赤間関街道(北浦道筋)を歩く

2010年02月16日(火) ~2010年02月25日(木)
総歩数:186144歩 総距離:126.9km

2010年02月25日(木)

長門三隅~鎖峠~萩 

                     晴れ

 9時7分に長門三隅駅に到着、出発する。
 駅前を通っている287号線を進み、最初の二股で左へカーブする287号線と分かれて直進、最初の四つ角を左折して進み、その先で287号線に合流する。
 三隈下豊原の信号を横断し、三隈川に沿って進む。三隈踏切でJRの線路を横断、三隈中学校の信号から左斜めへ伸びる旧道を進む。
 左手に長門市三隈支所を見ながら進んで行き、次の四つ角を左折、三隈川に架かる琴影橋を渡って、右斜めへ下る64号線を歩く。琴影橋は街道が三隈川を渡る唯一の橋だ。
岡藤家 右にこの地域の庄屋だった岡藤家があるが、寛政10年(1798)九代藩主毛利斉房が西下した時に橋が流失したので、岡藤家を臨時の本陣にしたという。
 その先左手に「三隈八幡宮」があるので、街道を外れて行ってみる。ここの創建は不明ということだが、九州宇佐神宮から勧請した三隈町と長門市通の惣氏神で、社殿は貞治年中(1363~1367)に焼失したがその後再興。天正5年(1577)、慶長16年(1611)、天明7年(1787)の改築の棟札があるそうで、古い歴史を持っている。 
三隈八幡宮 
 街道に戻って三隈川沿いを進むが、今日は春一番の強風が吹き荒れていて、何度も帽子を飛ばされそうになる。暖かくて風が強い。花粉症の身にはつらい季節だ。
 左手に「三界萬霊」があり、天明6年(1786)と台座に刻まれている。三隈八幡宮の改築とほぼ同時期だ。
左手に「三界萬霊 
 ここで中村さんから電話が入る。今回の事前調査で色々と教えていただいた方で、今日は三見地区の案内をしていただくようにお願いしていた方だ。鎖峠あたりで合流しましょうということにする。
 191号線の高架下を通り、左手に三隈トンネルを見ながら、山際の道を進んでいくと、左手に「明峰寺」がある。ここは萩藩寄組堅田大和が関が原戦後間もなく三隅の大半を給領、曹洞宗能禅寺を現在地へ移し、明峰寺として自らの菩提寺としたという。裏に江戸時代の作庭といわれる「微笑庭」があった。
明峰寺 
 明峰寺のすぐ横から左へ入る道があり、これを歩く。中小野の集落を歩くが、中小野の集落は手前が下中小野、その先を上中小野といって二つの集落に分かれている。
 左手に六地蔵がある。赤い帽子を被り、まだ新しい衣を着ていた。
六地蔵 
 その先、191号線に合流したところ、右手に宝暦10年(1760)と刻まれた大きな三界萬霊がある。
大きな三界萬霊 
 暫く191号線を進み、右手に常楽寺へ行く道があるが、その先に191号線と分かれて左斜めへ伸びる道があり、これを歩く。
 一旦191号線に合流するが、すぐ再び左斜めへ伸びる道があり、ここを通って宗頭の集落の中へ入っていく。
  左手に宗頭公民館があり、そこから二股に分かれているので、左へ進む。
 左手、階段を登っていくと「宗頭大歳社」がある。ここの創建は不明のようだが、元禄年間に再建され、天保14年(1843)に改築、明治初年に素封家山本家を中心にして更に改築したと説明されている。
宗頭大歳社 
 191号線に合流して進んでいくと、直角に近い角度で曲がっているところがあり、その手前からわかりにくいが、右手に旧道が残っていると長門市の方から教えていただいたので注意をしてみていたが、深い谷になっていてわからなかった。仕方がないので191号線を進んでいくと、中村さんが待っておられたので、ここで合流する。
 榎谷トンネルの横に「榎谷洞道」がある。明治26年、県下で三番目のトンネルとして作られたこの榎谷洞道は、長さが113メートル、幅3.6mで抗門の出入口は一部煉瓦張りで、他は素彫りのままだ。抗門の手前には聳え立つ岩盤が掘削の跡をくっきりと残しており、工事の難しさを今日に伝えている。現在は通行禁止になっていて中を通れなかったのがちょっと残念だった。榎谷洞道 
 鎖峠まで来ると、ここから先は萩市だ。ここで中村さんの写真を取らせていただく。
鎖峠 
 中村さんは萩の三見地区にお住まいで、山口県歴史の道調査報告書の三見地区の調査、執筆をされた、三見地区に関してはとても詳しい方だ。今回事前調査の段階でお尋ねをしていると、案内をしてあげようということになってお願いをしたのだ。萩の観光ボランティアをされておられ、公民館の官報にも地域の歴史のことに関して長年に渡って記事を掲載されているということだ。
 鎖坂は昔は「鎖板坂」と呼ばれており、急な勾配のため鎖を伝って上り下りしていたということから付けられた名前ということだ。右手は深い谷になっており、昔は谷川沿いに道があったが、現在は道は消滅しており、歩くことはできないということだった。峠には駕籠建場があり、また元文5年(1740)の地図には郡の境を示す塚があったということだが、今は全く分からないということだった。
 峠を越えるとすぐに左へ進む道があり、これを通る。
峠を越えるとすぐに 
 途中、街道松の切り株と思われるものが道の左側にあった。右手谷の向こう側に191号線が通っているが、このあたりは大雨が降ったり、積雪、凍結等で通行止めになることがよくあったそうで、191号線の最大の難所だったということだ。現在は他にバイバスができたので、交通量はすっかり少なくなっている。
 左手に赤い布を巻きつけた竹が立っている。これは地神祭の時に立てる旗で、悪霊から地域を守る意味があり、東西南北と地域の中心で色を変えて立てており、全部で五色あるということだった。先日長門を歩いている時に見た白い御幣も同じ意味なのだろう。
左手に赤い布 
 坂を下っていくと床並の集落が見えてきた。ほとんどの家の瓦が赤い。石州瓦だ。この瓦は焼成温度が高いため(約1300℃)強度に優れており、豪雪地帯や北海道などにおいてシェアが高いという。このあたりはとても寒く、雪もかなり積もっていたそうだが、最近はあまり積もらなくなってきたという。
床並の集落 
 左手に「三界萬霊」があり、宝暦11年(1761)と刻まれている。そのすぐ横に「猿田彦」があり、さらに道を挟んで右手は少し低くなっており、「モリサマ」がある。
三界萬霊」があり、宝暦11年 
 右手は深い谷になっている道を下っていき、道が谷川と接するところまで降りてくると、その右手に旧道が残っている。この道はここから上流に向かって田んぼがある場所までは残っているが、それから先は消滅してしまっているということだった。
 田んぼを耕作する人がいなくなるに従って道が荒れ、道がなくなっていっているのだという。その旧道の入口に中村さん達が作った「赤間関往還道」と書かれた標識が立っていた。
赤間関往還道
 そのすぐ先に「一里塚」の標識が立っており、そこから左へ道が伸びているのでこれを進むと、すぐ右手に復元された「床並一里塚」があり、その向こうに橋がある。この橋の本来の名称は「三隅橋」というのだそうが、中村さんの提唱で「めがね橋」と呼んでいるそうだ。
「一里塚」の標識 
 この一里塚は本物と同じサイズで中村さん達が復元したものという。周囲を石で積み上げており、トラックで何度も往復して土砂を運んで作り上げたという。
一里塚は本物 
 その向こうに「めがね橋」がある。これは明治23年から明治26年にかけて萩~宗頭間の道路建設を行い、当初はこの橋は土橋だったが、大正3年にアーチ型石橋に改築したという。現在は国登録有形文化財となっている。
 この一帯は一面の竹やぶだったのを中村さんを中心にしたグループが整地したそうだ。文化庁による有形文化財指定の立派なモニュメントが横にあるが、それらを含め、行政の力を借りずに全て中村さん達が行ったということだ。昨今、行政の財政難から、行政に頼らず、住民による自立した動きが出始めているが、正にその典型なのだろう。
モニュメント 
 坂を下っていくと、右手道端に一辺約40cmの「境石」があるが、これは三見市と床並の境を示しており、昔はここで地神の祭事が行われていたという。現在では行われていないそうだが、かなり古くなった白い御幣が立っていた。
境石 
 その先右手に「地蔵尊」があり、元文元年(1736)と刻まれている。これは以前他の場所にあったのだが、道路を作る際にこの場所へ移したということだ。これは本来お墓だったということを中村さんに教えていただいた。
右手に「地蔵尊 
 三見の集落へ入っていくと古い家並みがある。写真の家は築140年~160年経過しているということだった。三見市は寛文5年(1665)に人馬継立の宿駅に取り立てられ、以後交通の要地となって、宿駅に発展したという。
古い家並みがある 
 三見駅の高札場が実物の1/2の大きさで当時の姿を復元されている。
三見駅の高札場 
 また三見郵便局発祥の地の標識が立てられており、当時の郵便ポストも復元されている。これは当時の形そのままに復元したものということで、これらも全て中村さんを中心にした皆さんのボランティア作業で作成されたということだ。それにしてもきれいにできている。素晴らしい行動だと思う。
郵便ポスト 
 その横に「地蔵堂」があるが、これは江戸時代のものということだ。
その横に「地蔵堂 
 仁王会館があり、そこに仁王様が二体保管されている。ガラス越しに写真を撮ったので、分かり難いが大きな仁王像だ。これは約500年前に大内氏が寄贈したものということだ。
仁王会館 
 その先二股に分かれているので、これを右へ進むと道は山の中へ入っていく。
 やがて191号線に合流する。このあたりで右へ進む旧道があったそうだが、今では失われてしまっているということだ。地蔵峠を越えると左からくる296号線と合流する。ここは三つ辻と呼ばれていたということだ。
 右手少し低くなっているところに「モリサマ」がある。これは水神を祀っており、このあたりが水源になっていて豊富に水が湧いているそうだ。
モリサマ 
 その先今度は右手に旧道があったそうで、今でも所々にその痕跡を残しているそうだが、そのほとんどは歩くことができなくなっているということで、191号線を歩いていく。中村さんが調査をされた15年ほど前までは、このあたりにはまだきれいな旧道が残っていたということだが、現在ではそのほとんどが失われているということだ。急速に昔の道が失われていっていることがよく分かる。
 その先で旧道は左へ進むようになっており、入口が残っていたのでそれを進んでみた。途中まではきれいな旧道が残っていてとても風情があっていい道なのだが、その先で萩、三隅道路の建設が行われており、見事に旧道は失われていた。
その先で旧道 
 旧道が失われるまさにその現場を見たのだ。交通の便利はよくなるだろうが、こうして古いものが次々と壊されていく。何とかならないものだろうかと思う。この先が中山峠なのだが、この道路工事で中山峠から玉江坂を通る道は完全に失われていたので、191号線を歩いていく。
旧道が失われるまさにその 
 その先で191号線と分かれて、右折する細い道があり、これを進んで玉江川に架かる「追分橋」を渡る。この橋は本街道と木間へ行く脇街道との分岐点にあるので、まさに追分の橋だったという。
追分橋 
 後ろを振り返ると、かなり高いところに道路が建設されており、橋桁が何本も立っていた。工事はかなり進んでいるようだ。
後ろを振り返ると 
右手、川沿いに三体の地蔵尊がある。これには天保8年(1837)と刻まれていた。
川沿いに三体の地蔵尊 
 191号線に合流、その先右手にある萩慈生病院の先で右折、土道へ入る。
萩慈生病院 
 そのすぐ先で二股に分かれているが、ここは左へ進み、中渡踏切でJRの線路を横断して64号線に合流する。
 その先左手に「道祖神社」がある。昭和61年に県道拡幅のため、数メートル移転してコンクリート製に改築されたが、寺社由来には正徳5年(1715)の棟札が記載されているという。船酔い防止や道中安全祈願のため、現在でも他所から参拝する人が少なくないという。
道祖神社 
 その先に旧椿西分と旧山田村の境を流れるという読川がある。小さな溝といっても差しつかえないような流れで暗渠になっている。醍醐天皇の皇子である逆髪皇子がこの地へ配流されたという言い伝えがあり、その皇子が三月上巳の日に都へ向けて歌を詠み、この川に流したので読川と称したという。
読川 
 街道を離れて右手線路を渡ったところに「大照院」がある。ここは当初月輪山観音寺という桓武天皇の勅願寺だったが、建武2年(1335)に没した義翁和尚が再興して大椿山歓喜寺となった。その後荒廃していたが、初代萩藩主毛利秀就が慶安4年(1651)に没し、菩提寺とするため承応3年(1654)から明暦2年(1656)にかけて堂宇を再建し、秀就の法名により大照院と号し、山号も霊椿山と改めたという。延享4年(1747)火災で全焼したが、寛延3年(1750)六代藩主宗広が再建をしたという歴史のあるお寺だ。藩主夫妻の墓 境内には7代に及ぶ藩主夫妻の墓があり、重臣やゆかりの深い人々が献上したという603基の灯籠が並んでいて壮観だ。
大照院 
 中村さんはここでも観光案内のボランティアをされていたという。
 街道に戻り、64号線を萩駅の方へ向かうと、右手に萩駅が見えるところの左手に駐車場がある。ここに濁淵の一里塚があり、街道の一里塚算出の基点となった場所ということだ。ここから唐樋札場まで16町あるという。
 ここまで来た時、山中さんがこられた。山中さんもやはり山口県歴史の道調査報告書の調査、執筆をされた方で、萩から北へ行く仏坂道のことを教えていただいた方だ。今日、萩へ到着することをご連絡していたのでおいでになったのだが、途中で一度ご連絡を入れただけだったのに、タイミングよくおいでになられたので驚いた。
山中さん 
 右手に萩駅を見ながら左折して直進すると、右手に「金谷天満宮」がある。ここは鎌倉時代の長門守護職佐々木四郎高綱が大宰府より勧請したといわれ、享保5年(1720)藩主毛利吉元の時、現在地に再興されたという。またここは城下町の表玄関ともいえる大木戸のあったところで、番所には常時番人を置き、日没には治安維持のため城下への出入りは差し止められていたという。
金谷天満宮 
 橋本川に架かる橋本橋を渡る。萩城は周囲を海と橋本川,松本川に囲まれた要害だったのだ。
 191号線を横断した先、左手に「唐樋札場跡」がある。この場所が萩から防長両国の諸所に通じる街道の起点となったところだ。現在は何かの工事がされていた。16時10分に到着する。これで赤間関街道の北浦道筋を歩き終えたことになる。
唐樋札場跡 
 山陰線は萩駅を16時25分発があり、その次は17時55分までない。中村さんも三見まで電車で帰られるということで、急遽車で来られていた山中さんに駅まで送っていただいて帰途に着く。それにしても、いつもながらのあわただしい最後だった。
 三見の駅は萩から二つ目の駅。そこで中村さんとお別れするが、この地区の歴史に詳しくて色々と教えていただき、しかも最後まで一緒に歩いていただいて感謝である。本当にお世話になり、ありがとうございました。

 本日の歩行時間   7時間3分。
 本日の歩数&距離  39043歩、26.8km。

赤間関街道(北浦道筋)総合計
 総歩行時間  32時間21分。
 総歩数    186144歩。
 総歩行距離  126.9km。
 北浦道筋純距離 111.4km。(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離)

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん