山陰道(鳥取県)を歩く

2010年05月06日(木) ~2010年05月30日(日)
総歩数:225383歩 総距離:154.2km

2010年05月07日(金)

淀江~大山口~御来屋~浦安

                   曇後晴れ

 7時26分に淀江駅に着き歩き始める。今日は曇っていることもあり、昨日までの暑さと一変して涼しい。しかも今日は米子経由で帰るため、荷物を米子駅のコインロッカーに入れているため、身軽に歩くことができるので助かる。
 172号線を進み、淀江の信号で9号線を横断して進むと、左手に「鳥取藩台場跡淀江台場跡」がある。鳥取藩では江戸時代末期、諸外国との緊張が高まるにつれて沿岸警備のため八箇所の台場が築造された。淀江台場は文久3年(1863)に完成したもので、高さ約4m、幅約24m、長さ約67メートルの土塁が残っており、国指定史跡になっている。
鳥取藩台場跡淀江台場跡 
 妻木川に架かる今津橋の袂に「秋葉大権現 慶応3年(1866)」と「金比羅大権現 天保5年(1834)」と刻まれた常夜燈が立っている。このあたりを今津というが、明治24年の淀江町の大火で類焼し、家並みの西半分は被災したということだ。
秋葉大権現 
「汗入札十番 今津村堂」というお堂が左手にある。

 その先で9号線に合流、保田の信号の先で9号線が左へカーブするところから道は二股に分かれており、9号線と分岐して右側の道を進む。
 谷川があり、その横、左手の橋の下に「橋姫神社」がある。嘉永7年(1854)の広瀬旭荘の「備忘録」に「上万原から細い流路を渡る。道の左右に紙を切って旗を作りつらねている。長さ数寸のもの数百千、茅花の如し」を書かれており、その当時すでに賑やかに祭られていたことがわかる。上万原で火災の難にあうことが多かったので勧請されたという。
橋姫神社 
 その先で道が二股に分かれているところから右へ進む。右手に「大山正宮」があり、享和元年(1801)の石灯籠が立っていた。
大山正宮 
 この先、上萬、末吉といった集落の中の道をジグザグに進む。
国延堤というため池を右手に見ながら進み、国信の集落の中を通って進む。
 風力発電の風車が9基強風を受けて勢いよく回っている。
風力発電の風車 
 今日は曇り空で風も強く、肌寒いほどだが、暑いよりもよほど歩きやすい。突き当たりを左折し、二股に分かれている道の右手山際の道を進み、9号線に合流する。気温の表示機があり、17℃になっていた。
 阿弥陀川に架かる阿弥陀橋を渡ってすぐ先で右にカーブする9号線と分岐して直進する。大雀という静かな集落の中を通る。
 海岸沿いを進んで行き、道が二股に分かれているところで右斜めへ坂を上る。
海岸沿いを 
 左手に「富長神社」がある。この神社の境内は中世鎌倉時代の古城跡といわれており、今も深い堀や高い土塁跡を残している。寛保元年(1741)や明和8年(1771)の鳥居が立っている。
富長神社 
 名和川に架かる名和橋を渡る。
 右手に「経塚」と「大師堂」があり、その横に享保19年(1734)と刻まれた一字一石大乗法華経が立っていた。
経塚」と「大師堂 
 右手に「住吉神社」がある。参道の奥にある社殿は後醍醐天皇が祈られた社と伝えられており、かってはここに御腰掛松があったという。
 その先、左手に「元弘帝御着船所」碑がある。この碑の後ろにある塒(ネグラ)家は後醍醐天皇がお休みになられたところで、地元の方に当時筵で急遽部屋を作ったという話が伝わっていることやこのときに「戸屋」という屋号を頂いて、それを屋根の瓦に書き込んでいることも教えていただいた。
元弘帝御着船所 
 ここから左折すると漁港があり、そこに「後醍醐天皇御腰掛岩」がある。この岩はもとは岸辺の海中にあったが、昭和51年の漁港整備事業で現位置まで持ち上げられたものという。このあたりは後醍醐天皇にまつわる話が多い。
後醍醐天皇御腰掛岩 
 右手街道から少し入ったところに円福寺がある。
 その先の三叉路から右へ上る道を進むと左手に「大乗経典一字一石塔」が立っている。
大乗経典一字一石塔 
 御来屋駅西入口の信号で9号線を横断、すぐ先を右折、跨線橋でJRの線路を越え、みどり区公民館前の信号から左折して進む。
 文化4年(1807)と刻まれている「大乗妙典石書塚」があり、これは道標にもなっていて「左 大せん道」と刻まれている。
大乗妙典石書塚 
 左手に「佐渡五輪」が祀られている。これは佐渡の人を供養したものといい、病気の治る「はやり神」ともいわれ、あるいは船上山合戦につながる武将の供養塔かとも考えられているということだ。船上山合戦とは元弘3年(1333)流罪地の隠岐島から脱出した後醍醐天皇が船上山(現在の琴浦町)で僅か150騎で挙兵、2000騎の鎌倉幕府軍を撃破した戦いのことをいう。この後、鎌倉幕府は滅亡するのである。
佐渡五輪 
 更に「氏殿権現道」と刻まれた道標が立っている。これには「名和旧跡自是西十三丁・米子往来・御来屋江通抜」と刻まれている。このあたりは道標が多く立っていて、各方面への道が交叉する交通の要所だったことがわかる。
氏殿権現道 
 大池があり、そのほとりに大五輪と小五輪が並んで置かれていた。
大五輪と小五輪 
 民家の庭に見事な藤の花が咲いていたので写真に撮った。私はどちらかというと花よりだんご系統の人間なのだが、こうして黙々と歩いている中でこのようなきれいな花に出会うとなんとなく癒された気持になる。
藤の花が 
 小竹踏切でJRの線路を横断、9号線に合流し、次の角を右折する。畑の中を進み、左手に墓地を見ながら進んで行って、その先で二股に分かれているところを右へ下る。突き当りを左折して進むが、ここにも道の両側に墓地がある。上前谷の集落を抜け、坂を下っていくと道は二股に分かれているので左折する。その先で道は再び二股に分かれているが、ここを直線で上る道が旧道だったが、現在はだれも通らないようで道が失われている。ただ下から見ると、道の跡が残っており、何とか上ることができそうだ。丁度農作業をされている方がおられたので、ここが旧道で間違いないかお聞きすると、そうだが、今では誰も通らないから歩けないかもしれないといわれた。ただ距離的には短いようだったし、なにより旧道と分かっているので挑戦することにして坂を上っていったが、たいしたこともなく上ることができた。資料によるとこの坂を「ホエゴ坂」と呼ぶそうで、「ホエゴ」とは「泣く子」の方言で大人でも泣きたいほどの難所だったという。このあたりの道を地元では「殿様道」と呼んでいるそうで、船上山の合戦で勝利し、京都へ遷幸された後醍醐天皇もこの道を通られたということだ。。
旧道
 左手に「木ノ根神社」がある。ここは男性を象徴した老松の根を御神体としており,子宝、縁結びなどにご利益があるという。この神社には「生まれつき体が弱く、元気のない松助という若者がいて、結婚すればすぐにお嫁さんに逃げられてしまっていた。母親は何とかならないものかと八幡様へお参りをすると「山の中ほどにある大きな松の根にあやかりなさい」というお告げがあったので、その松の根を持ち帰り、一心にお祈りすると数日たって松助は見違えるほど立派な男になり、後に五人の子供に恵まれ、長者になった」という言い伝えがあるということだ。小泉八雲もセツ夫人とここを訪れ、紀行文「日本海に沿うて」で、この神社のことを紹介している。 
木ノ根神社 
 この神社の上に逢坂神社の「六角堂」があり、古い神宮寺の三体の古仏を安置している。
六角堂 
 その先にドライブインがあったのでここで昼食にする。
  その後、宮川に架かる宮川橋を渡り、松河原の信号で9号線を横断、276号線に合流する。
 左手に「逢坂八幡神社」がある。貞観7年(865)に宇佐八幡宮から勧請したという古い神社で、その後火災で焼失したりしたが、慶応4年(1868)に逢坂神社と改称、大正9年に逢坂八幡神社と改称したという。
逢坂八幡神社 
 下市川に架かる下市橋を渡り、下市郵便局の横から右折、上市第一踏切でJRの線路を横断する。
 左手に「一里松のお地蔵様」がある。昔、無名の旅僧が尺余の仏像を背負ってこの地へ来、自分が報酬を受けた金でこの仏像を手本に石の地蔵を造ってこの地に建てたいといって村の石屋にその旨を依頼した。僧はその完成までこの地に滞在し、その開眼と共にどこへやら遍路に旅立ったという。
一里松のお地蔵様 
 その横に二基の大型五輪塔があるが、これは十数年前に実施された圃場整備事業の時にここへ移されたという。またここには「秋津波徳蔵碑」があるが、これは地元力士の供養塔で「安政元寅四月廿六日」と命日を刻んでいる。
その先で道は二股に分かれているので右へ進み、住吉第一踏切でJRの線路を渡る。この辺りになると日差しが強くなってきた。日が差すとさすがに暑い。
 右手に「高見山文蔵 天保14年」と刻まれた石碑があり、その横に「大乗妙典六十六部供養塔」が立っていた。高見山も相撲取りなのだろうが、説明がなかったので分からなかった。
高見山文蔵  
 その先で9号線に合流し、甲川に架かる甲橋を渡って進み、二股になっているところで9号線と分岐して右へ進む。大山町役場中山支所の信号で9号線を横断して進む。その先、9号線に合流する手前で左斜めへ進む。
 車の通りもほとんどない静かな道を進んで行くと、左手に五輪塔や石仏が並んでいる。
五輪塔や石仏 
 金屋の信号で9号線を横断、金屋集落の中を進み、二股に分かれているところを右折、黒川に架かる堅忍橋を渡る。
 左手に「河本家」がある。ここは江戸時代を通じて当時の八橋郡で代々大庄屋を勤めた旧家で、その先祖は出雲の戦国大名尼子氏の重臣河本弥兵衛隆任までさかのぼることができるという。
 万治2年(1659)以前の建築といわれるが、主家は棟札から貞享5年(1688)に建築されたものという。県保護文化財に指定されている。
>河本家 >主家 

 勝田川に架かる持久橋を渡り,赤碕駅前の信号を直進すると、左手に「大乗経典廻国供養塔」と小祠がある。
大乗経典廻国供養塔 
 八幡坂の信号で9号線を横断、突き当たりを右折、化粧川に架かる化粧橋を渡って進むと「河原地蔵尊」がある。総高4.3mある石像でこの地方ではまれにみる大型の地蔵尊だ。延享4年(1747)に建立されたもので、化粧川河口が現在より広く河原になっており、そこに所在していたことから命名されたものと思われている。琴浦町指定保護文化財になっている。
河原地蔵尊 
 右手少し入ったところに三方神社、智光寺があり、その先に「順正書院跡」という私塾があったことが記されている。
 右手に「お天気菩薩」がある。天正時代(1573~1592)にこの地で西領、東領の境界争いが起きたので、領主だった何條元忠はある禅師に裁定を依頼した。ところがその裁定が西領に有利な証言だったため、元忠は怒って禅師を処刑してしまった。ところがその後、元忠の家族に災いが続いたため、禅師の供養のためお天気菩薩を建立したところ災いは収まったという。
お天気菩薩
 267号線を進み、新川に架かる新川宮橋、町川橋を渡り、更にその先で洗川に架かる洗川橋を渡り、右折して街道から離れ、浦安駅に着く。

 16時27分 浦安駅に到着する。ここからJRで米子経由で岡山まで出て小倉へ帰る。

 本日の歩行時間   9時間1分。
 本日の歩数&距離 47690歩、35km。

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