高野七口 京・大坂道(不動坂)を歩く

2016年11月19日(土) ~2017年03月19日(日)
総歩数:72836歩 総距離:37.7km

2017年03月19日(日)

学文路~不動坂~高野山

                         晴れ

 今回は以前、西高野街道を一緒に歩いた金沢のI君と、日本100名山のうち90名山を踏破しているという松戸のS君と3人で歩くことになった。3人は学生時代に同じ体育会で汗を流した仲間で、昨日開催されたOB会に出席し、今回の高野山への登りを一緒することになった次第だ。

 学文路駅に10時26分に到着し、前回の到達点である西光寺を10時40分に出発する。
 一応写真を撮っておくが、前回と同じ姿だ。当たり前といえば当たり前のことだが。
西光寺
 道は緩やかな登りになっている。
 右手に一体の石仏を安置する小祠が一つあり、その先の右手にやはり一体の石仏を安置する小祠が二つ並んでいる。
小祠1小祠2
 すぐ先で道は二股に分かれているので、右へ進むと、やがて道は平坦になってくる。
 右手に阿弥陀如来を安置する祠が一つ、薬師如来を安置する祠が二つ並んでいる。
阿弥陀如来
 寒さ対策で各自厚着をしてきたのだが、上り坂なので、早くも暑くなってきて、三人とも一枚服を脱いで、これからの登りに備えることにする。
  この辺りには石仏を安置する小祠が多く、この先にもそれぞれ一体の石仏を安置する小祠が二つある。
小祠3小祠4

 後ろを振り返ると、まだ歩き始めてあまり時間が経っていないのに、大分登ってきていることがわかる。
景色
 道が二股に分かれているところがあり、ここに「高野山女人堂迄九拾町 宿坊恵光院」と刻まれた石標が立っている。
 ここを左へ直進する。11時4分にここを通る。
女人堂迄九拾町
 左手に石垣がある道を登っていく。
石垣
 左手に「第三の地蔵」がある。江戸時代に街道の参拝者の安全を祈って作られたのが六地蔵尊で、これはそのうちの第三の地蔵と呼ばれており、今も子安地蔵として信仰されていると説明されている。11時10分にここを通る。
第三の地蔵
 右手にゆめさきトンネルを見ながら進んでいくが、ここにも標識が立っているので、それに従って進んでいく。
にゆめさきトンネル1にゆめさきトンネル2

 右手に嘉永7年(1854)の常夜燈があり、その奥に小祠がある。祠の前には天保15年(1844)と刻まれた花立が立っている。
嘉永7年
 その先左手に澄尾池があり、その土手に「法花一字一石搭」が立っている。かすかに天保と刻まれているように見える。
澄尾池
 右手に「大師の硯水」がある。この地を通りかかった弘法大師が硯の水を求めたところ、村人は遠い谷まで水を汲みにいったので、大師はその不便さを察し、地面に杖を突き刺したところ、清水が湧き出したという。弘法大師にはこのように杖を突き刺すと水が出てきたという逸話が多い。調べてみると全国で1500か所近くあるという。
大師の硯水
 左手に「高野山女人堂迄八十丁」と刻まれた道標が立っている。
女人堂迄八十丁
 その先で急坂を下っていくと道の案内板がある。
道の案内板
 この案内板から急角度に曲がって下っていくのだが、この曲がり角の右手に「第四の地蔵」がある。11時25分にここを通る。
第四の地蔵
 坂を下っていくと、左手に「丹生神社」がある。ここは空海上人の勧めで創建されたといい、永正14年(1517)に改築されたという棟札が残されているという。
丹生神社
 同じ境内の横に「日輪寺」が並んで建っている。ここは創立は定かではないが、元和のころ(1615~1623)に仁和寺の宮が高野山へ登った際、この地で休憩されたことから、元禄9年(1696)に仁和寺から大智山遍照院の山号院号が許されたという。11時31分にここを通る。
日輪寺
 その先、右手に河根宿の本陣だった「中屋旅館」がある。ここは後に出てくる日本最後の仇討ちの村上兄弟一行が事件前夜、謀議の為宿泊したとされている場所だ。
中屋旅館
 すぐ先、左手に「高野山女人堂迄七十五丁」と刻まれた道標が立っている。
女人堂迄七十五丁
 その先、左手に4体の石仏を安置したコンクリートの祠がある。
コンクリートの
 丹生川に架かる千石橋の手前、右手に「八坂神社」があり、その横に「是より高野山女人堂江二里」と刻まれた二里石が立っている。
11時42分にここを通る。
二里石
 千石橋を渡るが、川の水がきれいだ。
千石橋川の水

 橋を渡るとT字路になっているので、右へ進むが、ここから街道で最も厳しいといわれる急坂が始まる。
 坂を上ると、作水集落があり、左手に「第五の地蔵」があって、「厄払い地蔵尊」と書かれている。
 11時56分にここに着く。
第五の地蔵
 更にそのすぐ先左手に文政4年(1821)の常夜燈が立っており、道は二股に分かれていて、左手は急な下り坂になっているが、ここは右へ進む。
文政4年
 この辺りはちょっと平坦になっているので、ここで昼食をとることにし、各自持参したパンやおにぎりを食べる。
 昼食を食べ終えて出発するが、その先もこれまで程ではないものの、登り坂が続く。
 右手に小祠があるが、何を祀っているのかわからなかった。
右手に小祠
 左手に「第六の地蔵」がある。12時57分にここを通る。
第六の地蔵
 左手に日本最後の「高野の仇討ち」の案内板が立っている。
高野の仇討ち
 それによると播州赤穂藩では藩主継嗣問題と藩政改革をめぐり、江戸の年寄森続之丞らと、国元の家老森主税らとが対立していた。そこに勤王派の西川升吉らが加わり、森主税とそれに与する参政村上真輔を殺してしまうという事件が文久2年(1862)に起きた。ところが、勤王の名のもとに西川升吉の殺人は賞賛され、かえって被害者である森主税や村上真輔の遺族が閉門の処分を受けることになってしまった。
 事件から9年後の明治4年、吟味の結果、村上真輔の冤罪が確定すると、同人の子である村上行蔵らは復讐の決意を固める。この復讐の動きを懸念した藩の働きかけにより、西川升吉一派の西川邦治ら6名とこれに同行した田川岩吉の計7名は赤穂を離れ、釈迦文院において森家廟所の守衛となるべく高野山中を進んでいたが、作水峠のこの場所において村上行蔵ら7名によって殺害されたという。その後、この事件をきっかけにして、明治6年に復讐禁止の布告がなされたという。
 日本最後の仇討ちと言えば、熊野古道紀伊路で山中蹊を歩いた際、やはり日本で最後の仇討ちの場所というところがあったが、その地は文久3年(1863)となっている。
 更にもう一件あって、明治13年に、11歳の時に父母を惨殺された旧秋月藩士(福岡藩の支藩)臼井六郎は、父母の仇として東京上等裁判官判事補一瀬直久を東京・京橋の黒田長徳邸内で刺殺した事件がある。臼井六郎はすぐに自首し、終身禁獄に処されたという。時系列からみるとこれが本当の最後の仇討ちのようだ。

 この先右手に「日本最後の仇討ち墓所」の標識が立っており、そこから右手に少し入ったところに、討たれた7人が地元神谷の村人に葬られた殉難七士の墓がある。
仇討ち墓所1仇討ち墓所2

 右手に4本の道標が立っており、その中の一本に「是より高野山女人堂江一里」と刻まれた一里石がある。13時46分にここを通る。
一里石
 このすぐ上に「むすび地蔵」がある。神谷の人達によって建て替えられたお堂で、三体のお地蔵様が安置されているが、どういう由来があるのかはわからなかった。
むすび地蔵
 左手に「至 高野山 四六00メートル」「一里六町」と刻まれた道標が立っている。
一里六町
 左手に「御成婚記念道程標」が立っており、「高野山女人堂 四四00メートル 壱里四町二十間」と刻まれている。
御成婚記念道程標
 右手に木造の「元白藤小学校」が立っている。14時3分にここを通る。
元白藤小学校
 左手に「至高野山迄(?) 四二00メートル 一里二町三十間」と読める大正13年の道標が立っている。
一里二町三十間
 左手に「至高野山女人堂 三十」刻まれ、その下が破損している明治32年の道標が倒れている。
女人堂 三十
 左手に「高野山」と刻まれ、その下が破損している大正13年の道標がある。
 このあたりには同じような感じの道標が数多く立っている。
高野山」と刻まれ
 右手に「右 これよりくまの道」と刻まれた地蔵道標がある。
右 これよりくまの道
 その先の四つ角右手に「6.0km 高野山 極楽橋 1.3km 四寸岩 (大師足跡) 紀伊神谷駅」と書かれた木の道標が立っている。
四つ角右手1四つ角右手2
 
 最初、うっかりしてここを右折して進んだのだが、高野七口再生保存会の入谷さんから、ここは直進して進む古道があるということをメールで教えていただいていたことを思い出して、この四つ角まで戻って直進する。

 左手に「至高野山 3600メートル 三十三町」と刻まれた道標が倒れている。 三十三町
 右手に一軒の家屋があり、その先で道は山道になる。ここに四寸岩までは行くことができるが、その先は進めないと書かれた案内板が立っていたが、入谷さんのアドバイスに従って進んでいく。
四寸岩1
 ここからは山道になっているが、しっかりとした道が続いている。
四寸岩2
 左手に「至高野山 三四00メートル 三十一町」と刻まれた道標が立っている。
三十一町
 小さな橋が架かっており、その先左手に「女人堂迄 二十六丁」と刻まれた道標が立っているが、これまでに立っていた道標とは形態が異なっている。
二十六丁
 そのすぐ先に「四寸岩」がある。
四寸岩
 これは弘法大師の足跡と伝承される窪みが二つ残る岩のことで、窪みの幅が四寸あることから、この名前が付いたという。 この地は難所の一つであると同時に信仰の対象になっていて、江戸時代にはすでにこれらの伝承が存在していたという。
14時47分にここを通る。
 ここまで来てこの先にも道は続いているようだったので、入谷さんにこの先も進むことができるかどうか、確認させていただくと、歩くことはできるが、極楽橋駅のところで線路を横断するので、その時は電車に十分気を付けてくださいというアドバイスといただいたので、先へ進む。
 右手に急な階段があるが、通行禁止の札が下がっているので、そのまま山道を下っていく。
急な階段
 南海電鉄の線路に突き当たるところに「だいしあしあとすぐ」と刻まれた石標が立っている。
だいしあしあとすぐ ここから電車が来ていないか左右を確かめて、線路を横断して極楽橋へ向かい、14時57分に極楽橋を渡る。
極楽橋1極楽橋2

 橋を渡ったところに「不動坂 女人堂迄二十四丁」と刻まれた道標が立っており、ここから左折して進む。
女人堂迄二十四丁
 左手にケーブルカーの線路を見ながら進み、ケーブルカーのトンネルをくぐって進む。
トンネル
 トンネルを抜けるとT字路になるので、ここを左折する。
T字路
 「クマ出没 注意」と書かれた看板がアチコチに立っている。熊がよく出るのだろうが、さすがにこの時期は大丈夫だろうと思いながら進む。
クマ出没
 その先、右手に「不動坂」と「いろは坂」の説明板が立っている。
不動坂」と「いろは坂
 それによると不動坂は約2kmと距離は短いが、高野山を目前にしての最後の難関と書かれており、いろは坂はここからの登り坂はつづら折れの形式をそなえ、全ての曲がりをとって「四十八曲がり」と呼ばれていて、弘法大師が作ったという「いろはにほへと・・・」の「いろはうた」の字数につなげて、「いろは坂」とよばれるようになったと説明されている。 ここから右へ坂を上っていく。
 15時11分にここを通る。

 「万丈転」がある。この場所は断崖絶壁で、足を踏み落とすと命にかかわる場所として知られていた。
万丈転
 ここは罪人の手足を縛り付け、簀巻きにして落として、命が助かればそのまま放免、という刑罰が行われていたと説明されている。15時30分にここを通る。

 「外不動」の説明板が立っている。それによると、この場所には大正9年まで不動堂が立っていた場所と考えられているという。この不動堂は不動坂口女人堂の傍に立っていた不動堂(錐揉不動)の内不動に対して、外不動と呼ばれていた。
江戸時代にはすでに建立されていたが、明治16年に焼失し、明治20年に再建された。大正9年に修復移転され、現在は「清不動」という名前でこの先に現存していると説明されている。

 この辺り、左手は断崖になっていて、道端には木の柵が作られている。
左手は断崖
 右手に「南無大師遍照金剛」「右 加うや まきのき坂」と刻まれた寛政4年(1792)の道標が立っている。
南無大師遍照金剛
 「岩不動」と「稚児滝」の説明板が立っている。弘法大師がこの辺りの岩盤のどこかに不動明王の梵字を刻まれたといわれていることから、岩不動と呼ばれているという。
 左手、切り立った崖のかなり下に小さく滝が見える。これが稚児滝と呼ばれるもので、名前の由来については諸説あるが、近松門左衛門の浄瑠璃「心中万年草」で、高野山吉祥院の小姓久米之助と雑貨屋のお梅が、最後に身を投げる悲哀の場所として登場していると説明されている。 写真を撮ったが、うまく撮れていません。
稚児滝
 「清不動堂」に15時50分に着く。前に説明があった外不動がこの場所だ。
清不動堂
 この右横から旧道が伸びているが、ここにはまだ雪が残っていた。 
右横から旧道
 短い距離だが急坂を登る。ここは不動坂のなかでも「花折坂」と呼ばれている。高野山を目前にした参拝者たちはこの場所で花を摘んで当時2基あったという華瓶に供えたことからこの名前が付いたという。

 舗装道に合流したところ左手に、明和3年(1766)の宝篋印塔と石仏が2体立っている。
宝篋印塔
 すぐ先で16時34分に不動坂女人堂に着く。
不動坂女人堂
 この後、金剛峯寺まで行って無事京・大坂道を踏破した御礼をする。
金剛峯寺
 今日の宿は持明院だが、境内にはまだ雪が残っていた。
持明院

 本日の歩行時間(不動坂女人堂まで) 6時間8分。
 本日の歩数&距離          33037歩、12.5km。
 本日の純距離             12.4km。
(歩数は私の携帯の万歩計では、山歩きの場合正確に出ないので、一緒に歩いたI君の歩数を参考にした) 

高野街道京・大阪道総合計
 総歩行時間      14時間56分。
 総歩数         72836歩。
 総歩行距離      41.8km。
 純距離         37.6km。

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん