美濃路を歩く

2023年01月31日(火) ~2023年02月22日(水)
総歩数:105297歩 総距離:67.6km

2023年02月20日(月)

伝馬町~国府宮

                            晴れ
 10時20分に出発し、伝馬町通りを進んで行き、堀川に架かる伝馬橋を渡る。清州から名古屋へ移転した「清須越え」の際、物流を担う大動脈として開削されたのが堀川で、堀川に架かる七橋の一つがこの伝馬橋だ。西国大名や旅人が名古屋を通る時、皆この橋を渡ったことから名古屋を代表する橋として大いに賑わったという。
街道は橋を渡ってすぐに右折して進むが、街道のもう一本横の道が四間通りと呼ばれている道で、ここは元禄13年(1700)の大火の後、防火の目的と旧大船町商人の商業活動のため、道路幅を四間(約7メートル)に広げたので、その名前がついたといわれており、現在も昔を偲ばせる町屋が軒を連ねているので、一旦ここを歩くことにした。街道から左折して四間通りに入ったところに「浅間神社」がある。ここは正保4年(1645)にこの地に遷座したといい、境内には樹齢三百年を超すという楠木や欅が7本あると説明されている。
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左手に「屋根神様」を祀る家がある。これは名古屋地域でよくみられるもので、これから先もよく見かけた。屋根神は津島神社、熱田神宮、秋葉神社の三社がまつられることが多いが、住居が密集した下町で祀られていて、特に火事の被害は深刻なため、火難除けで有名な秋葉神社が祀られ、また、疫病を防ぐ天王信仰で有名な津島神社が屋根神の信仰に結びついたのは、人口の多い町では伝染病もまた深刻な問題であったためという。火難や疫病除けの信仰に熱田神宮の信仰も加わり、屋根神は様々な性格を持つ神様として祀られたという。
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四間通りから本来の街道へ戻って「伊藤家」を見に行く。現伊藤家は享保4年(1719)に分家した家だが、木造平屋建ての住宅は町屋建築の旧態をよくとどめており、市指定建造物になっている。
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右手に名古屋城の石垣が見える道を進んで行き、幅下二丁目の信号から左折、次の信号で右折、左手になごや小学校があり、そのすぐ先で左折するが、この角右手に「延命地蔵」と「三十三観音」を祀る祠がある。
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更にその先で右折とこの辺りは枡形になっている。
突き当たりを左折して進み、押切北の信号を横断して進むと、右手に「白山神社」がある。ここは文明9年(1477)に白山権現を勧請したことが始まりで、境内に榎が一本あって神木とされていたことから榎権現と称しており、立場があったという。境内入ってすぐ左手に「村中安全」と刻まれた安政3年(1856)の常夜燈が立っていて、その横に榎が立っている。
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右手に「屋根神様」があり、「名古屋を中心に尾張に広まった信仰だが、戦後は次第に取り壊され、今では数えるほどしか残っていない」と説明されている。
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名鉄名古屋線の高架下すぐ手前右手に「清音寺」がある。治承3年(1179)平清盛により井戸田へ流された藤原師長は村長の娘を寵愛したが、後に赦されて都へ帰る際、形見の薬師如来と白菊の枇杷を残した。しかし娘は別れを悲しんでこの地で身を投げて亡くなったという。このことからこの地を枇杷島と名付け、娘の菩提を弔うため、清音寺を建立したという。11時37分にここを通る。
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堤防に突き当たったところにまだ新しい常夜燈と美濃路と記された道標が立っている。
庄内川に架かる枇杷橋を渡り、問屋町の信号から左折するが、右手に「橋詰神社」があり、嘉永と読める手水鉢がある。
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JRの高架下を通って進むと、右手に寛文8年(1668)に創建されたという「松原神社」があり、境内に樹齢400~500年といわれるイチョウのご神木が立っている。境内右手の最初のイチョウの雷で裂けた幹の間に小さな祠がある。12時8分にここを通る。
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右手に明治24年に建てられたという三階建て建物がある。西枇杷町で戦前に建てられた木造三階建て住宅はここだけと説明されている。
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すぐ先右手に屋根神様がある家が二軒ある。
右手に「端正寺」があり、大きな宝塔が立っている。ここは江戸時代の処刑場があったところで、文化12年(1815)に処刑者を悼んでこの宝塔が建てられ、堂宇はその後、天保元年(1830)に建立されたという。「尾張藩刑場跡」碑が横に建てられている。
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新川に架かる新川橋を渡ったところ左手に「左 つしま道」と刻まれた道標等が立っている。ここは先日歩いた津島街道の始点になるところだ。12時30分にここを通る。
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左手に「須ケ口一里塚跡」碑が立っている。
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右手「正覚寺」の入口に自然石の外町一里塚道標があり、「北 みのかい(以下埋没) 南無阿弥陀(以下埋没) 是より 西つしまかい(以下埋没)」と刻まれている。12時54分にここを通る。
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五条橋の手前左手に小祠が三つ並んでいて、その横に天保8年(1837)の常夜燈が立っている。
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五条橋を渡るが、渡る前右手に「清須の前田利家とまつ」の説明板が立っている。
橋を渡った右手に「清洲古城跡」と刻まれた石碑が立っている。
左手に「清涼禅寺」があり、山門鐘楼に正徳2年(1712)の時鐘がある。13時43分にここを通る。
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ここは枡形になっていて、札ノ辻といわれ、高札が立っていたという。
街道はここを右折するが、曲がった左手に「甚目寺 つしま」「佐屋 かもり」と刻まれた道標が立っている。
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左手に「清洲宿本陣正門」がある。明治24年の濃尾地震で建物は崩壊したが、この正門だけは残ったという。門の横に「明治天皇御駐輦之所」碑が立っている。
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左手に本成寺、右手に光遠寺を見ながら進むと、右手に地蔵尊二体を安置する祠がある。右手の石仏には天保と刻まれているようだ。
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左手街道から少し外れたところに織田信長菩提寺の「総見院」がある。ここは織田信雄が父織田信長の菩提寺として建てたのが始まりという。
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右手に「亀翁寺」があり、門前に「内務省御指定国寶虚空菩薩蔵菩薩」の石柱碑が立っている。創建は遠く南北朝時代と言われており、ここに安置されている「木造虚空蔵菩薩坐像」は、南北朝時代の寄木造で重要文化財に指定されているが、御開帳は25年に1度という。14時20分にここを通る。
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左手に「長光寺」がある。ここの地藏堂は六角堂になっており、永正7年(1510)に建立されていて、重要文化財になっている。門前には資料によると「右 ぎふ道 左 京都道」と刻まれた文政2年(1819)の四ツ家追分道標が立っている。岐阜街道との分岐点にあったものがここに移設されたという。ちょうど水道工事が行われていたので、邪魔にならないように気を付けながら写真を撮った。
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136号線に合流したところ、マンションの前に植木に隠れるようにして「丹羽盤恒子出生地」の石碑が立っている。尾張藩の名筆家で名高い丹羽盤恒子出生地ということだ。
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JRの踏切の手前右手に「四ツ家追分」の石碑が立っている。ここが岐阜街道との分岐点になるのだ。長光寺の前にあった道標は本来ここに立っていたのだろう。14時43分にここを通る。
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136号線を進んで行き、その先から右へ分岐して進んで行くと、長束正家邸は移転しましたという看板が立っていた。移転場所が大まかな地図で描かれていたので、探したがよくわからなかった。というよりも屋敷跡が違う場所に移るということはどういうことなのだろう?何か新しい発見でもあったのかな?
再び136号線に合流して進むと、国府宮の一の鳥居があった。
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今日の歩きはここまでにして、国府宮へ向かって見物し、その後国府宮駅から電車で今日の宿がある大垣へ向かった。
15時39分に歩き終わる。

本日の歩行時間   5時間19分。
本日の歩数&距離 26451歩、17km。
本日の純距離    15.7km(途中、道を間違えず、寄り道をしないで街道だけを歩いた距離)   

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