赤間関街道(北浦道筋)を歩く

2010年02月16日(火) ~2010年02月25日(木)
総歩数:186144歩 総距離:126.9km

2010年02月23日(火)

長門粟野~人丸~長門市~長門三隅

                     晴れ

 長門粟野駅に9時11分に着き、歩き始める。今日も快晴だ。しばらく天候不順が続いていたが、ここ数日は好天が続いており快適に歩くことが出来るのでありがたい。
 駅から左手に粟野の集落の中を道なりに進んでいくと、右手に「汗かき地蔵」がある。像高1.31mのこの地蔵尊は粟野下村庄屋和田家の先祖超縁居士が建立したもので、明治12年の大火で焼失、再建されたものという。
汗かき地蔵 
 集落を抜け、191号線のガードがある手前右手にJRの粟野浦第一踏切があるので、これを渡り、坂を上って行くと191号線にでる。右手に池があり、191号線を横断したところに土道の旧道があるので、ここを進む。
 この道は最近使われている形跡がなく、萱で覆われている。ただこの時期は枯れているので、一応道とわかるようになっていて歩くことが出来るが、夏場ここを歩くのは厳しいかもしれないと思った。
最近使われている 
 しばらく歩いていくと途中から林の中に入り、下草がなくなって道筋ははっきりしてきた。一本道を進んでいって出口まで行くと、囲いがしてある。
囲いがしてある 
 どこか囲いのない場所はないかと見回したが周囲をずっと囲んでいて出口がない。仕方がないので、正面のブリキ板のところに行き、有刺鉄線とブリキ板の間にある網を持ち上げてみるとすんなり持ち上がったので、その間から外に出ることができた。
 そこから先は舗装された道が続いているので、道なりに進んでいく。その先で変形の十字路があり、道は山の中へ入っていくようだ。このあたりは手持ちの地図に道が記載されていないので、この山の中へ入っていく道がどこへ繋がっているのか分からない。左手を見るとJRの線路が見え、その横に191号線が通っているので、ここから左折して綾湖踏切を渡り、191号線を歩く。資料を見ると綾古という地名があり、旧道はその先の須万のあたりで191号線に合流しているようになっているので、曲がるのが早すぎたかなと思いながら進む。
 右手を注意しながら歩いていると、線路の向こう側からガード下を通って合流する道があり、その横に安永6年(1777)と刻まれた「三界萬霊」がある。三界とは仏教の言葉で、欲界(食欲、物欲、性欲の世界)、色界(物質の世界)、無色界(欲も物もない世界)の三つの世界をいい、また、過去、現在、未来をいうこともある。これらの世界のすべての霊をこの塔に宿らせてお祀りするために建てられたものでだ。多くは寺の境内や墓地に建てられて、万霊の供養や無縁仏を供養するものとされている。
右手を注意 
 その先にももう一本、須方第2踏切で合流する道があったが、どれが旧道なのかは分からなかった。
 左手に西長門海岸国定公園に指定されている油谷湾が広がっている。今日は好天なので海がきれいだ。
油谷湾 
 右手に注連縄を張った庚申塔がある。このように注連縄を張った庚申塔が多いのもこの街道の特徴だ。
右手に注連縄 
その先右手に伊上駅がある。
 その先、左手に「西光寺」がある。創建は天正元年(1573)と文禄元年(1592)の二説があり、開基は大内氏の家臣僧淨教とされている。ここの境内には13本の椎ノ木巨樹群がある。大きいものは幹周5mもあるもので、この近郷ではこれだけの大きな椎ノ木が群生しているのは珍しいといわれており、市指定有形文化財、天然記念物に指定されている。
西光寺 
 西光寺の前から道は二股に分かれており、191号線と分かれて右へ進んでいく。伊上踏切でJRの線路を横断、その先で二股に分かれているところが二ヶ所続いてあるが、いずれも左へ進む。
 しばらく静かな山の中の道を歩くが、天気もよく、暖かいので歩いていて気持がいい。
しばらく静かな 
 やがて191号線に合流するが、楊貴妃ロマンロードの看板が架かっている。この場所と楊貴妃とは一体どのような関係があるのだろうと思ったが、聞く人もいないためわからなかった。
 右手に菱海中学校がある。このグラウンド内に現在の油谷町、日置町と豊北町の一部を統括する代官所であった先大津宰判の勘場があり、その横に本陣であった久保本家の屋敷があったということだ。
 中学校の前から道は二股に分かれており、191号線と分かれて左斜めへ進む。この分岐点に注連縄を張った庚申塔がある。
右手に菱海中学校 
 左手に「三界萬霊」と注連縄を張った庚申塔がある。三界萬霊には安政の文字が刻まれていることを読むことができた。
左手に「三界萬霊」 
 その先、右手に三体の地蔵尊と猿田彦がある。ここにも注連縄が張られている。
その先、右手 
 その先の四つ角を左折、大坊川にかかる大坊橋の手前で左折、大坊踏切を渡り、大坊川に沿って進む。
 その先にある見返橋を渡って進むが、ここの袂に芝崎経塚があると資料に書かれていたが、分からなかった。
 掛淵川に沿って進むと右手向こう側に人丸駅が見える。川土手に桜並木があり、これが一斉に咲き誇る春はきれいだろうなと思う。その桜並木が途切れるところから右折する道があり、これを進む。
 新別名踏切でJRの線路を横断し、すぐ先を左折する。その先右手にスーパーがあったので、ここに寄って弁当を買い、昼食にする。山陰は店やコンビニが少ないので、飢餓に弱い私にとって昼食の確保はかなり重要な要素だ。今日はうまくいったのでホッとする。
 人丸の信号を渡って進むと、左手高台に「八幡人丸神社」がある。人丸神社は柿本人麻呂を祀っており、そこから人丸の地名となったそうだが、それは明治以降の呼称で旧藩時代は鯉ケ原と呼ばれており、往時から社寺が集中していて門前町、鳥居前町などの様相を呈していたということだ。明治40年に新別名八幡宮と人丸社が合祀されて八幡人丸神社となったと説明されている。
八幡人丸神社 
 右手に「淨泉寺」がある。往時は淨専寺と書き、元禄14年(1701)に伊上の上り野から現在地に移転したと伝えられている。
淨泉寺 
 その先で街道は新市ルートと古市ルートに分岐しており、古市ルートは左へ進むのだが、今回は新市ルートを歩くことにする。古市ルートが910mで新市ルートが2285mと新市ルートのほうが1375m長い。
 道なりに進んで行き、久富川に架かる八反田橋を渡って進む。
 このあたりには「御幣」が数多く立っている。このときは意味が分からなかったが、その後三見地区を案内していただいた中村さんから教えていただき、これは地神祭の時に立てられる悪霊除けということだ。
御幣 
 その先、右手に池があるところの手前で街道を離れて右折すると、286号線の先に「権現堂」と書かれた額がかかり、天明3年(1783)と刻まれた赤崎神社の鳥居が立っており、その横に地蔵堂があった。地元では子安観音と呼ばれているそうだ。
権現堂 
 街道に戻って進み、突き当たりを右折、286号線のガード下を通り、その先で左折、281号線まで進む。街道はこの先にJAトラック倉庫ができたことで途切れており、一旦281号線に出て右折、すぐ先の掛淵川を渡る手前で右折、その先にある大元橋を渡って進む。振り返ると先ほどの旧道の延長線上にこの道が伸びていることがよく分かる。
 その先で286号線に合流するのだが、このあたりは手持ちの地図の縮尺が大きいため、地図に載っていない道があって分かりにくかった。
 286号線に合流して進み、その先で191号線に合流する。ここが古市ルートと新市ルートの合流点になるのだが、このあたりは道が失われていて、旧道がわからなかったため、車道を歩く。
 椎ノ木峠に差し掛かると、右手に「椎木峠経塚」の標柱が立っており、そこから山道があったので、少し入ってみたが、かなり上まで続いているようだったので、途中であきらめ、191号線を進む。これも旧道の一部だったのかもしれない。
椎木峠経塚 
 峠を越えて進むと、黄波戸温泉へ分岐する道の手前、左手にJRの線路が見えるところで右の山へ入る道があり、これを歩く。ここにも旧道の一部が残っているのだ。
黄波戸温泉へ 
 旧道はすぐ先で191号線に合流しており、その先で再び今度は左へ進む旧道に入る。
旧道はすぐ先 
 右手に「境川地蔵」がある。天保4年(1833)と建立年が刻まれており、巡礼の途中で倒れた仲間の供養のために建立されたと伝えられているそうだ。近くに古いエノキの株が残っていることから、一里塚跡とも考えられているという。
境川地蔵 
 左手に只ノ浜が広がっており、海がきれいだ。山陰の海はどこも水がきれいで、海水浴場が数多くあることもうなずける。ここには昭和のはじめ頃までは松並木があったという。
 跨線橋でJRの線路を越え、その先の二股を右斜めへ進む。左手にちょっとした松林がある。
 左手に「六地蔵」がある。元文5年(1740)と建立された年が刻まれている。六地蔵は、全ての生命は六種の世界(地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道)を生まれ変わりことを繰り返すという六道輪廻に基づき、六道のそれぞれを六種の地蔵が救うとする説から生まれたものであり、街道を歩いているとよく見かける。
左手に「六地蔵 
 その先で191号線に合流する手前、左手に「三界萬霊」があり、安永5年(1776)と刻まれている。
その先で191号線 
 深川川に架かる緑橋を渡り、下郷のバス停の先から191号線と分かれて左斜めへ進む。
 右手に「専修寺」があり、境内に見事な枝振りの松の巨木があった。
専修寺 
 正明市上の踏切でJR美祢線を横断したすぐ先に旅館吉亀があり、ここが赤間関街道北道筋との分岐点で、北浦道筋は直進するが、北道筋はここから右折する。
 左手に長門市役所があるが、ここに前大津宰判勘場があり、勘場が廃止された後、大津郡役所になったという。
 191号線を横断して進み、右手に長門高校があるところで二股に分かれているのでこれを左へ進む。一旦191号線に接するが、すぐに右へ分岐、長門病院を右手に見ながら進み、突き当りを左折、その先で191号線に合流する。
 しばらく191号線を進み、仙崎の信号から191号線と分岐して左斜めへ進み、三隅市街へ入っていく。
 海沿いの道から二股に分かれているところがあり、右へ進む。
 旧道はこの先で線路によって遮断されており、横断禁止の立て札が立っている。
海沿いの道から 
 そのすぐ先に「村田清風」の墓がある。村田清風は天明3年(1783)に沢江の山荘に生まれ、安政2年(1855)に萩でなくなったが、藩主五代につかえ、藩の財政立て直しをした天保の改革は有名だ。その他青少年の教育や武備を更新するなどを行い、明治維新の大業を完遂した原動力をつくったことで有名だ。
村田清風」の墓 
 とりあえずお墓に参拝し、その後で先ほどの横断禁止の看板が立っているところまで戻って線路を横断して先へ進む。看板が立っているところをみると横断する人間がいるということだろう。悪いことと知りつつ、渡ってしまいました。
 その先で街道を外れて村田清風が住んでいた「三隈山荘」に立ち寄った。この場所は清風の誕生から歿せられるまでの住宅で、途中修築されたものの、当時の原型を留めているということだ。
三隈山荘 
 その先で287号線に合流、17時36分に長門三隅駅に到着する。

 本日の歩行時間   8時間25分。
 本日の歩数&距離 44095歩、30.3km。

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん