の行方を探した。玉屋はこの時、千里ノ前が宿泊をしていたところだ。苅萱道心は石童丸と出会い、身の上話を聞くと自分が父であることを悟るが、世を捨て仏道に励む修行中の身。親とは名乗らず、「尋ね人は亡くなった」と母のもとへ帰してしまう。 石童丸が山を下りてみると千里ノ前は長旅の疲れから亡くなってしまっていた。悲しみに暮れる石童丸は母を学文路で葬り、再び高野山へ登って苅萱道心に弟子入りを願う。苅萱道心は親子の縁の深さ、仏の導きを感じながらも、生涯親子の名乗りはしなかったという。
 その先に「西光寺」があり、ここに学文路苅萱堂がある。これは石童丸ゆかりの堂として建立されたが詳細は不明という。石童丸、苅萱道心、千里ノ前、玉屋主人(石童丸親子が宿泊した宿の主人)の座像が安置されている。昭和の終わり頃には廃寺となりかけたが、石童丸の物語を後世に伝えるべく、保存会によって平成4年に再建された。隣接する西光寺が管理をしているという。
西光寺
 ここに「人魚のお堂」と書かれた看板がかかっている。ここに人魚のミイラがあるそうで、この人魚のミイラは、推古天皇27年(519年)に近江国の蒲生川で人魚が捕獲されたと『日本書紀』にあるが、その時に捕らえられた人魚の兄妹とされている。川のそばにある尼僧の許に訪れていた3人の小姓の正体が人魚であり、一体は蒲生川で捕らえられてミイラとされて地元の願成寺に安置され(非公開)、一体は蒲生川を遡った日野で殺され(現在人魚塚がある)、そして最後の一体は通りがかった弘法大師のお供をして高野山に行ったという。この最後の一体が、苅萱堂に安置されているミイラであるという。

 11時41分にここに到着する。
 ここから学文路駅まで戻って帰郷する。

 本日の歩行時間   2時間57分。
 本日の歩数&距離 12988歩、9.9㎞。
 本日の純距離    8.1km。(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離)

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