美濃路を歩く

2023年01月31日(火) ~2023年02月22日(水)
総歩数:105297歩 総距離:67.6km

2023年02月22日(水)

墨俣~垂井

                         晴れ
朝、大垣駅前からバスで墨俣へ向かったのだが、大渋滞に巻き込まれて降車する一つ手前のバス停から墨俣のバス停までなんと30分以上かかってしまった。歩けば10分はかからない距離だと思うので運転手さんに途中でおろしてほしいと言ったが、バス停ではないのでだめだと言われてイライラ。。この場所はいつも渋滞するといわれていた。確かに乗客は一つ前のバス停で全員下車して私一人だったので、誰もこの区間の利用はしないのだろうと後になって思った次第。
そんなこんなで8時32分に歩き始める。
左折、右折を繰り返しながら進んで行くと、右手に「谷汲山道 是より六里半」と刻まれたまだ新しい道標がある。
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その先で左手に神社が見えるところに下る細道があったので、これを下ったが間違いで、その先にもう一つ下る道があり、この道が街道だった。従って歩いた道と記録されている道は間違っています。間違った道の写真を掲載しておきます。
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本来の街道は次にある左へ下る道なのでここを通ると、右手に「一里塚跡」碑とその横に地藏堂がある。
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そしてここからすぐに坂を上って上の道に合流するのが街道だったが、私はここでも間違って上の道に上らずに下の道を歩いてしまいました。その先で間違いに気が付いて「歴史の道 鎌倉街道 美濃路」と書かれた大きな看板がある所で 本来の街道に合流することができました。
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川沿いの道を進んで行くと、右手に「倉稲魂神 五穀豊穣」「結上村区民一同建立」と刻まれた昭和60年の碑が立っている。
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右手に「町屋観音堂」がある。ここには小栗判官・照手姫ゆかりの十一面観世音菩薩が祀られており、縁結び・安産の神様という。
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左手に「結神社」がある。ここは鎌倉と京の都を結ぶ「鎌倉街道」沿いにあり、かつては結大明神として、美濃国の歌枕として古くから知られていた。織田信長はこの結大明神を信仰しており、天正3年(1575年)、長篠の戦いの際、7日間の戦勝祈願を行なったという。町屋観音堂にある十一面観世音菩薩は当初この結神社に祀られていたが、移転のため町屋観音堂に遷されたという。9時21分にここを通る。
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前方に雪をかぶった伊吹山が見える。これまでも見えていたのだが、次第にその姿が大きくなってきている。
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揖斐川に架かる新揖斐川橋を渡る。このあたりは揖斐川、木曽川、長良川といった大きな川が多く、当たり前だが架かっている橋の距離が長い。
バイバスを下りて少し後戻って川土手の道を進むが、車が多い。
右手に「佐渡常夜燈」が立っている。これは嘉永7年(1854)に建立されたもので、大垣市指定重要民俗文化財に指定されている。
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ここから土手から下って住宅街の中を歩くが、車の数が少なくてホッとする。
右手に大師寺があり、突き当りを左折、その先を右折して進むが、右手に立派な長屋門の旧家がある。敷地内に大垣市指定特別保護樹の樹齢約200年のクスノキが立っている。敷地内に入ってみるわけにいかなかったが、外からその木が見えたので写真を撮らせていただいた。
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右手に「教如上人御旧跡」「専勝寺 北一丁」と刻まれた石碑が立っている。
教如は織田信長との石山合戦で父・顕如を助けて大坂本願寺に立て籠もり、信長に徹底抗戦するなど波乱万丈の人生を送っている。
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新規川手前左手にまだ新しい「三塚の一里塚跡」碑が立っている。
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右手に「秋葉神社」があるが、ここには大垣市指定重要文化財になっている室町時代の作という「木造如意輪坐像」が安置されている。
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「名古屋口御門跡」が立っている。
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左折して突き当たった場所が高札場があったところのようだが、標識はなかったので探していたところ、街道はここを右折するのだが、左へ少し行ったところに大垣市指定史跡になっている「御朱印地遮那院跡」があった。遮那院は天武天皇の白鳳時代に建立され、その後弘法大師が再建して大日寺遮那院と名付けたとされている。明治時代の神仏分離令で廃寺になったという。
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街道に戻ってその先を左折して進むと、右手に田中屋せんべい総本家があり、その前に「大垣宿脇本陣跡」碑が立っている。
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237号線を横断した次の角左手に「左 江戸道」「右 京道」と刻まれた文政9年(1826)の道標が再建されている。
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ここを右折、すぐ先を左折して進むと、右手に「大垣宿問屋場跡」碑が立っている。
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街道はここを右折する。この辺りは城下町特有の枡形になっている。
右手に「大垣宿本陣跡」があり、その横に「明治天皇行在所跡」碑が立っている。ここは何度も建替えられた建物だが、明治天皇が宿泊した部屋だけはそのままの資材と間取りで残しているという。11時27分にここを通る。
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すぐ先を左折、その先を右折して進むと、交差点の左手に我が国植物学の創始者という「飯沼慾斎邸跡」碑が立っており、交差点右手には、江戸時代の医家で本草学者だった「飯沼慾斎胸像」がある。
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牛屋川に架かる京橋の左手に「京口御門跡」碑が立っている。京都方面にあることから京口門と呼ばれたという。
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右手に水門川に架かる貝殻橋の横に「左 江戸道」「右 きょうみち」と刻まれた船町道標が立っている。文政年間に建立されたものだが、第二次世界大戦の空襲で被害を受けたため再建されている。
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右手に天保11年(1840)に建立され、明治20年に再建された「住吉燈台」があり、その少し先に江戸時代から明治時代にかけて大垣城下と桑名を結ぶ運河水門川の川港だった「船町港跡」がある。水路には復元船が見える。11時43分にここを通る。
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右手に「奥の細道むすびの地」の標識が立っていて、その横に「くわなへ十り 南いせ ざいがうみち」と刻まれた複製された谷木因俳句道標が立っている。
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水門川に架かる高橋を渡って進むが、「一ツ目橋」という石碑が立っている。これから先県道沿いに二ツ目橋、三ツ目橋と道の両側に立っていて五ツ目橋まであった。昔、川が流れていてそこに架かっていた橋ということのようだ。
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左手に「正覚寺」があり、入口に「史蹟 芭蕉木因遺蹟」「当境有芭蕉翁碑」と刻まれた2本の石碑が立っており、境内には芭蕉塚を囲むようにいくつもの句碑が建っている。
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31号線から左へ分岐して杭瀬川に架かる塩田橋を渡ると、左手に明治13年に建立された「塩田の常夜燈」がある。つっかえ棒で支えられて、シートが被せられていた。
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31号線を越えて進むと、右手に「谷汲山常夜燈」が立っている。こちらはまだ新しい。ここから左折する。
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左手に「久徳一里塚」があり、片塚のみが残っている。美濃路で一里塚が残っているのは、ここと富田一里塚のみだった。
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右手に「瓊瓊杵神社」がある。ににぎ神社と読むようだ。由緒はわからなかった。その先で31号線に合流する。
左手に「垂井 京都道」「大垣 岐阜道」「南宮神社道」と」刻まれた昭和5年の道標ともう一本石碑が立っていたが、何と刻まれているか読み取ることができなかった。
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左手に「龍松禅寺」「北面延命地蔵尊」と刻まれた石柱が立っており、その奥に祠がある。
左手に「慈應寺」がある。ここには大垣市指定重要文化財の木造薬師如来坐像と木造十一面観音菩薩立像があると説明されている。13時42分にここを通る。
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綾戸口の信号から右へ進むと、右手に常夜燈が立っている。
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「六社神社」が右手にある。
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垂井の松並木が残っている。後方には雪化粧をした伊吹山が見える。
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14時40に中山道に合流して美濃路を歩き終わるが、ここに「是より右東海道大垣みち 左木曽海道たにくみみち」と刻まれた宝永6年(1709)の道標が立っている。
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本日の歩行時間   6時間8分。
本日の歩数&距離 31495歩、20.4km。
本日の純距離    19.1km。(途中、道を間違えず、寄り道をしないで街道だけを歩いた距離)   

美濃路総合計
歩行時間   20時間31分。
歩数&距離 105297歩、67.6km。
純距離    61.7km。(途中、道を間違えず、寄り道をしないで街道だけを歩いた距離)   

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