赤間関街道(北浦道筋)を歩く

2010年02月16日(火) ~2010年02月25日(木)
総歩数:186144歩 総距離:126.9km

2010年02月21日(日)

黒井村~川棚~長門二見~滝部~長門粟野

                     晴れ

 7時18分に黒井村駅に到着し、前回歩いた場所から出発する。
 田畑が広がっているが、それが霜で真っ白になっている。昨夜はかなり冷え込んだようだ。
 突き当たりを右折し吉永川に架かる吹野橋を渡って進み、その先の突き当りを右折するが、ここを直進する道がかってあり、打懸道と言われたそうだが、昭和50年頃の山地改良で消滅したということだ。今回の調査段階で旧豊北町(現下関市豊北町)の方から教えていただいた。右折する道は湯町往還という名前が付けられていたということだ。
 道なりに進み、右手に吉永川に架かる丸橋のあるところから左折して進む。
 その先、左手に池の堤があるところのすぐ先から左折する土道があり、これを通っていくとすぐに舗装された道にでる。
この道を左折してすぐ先に右折するやはり土道があるので、ここを通る。右手に池があり、地図を見るとこの池を廻りこむようになっている気がして、直進する道があるにもかかわらず、池の淵に沿って歩いてしまった.。ところがここには道がない。ただすぐ先に舗装道路があるので、とにかく闇雲に突き進み、ガードレールを乗り越えて道路に出た。この道を左折して行くと、すぐ先に左から道が合流している。それで確認のためその道を戻ってみると、何と先ほどの道にでた。何のことはない。池の端を回らず、直進すればよかっただけだった。
 この道から舗装道路を横断して道が伸びているので、これを進むと、左手に「宮地嶽神社」があるが、鳥居には宮地嶽神社と四海萬霊神社と二つの名前が書かれていた。
この道から 
 40号線を横断して進み、その先の二股を右へ坂を下っていく。
40号線を横断 

坂を下ったところで右にグルッと回ると、左に「勝早地蔵堂」があり、ここから川棚の温泉街に入っていく。
勝早地蔵堂 
 川棚温泉は歴史が古く、約800年前には既に温泉が発見されていたと伝えられている。伝説によるとこの辺りには大沢沼という大きな沼があり、青龍が棲んでいたというが、大地震の折りに温泉が噴出、青龍を煮殺してしまったという。江戸時代には長州藩の御前湯として、毛利氏の御殿湯も作られた経歴があるという。また漂泊の詩人、種田山頭火はこの川棚を甚く気に入り、老後を過ごす庵を組むつもりでいたという。
 温泉街を進んでいくと前方に嘉永2年(1849)と刻まれた常夜燈とその横に地蔵堂がある。
嘉永2年 
 ここから左折して進む。
ここには瓦そばがあるが、これは明治10年の西南戦争で熊本城を囲む薩摩の兵士たちが、瓦を用いて野草や肉などを焼いて食べたという話にヒントを得て開発したという。
 次の信号を渡るとすぐ横の細道に入って道なりに進んでいく。
次の信号 
 その先で道は二股に分かれているので左折して進む。
 道は田んぼの中を通って進み、突き当りを左折、すぐ先の突き当たりを右折して進む。
 右手に金剛頂寺という祠があり、ここを右折して進むと右手に「大歳宮」がある。
金剛頂寺 
 ここから一直線に農道が伸びているので、これを進んでいくが、その先左手に、ちょっとした森がある。ここが荒神森といわれているそうで、安政5年(1858)と刻まれた常夜燈と石祠がある。
荒神森 
 旧道は左折してこの森の前を通っていたようだが、今は森の前は田んぼになっていて通ることができないので、その横にある農道を左折して進む。
 突き当たりを右折するが、そのすぐ先、右手に地蔵堂があり、ここに左から道が合流している。これが先ほど消滅したといわれている打懸道ということだ。
右手に地蔵堂 
 道なりに進み、突き当りを右へ行き、すぐ先を左折して進むと左手に豊浦図書館があり、ここで右折、信号を渡って、左折、すぐに右折して進む。川に突き当たるので、ここを左折、191号線に合流するので、これを右折、川棚川に架かる葉中橋を渡って191号線を進んでいく。
 その先で道は二股に分かれるところがあり、ここで191号線と分かれて細道に入る。その先にも庚申塔がある。
道は二股 
 このあたりはこういった塔が数多く置かれている。ここから一直線の道が続いている。
 一直線に進んできた道が突き当たるところで左折し、川棚踏切でJRの線路を横断、すぐに右折して、また直線道を歩いていく。右手に小串駅が見える。
 その先左手の階段を上ったところに「小串光圀稲荷神社」がある。平安時代、長門国南西部のこの地に疫病が大流行した。村人は海岸の小山(現稲荷山)に祠を設け、熊野から役行者を招いて病魔退治を祈願すると、病気は治癒した。その後この祠は「権現さん」と呼ばれて信仰を集めたが、明治8年に「権現さん」の新社殿が新宮皮(現稲荷川)上流に設けられたため、この祠は「藪神様」と呼ばれたという。大正になって京都伏見稲荷大社から御分霊の勧請をうけ、大正4年に社殿が完成したと説明されている。
小串光圀稲荷神社 
 その先も一直線に道は伸びているが、暫く行った先で右へ進む小さな道がある。ここから線路を越えて犬鳴峠へいたる道があったようだが、今では消滅してしまっているということだ。それでも一応その道を通ることにして入っていくと線路にぶつかるが当然踏切はない。左右を見てみたが、大分前に踏切があるだけで、このあたりに踏切は見えない。そのためそのまま線路を横断し、ガードレールを乗り越えて191号線にでた。犬鳴峠はここから山を越えていたようだが、道は全く消滅してしまっているのでさすがに歩くことができないため、ここから191号線を歩くことにする。
 191号線は歩道がなく、北へ行く唯一の道だからだろうか、車の通行量が多い。信号もないため、車はかなりスピードを出していて少し怖い。左手には海が広がっているが、今日は晴天なのできれいだ。
 そのまま191号線を歩いていくと、右手に「福徳稲荷神社」へ上る道があったので行って見た。かなりの急坂を上って行くと、想像以上に大きな神社だった。現存の資料によると「人皇十二代景行天皇安須の原に御臨幸の砌り、御山(稲城山と推察できる)の姫菖蒲を叡覧あり、その美景に魅入られ、去(い)ぬることを忘れる」とあり、高台にあるので 以来この地を「いぬことなき山」「犬鳴山」と称し、更に「稲城山」に転じたと伝えられていると説明されている。平成6年に大改修を施したそうで社殿はまだ新しく、高台にあるので眺めはなかなかいい。
福徳稲荷神社 
 191号線を黙々と歩いていくと、左手前方に犬鳴岬が見えるところで、左斜めへ道が伸びているので、191号線と分かれ岩熊踏切でJRの線路を横断して進む。このあたりが犬鳴峠への入口でもあったというが、今は遺構は全く残っていない。
 ここから191号線と並行して伸びている旧道を歩いていくと右手に湯玉駅が見える。
 その先左手に「鯖釣山城」の説明板がある。それによると今から数百万年前に地殻変動が起きて鯖釣山ができたそうで、元文4年(1739)宇賀の庄屋が藩に出した「地下上申」につけた地下図に「鯖釣山、城山という」と書かれていることから、ここに山城があったことが示唆されていると書かれている。またここは椿の群生地でもあるようだ。
 鳥井ケ峠を越えていくと、宮本踏切があり、これを越えて191号線に合流、そのすぐ先で右斜めへ伸びる旧道に入る。
鳥井ケ峠 
 旧道に入ってすぐの右手に「六地蔵」がある。
六地蔵 
 再び191号線に合流し、六郷川に架かる六郷橋を渡ってすぐ右折、そのすぐ先を左折して進む。
 細い道を進んでいくと左手に注連縄を張った庚申塔が立っている。かなり大きい塔だ。
細い道を進んでいくと 
 ここまでは順調に歩いてきたが、ここから先が大変だった。
 一旦191号線に合流した後、資料では右へ入る県道270号線を歩くようになっており、その先でほぼ直角に右折する270号線から分かれて、旧道を直進するようになっている。そこでそれに従って191号線から分岐して右へ進む。11時57分にここを歩く。曲がった先に地蔵堂があり、しばらくは舗装された道を進んでいく。車は全く通らない静かな道だ。やがて舗装された道が直角に曲がるところに来た。
 見るとそのまま直進する道があるので、これが旧道だなと思いこれを進んでいく。
見るとそのまま 
 この道は荒れていて、この季節、草が枯れているので歩くことが出来るが、草が生えているときは歩くことは厳しいだろうなと思いながら、それでも一応道はあるので、それに沿って進んでいく。
 道は山の中腹をクネクネと曲がりくねって進んでいく。やがて潅木がビッシリ生えていて道が分からなくなっているところにきた。ただ低木だし、左手には海が見えて方向感覚を失うことはないので、なんとかこれを突破しようと頑張ってみたが、とにかく道が全くない。
道は山の中腹 
 最初地図を見たときに、線路や191号線からさほど離れていないので、いよいよの場合は山を下って合流すればいいのではないかと考えていたのだが、甘かった。山は絶壁といっていいほど急な崖になっており、そこを下っていくことはできそうにない。暫く悪戦苦闘して進んでみたが、これは無理だと判断し、元に引き返すことにする。引き返しながらそれでもどこかに下ることが出来る場所はないかと探したが、全くそんな場所はなく、結局最初に191号線と分岐した場所まで戻ってしまった。時間をみると13時24分だ。この間1時間27分かかっていた。
 ここからは191号線を歩いていく。先ほどの悪戦苦闘がうそのように歩きやすい。
 海岸に夫婦岩がある。伝説によると二見浦の背後、馬路山に棲む龍が台風で大時化になる日、夫婦岩の間を通り、本郷沖、壁島の龍権社に御参りをされるという。この夫婦岩の注連縄張りは嘉永年間(1848~1854)に地元の漁民が豊魚と海での安全を祈願するため、両親健在な若者を選び、1月11日の手斧始めの日に、この夫婦岩に注連縄を渡す神事を始めたとされている。現在では新春早々の1月2日の夜明けを待って行っているということだ。
夫婦岩 
 新二見の信号から右折して二見トンネルを通って進む。街道はこのあたりから海側を通って長門粟野に抜ける阿川ルートと滝部を通って長門粟野へ抜ける滝部ルートに分かれるが、今回は滝部ルートを通ることにする。
 その先右手に「三界萬霊」の道標がある。「右二見浦道」「左下のせき道」と刻まれているように見える。
その先右手に「三界萬霊 
 資料ではここに先ほどの旧道が合流するようになっている。確かに道がある。この道から逆を辿れば、宇賀本郷へ通じるのだろうか、それともこの道も途中で消滅してしまっているのだろうか。ここから逆に辿れば分かるかもしれないが、さすがにその気力がなかったのでそのまま先へ進むことにした。後日、豊北町の学芸員の方に問い合わせをしてみると、ここは道が失われていて歩くことはできないということだった。
 暫く191号線を進み、二股に分かれているところから右折して進む。この道は豊北町の方から教えていただいた道だ。
 前方に人が座っている。前に小川が流れているので釣りでもしているのではないかと思って近づいてみると、なんと鉄砲を持っているではないか。狩猟をしているのだ。
前方に人 
 前方にも一人、鉄砲を持った人が見える。現在は狩猟期間で注意をしなければいけないとよく言われていたが、実際に狩猟をしている現場に遭遇するのはこれが初めてだ。これから進もうとしている道は地図で見る限り、あまり大きな道ではなく、山の中の道のようだ。その方に「これからこの道を通って滝部へ行こうと思っているのですが」と話しかけると、「危ないので十分気をつけてください」といわれる。注意をしろといわれても限度がある。鉄砲で撃たれたらたまらないと思い、「県道39号線のほうを歩いたほうがいいですかね」というと「そうしたほうがいいでしょう」といわれてしまった。仕方がないので、そこからまた引き返して先ほどの分岐点まで戻り、39号線を歩くことにする。ところがその先で犬の鳴き声が聞こえる。猟犬かなと思っていると、やはりそうだった。犬の側に鉄砲をもった方がいた。今日は日曜日ということもあって、猟に出ている人が多いのかもしれないが、あまり気持ちのいいものではない。これから先も注意をしながら歩いていく。
 39号線を歩いていくと、左手に波原からの道が合流しているところがあり、その角に祠と地蔵尊が祀られていた。
39号線を 
 右手に滝部駅がある。ここを過ぎると次ぎは長門粟野駅までアクセスがない。約11~12kmほどだろう。時間を見ると15時5分だ。3時間かかったとしても18時。日没までには着けそうだと思い、先へ進むことにする。それにしても道が分からず1時間半ロスし、狩猟のお陰でまた時間をロス。もったいないことをしたと思いながら歩いていく。
 滝部駅の近くは道がよく分からず、安養寺の前を通ることを考えて39号線を進むことにした。
 安養寺は門が閉まっていて中を見ることはできなかった。
 滝部第一踏切でJRの線路を横断、その先右手にスーパーがあり、その横にGSがあるところから左折して進み、滑川に架かる常安橋を渡る。
 左手に「西楽寺」がある。ここには慶長4年(1601)関が原の戦の帰途、下関で没した毛利秀包の墓が本堂の裏の墓地にあった。立派な五輪塔で、行年35歳だったという。
西楽寺 
 前方の山を見ると風力発電の風車が数多く立っていた。このあたりは海に面していることから風が強いのだろう。北海道を歩いた際に見た風車を思い出した。
風力発電 
 二股を左へ進む。右手に滝部小学校がある。その先で435号線の下を通り抜けたところからすぐに右へ伸びるあぜ道を進むと、その先左手に念西寺がある。そのまま舗装道を横断して進むと、39号線に合流するので、これを左へ進んでいく。粟野峠を越えるあたりで、長門粟野駅の電車の時間を調べていたことを思い出したので出してみると、17時35分の電車があるが、その次は19時1分までないことに気がついた。日没前の18時ごろまでに着けばいいとのんびり考えていたが、それから1時間も待たされるのではたまらない。おそらく無人駅なのですることがなにもないのだ。これは何としてでも17時35分に間に合わせなければと思い、歩くスピードを早める。
右手に 「乃木大将思案之茶屋跡碑」がある。
乃木大将 
 ここから道は二股に分かれており、右へ下る細道を通る。
 ここも山の中の道で、猟のことが頭を掠めたが、まぁなんとかなるだろうと思って進む。
 山を下っていくと粟野川に突き当たるので左折、その先で39号線に合流する。次第に夕暮れが近づいてきており、かなりの急ぎ足で歩いているのだが、山の中ということもあって寒い。朝は寒かったが、今日の昼間は好天に恵まれて暖かく、着ている物を脱いだりしたが、この時間になるとさすがに寒さが襲ってくる。いずれにしてもなんとか17時35分の電車に間に合わせなければと先を急ぐ。
 左手に地蔵尊が二体おかれており、その両脇に石を重ねたものがおかれている。資料には「渦巻き地蔵」と記されていたが、詳細は分からなかった。
渦巻き地蔵 
 左手に「昌泉寺」がある。小迫の中ほどの路傍に泉があり、旅人の憩いの場所になっていたという。ここに二体の夫婦地蔵が祀られており、夫婦仲の悪くなったときのお助け地蔵として信仰を集めているということだ。
昌泉寺 
 左手に「粟野八幡宮」がある。このあたりの守り神なのだろう。ゆっくり見てみたいが、とにかく時間がないので先を急ぐ。
粟野八幡宮 
 粟野川に架かる粟野橋を渡るとその袂に大きな庚申塔が立っていた。これにも注連縄が巻かれている。
粟野橋 
 ここから駅まで400mという表示が出ていた。なんとか間に合った。

 長門粟野駅には17時23分に到着。想像通りの無人駅で待合室にはだれもいないので、汗で濡れたシャツを着替え、トイレで顔を洗うと丁度電車が入ってきたのでこれに乗って帰途に着く。

 本日の歩行時間   10時間5分。
 本日の歩数&距離 61257歩、43.11km。

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん