美濃路を歩く

2023年01月31日(火) ~2023年02月22日(水)
総歩数:105297歩 総距離:67.6km

2023年02月21日(火)

国府宮~墨俣

                            晴れ
8時48分に国府宮の一の鳥居から出発する。
左手に高御堂中央保育園がある所から右へ分岐して進むと、右手に「小沢一里塚」の案内板が立っている。
ここは最初うっかり見過ごしていて、後戻って確認をした。
その先突き当りに大きな「稲葉宿本陣跡」碑が立っており、敷地の左手角に「稲澤町道路元標」が立っている。
稲葉宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋8軒があったと説明されている。
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本陣から左折して進んで行くと、右手に「稲葉宿問屋場址」碑が立っている。歴史を感じさせる建物だ。
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右手に宝光寺を見ながら進んで行くと、すぐ先左手角に「右 つしま道」と刻まれた道標が立っている。
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右手に「中嶋宮」「元八劍社」と刻まれた社標が立っている。中嶋宮の名称の由来は、『倭姫命世記』にある「尾張国中嶋宮」からきており、八剱社は、中嶋城主、中嶋蔵人が城郭の鎮守として勧請したもので、昭和39年に中嶋宮に改名したという。
その先右手に「白山社跡」と刻まれた石柱がぽつんと立っている。一宮にある白山神社と何か関係があるのだろうか?よくわからなかった。
光堂川に架かる高木橋を渡って進むと、左手に石仏を安置する二つの祠があり、その横に火の見やぐらが立っていて半鐘が下がっている。
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右手に「高木一里塚」碑と説明板が立っている。
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左手に「串作庄屋問屋場跡」の説明板があり、その横に「憐松軒枝風憤の碑」が立っている。文久4年(1864)第14代将軍徳川家茂が長州征伐で上洛の折、昼休憩をとったが、憐松軒枝風憤の碑はその名残という。
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萩原宿に入っていくが、この辺りも歴史を感じさせる旧家が建っている。
左手に正端寺がある所から右折して進むと、左手に馬頭観音と地蔵菩薩が並んで立っている。資料によると馬頭観音は宝暦13年(1763)に建立されたものという。
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右手に「萩原宿問屋場跡」の石碑が立っており、そのすぐ先右手に「美濃路萩原宿本陣跡」の碑が立っている。
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その先左折した右手に稲荷神社がある。
日光川に架かる萩原橋を渡ると、右手に市川房江生家跡があるが、説明板が立っているだけで遺構は残っていない。
右手に「孝子佐吾平」を祀る祠がある。暴れ馬を取り押さえようとした佐吾平が参勤交代の前を横切ったため、無礼打ちにあってしまった。佐吾平はとても親孝行だったため、これを憐れんだ村人が祠を建てて弔ったという。
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富田一里塚があり、両塚が残っている。美濃路には13か所の一里塚があったというが、両塚が残っているのはここだけという。
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左手の塚の横に「駒塚道道標」がある。右側の道標には「左 おこし道」「左 つしま道」弘化3年(1846)と刻まれており、左側は「是より左 こまつか渡船道」慶応3年(1867)と刻まれていて、ともにほかの場所からこの地へ移設されたと説明されている。
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すぐ先左手に「左 駒塚道 船渡 五丁」と刻まれた慶応3年(1867)の道標が立っている。
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左手に「一宮尾西歴史民俗資料館」があるが、ここが起宿脇本陣だった林家があったところだ。後ろに道標が集められていると資料にあったので行って見ると、確かに道標らしい石碑が立っていたが、よくわからなかった。12時丁度にここを通る。
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すぐ先右手に「起宿本陣・問屋場址」碑と「国学者加藤磯足邸址」碑が並んで立っている。加藤磯足は明和元年(1764)、朝鮮通信使が起本陣に宿泊した際、通信使南秋月と藩儒磯谷滄州が詩を論じ合う所に立ち会って感銘を受け、学問を志したと伝えられ、明和7年(1770)、父の死去に伴い、起宿本陣十一代目として加藤右衛門七を名乗ったという。
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左手に愛知県指定遺蹟「船槗跡」碑が立っている。
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右手に「大明神社」がある。ここは室町時代初期に社殿を造営されたと説明されている。境内には愛知県天然記念物に指定されている「起の大いちょう」「起のやまがき」の大木が立っている。ただやまがきという木がどの木なのかわからなかった。
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濃尾大橋の先に「金刀比羅神社」があり、その入り口に「起渡船場跡」碑(定渡船場跡)と大きな常夜燈が立っている。起渡船場には上流から上・中・下の三か所の渡船場があり、定渡船場・宮河戸・船橋河戸と呼ばれていた。その中で最もよく利用されていたのがこの定渡船場で、昭和31年に現在の濃尾大橋が完成するまで、岐阜県と愛知県を結ぶ重要な交通手段だったという。
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境内左手奥に行くと「人柱観音」がある。ここは木曽川築堤工事に携わっていた与三兵衛が,慶長16年(1612)夏の出水時に濁流に自ら身を投じて人柱となって流れを静め,そのおかげで堤防が完成したので、与三兵衛の菩提を弔う為、人柱観音菩薩を建立したという。12時34分にここを通る。
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濃尾大橋を渡って右折して進むのだが、堤防の道を進まなければならなかったのだが、道を間違えて町中の住宅街の中を歩いてしまった。進んで行くと右手民家の前に「右 いせみち」「左 おこし舟渡」と刻まれた寛延3年(1750)の道標があるのを見て道を間違ったことが分かった。この道標は江戸の御典医が旅の途中起宿で倒れて亡くなり、その医師が世話になったお礼として残していった路銀で、この辺りの医師が相談をして建てたものと伝わっているという。
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ここから右へ進んで、本来の街道を戻るようにした。そうすると「起渡船場跡~定渡船場跡」の説明板が立っており、その横に「金刀比羅神社」があった。本来の街道は堤防を進んできて、ここから左へ直角に曲がって、最初に歩いてきた道に合流するのだ。13時8分にここを通る。
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右手にコンビニがあったので昼食にする。沿道にお店がなかったので、このコンビニは助かった。
食事を済ませて、先へ進むと道は二股に分かれていて、ここに地藏堂とその横に資料によると「右 竹鼻道」「右 起道 左 笠松 墨俣道」と刻まれた道標が立っている。ここは二股を左へ進む。
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右手に正木小学校があり、そのフェンス沿いに「美濃路街道」「史跡一里塚跡」「不破一色一里塚跡」碑が立っている。13時52分にここを通る。
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左手に文政9年(1826)の「及び橋石灯籠」があり、「金比羅大権現」頼山陽の高弟だった「後藤機」の詩が刻まれている。
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右手に須賀駅を見ながら進んで行くと、「天満神社」「金比羅神社 津島神社」と刻まれた石柱が立っているのでここを右へ進む。
親鸞聖人の碑が立っており、その横に「間の宿」の説明板が立っている。それによるとこの地は起宿と墨俣宿の中間にあったため、間の宿として小休所があったという。
足近町2の信号から左折して進み、境川の堤防へ向かうと、ここに資料によると「寺田山□谷院西方寺」「親鸞聖人御奮跡」「従是東五丁」と刻まれた坂井の道標とその横に「是より西方寺五丁 同かさまつ江一□」と刻まれた石仏と「南無阿弥陀仏 右笠松 西方寺道 すぐ墨俣 大垣道」と刻まれた石仏が並んでいる。
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街道は境川沿いの堤防を歩かなければいけなかったのだが、一本下の道を歩いてしまい、途中で気が付いて堤防の道に戻って進むと左手に「一里塚跡」碑がある。西小熊の一里塚があったところだ。
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153号線に合流する直前、道は二股に分かれているので右へ進むが、ここに地蔵尊を安置する小祠と資料によると「従是上渡一丁」と刻まれた道標がある。
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境川に架かる境川橋、その先の長良川に架かる長良大橋を渡ると、明台寺があり、ここに「土岐悪五郎」の墓がある。土岐悪五郎とは土岐康貞のことで、美濃国守護土岐氏の一族で土岐頼清の四男にあたる。 築城年代は定かではないが、土岐康貞が久々利城を築いたと伝えられている。「悪」の字を呼び名に入れるのは剛の者、強い人という意味だ。
また境内に「橋杭笑地蔵菩薩」がある。
嵯峨天皇の弘仁年間に現在の大垣市墨俣町上宿にあった墨俣川(現長良川)の古い木橋の橋脚が夜に光っているのが見つかった。調べてみると、長年の風水を受けてあたかも地蔵菩薩像のようになっており、これを草庵にお祀りしたのが始まりという。この像を小野篁が彫り、立派な地蔵菩薩像としたという。
 天慶2年(939)朱雀天皇の勅使がこの地を訪れた際、この地蔵菩薩の由来を聞き、地蔵菩薩像の前で和歌を詠うと、この地蔵菩薩像の口元が微笑んだので、この地蔵菩薩像を「橋杭笑地蔵菩薩」というようになったという。
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街道から外れて左へ行くと「本成寺」がある。ここの山門は墨俣宿脇本陣の門を移築したものという。
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街道に戻って進み、左折すると左角に本陣跡があり、まだ新しい美濃路墨俣宿渡船場常夜燈が立っている。この本陣は慶長5年(1600)伊達政宗が宿泊したこともあり「伊達様御本陣」とも言われていたという。
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左手に墨俣宿脇本陣がある。ここは明治24年の濃尾震災の際に倒壊したため再建されたが、脇本陣時代の構造を色濃く残すようにして再建されたという。
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右手に「津島神社・秋葉神社」があり、その横に「文化財琉球使節通行記念燈籠」と刻まれた石柱が立っている。これは寛政2年(1790)琉球使節が墨俣宿を通行した折、天王社の石燈篭に通行記念の刻銘文をお願いし奉納、資料によると「琉球国儀衛正毛延柱書」と記されている。また、鳥居の左手横に天明2年(1782)と飲み読むことができる石碑が立っている。
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16時12分、今日はここで歩き終わることにして、墨俣のバス停から宿がある大垣駅前までバスで移動する。この日乗ったバスはすんなりと大垣駅まで行くことができたが、翌朝はえらく時間がかかってしまった。

本日の歩行時間  7時間24分。
本日の歩数&距離 39224歩、25km。
本日の純距離    22.8km。 (途中、道を間違えず、寄り道をしないで街道だけを歩いた距離)   

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