熊野古道・小辺路を歩く

2011年04月12日(火) ~2011年04月29日(金)
総歩数:93423歩 総距離:69km

2011年04月12日(火)

高野山~薄峠~水ケ峰~大股 

                      晴れ

 熊野古道最後の挑戦は高野山から熊野本宮大社へ紀州半島の山岳地帯をほぼ直線に結ぶ小辺路だ。全長は70kmほどと、これまで歩いた中では最も短いが、途中で1000m級の山を三つ越えるなど、かなり厳しい道だ。小辺路は高野・熊野の2つの聖地を結ぶことから『修験の道』としての性格をも帯びていて、修験宿跡や廻峰記念額も残されていると伝えられている。しかし、小辺路の起源は、もともと紀伊山地山中の住人の生活道路として大和・高野・熊野を結ぶ山岳交通路が開かれていたものが,畿内近国と高野山・熊野を結ぶ参詣道として利用され始めたことにあると考えられているという。小辺路の生活道路としての形成時期ははっきりしないが、小辺路が通行する十津川村・野迫川村に関係する史料には8世紀にさかのぼるものが見られ,、また周辺に介在する遺跡・歴史資料などから少なくとも平安期には開創されていたと考えられているという。実際に歩いてみて、貴族が熊野詣に利用した中辺路は石畳が敷かれ、道幅も広かったが、小辺路は道幅が極端に狭い箇所が数多くあり、生活道路として必要最小限の道だったということが良く分かった。

 出発前に高野山に前泊して、高野山の周辺を見学する。高野山は、標高約1,000m前後の山々の総称であり、弘仁7年(816)に嵯峨天皇から真言密教の根本道場を開くために空海が賜ったもので日本仏教の一大聖地だ。現在は「壇上伽藍」と呼ばれる根本道場を中心とする宗教都市を形成していて、山内の寺院数は高野山真言宗総本山金剛峯寺をはじめ117か寺に及び、その約半数が宿坊を兼ねているという。
 「金堂」があるが、ここは高野山全体の総本堂で高野山での主な宗教行事が執り行なわれる。
金堂
 金堂の裏に「御影堂」がある。これは弘法大師の持仏堂として建立されたが、後に真如親王直筆の「弘法大師御影像」を奉安し、御影堂と名付けられた。このお堂は高野山で最重要の聖域であり、一般人が堂内に入ることは許されなかったが、近年になって旧暦3月20日に執行される御逮夜法会の後に、外陣への一般参拝が許されるようになったという。ちょうど御影堂の前を若いお坊さんの一団が列を成して歩いていた。
御影堂
 「根本大塔」がある。これは空海の死後完成されたもので、高野山の教理上の中心としての大日如来を象徴するものだが、雷火によって何度も焼失し、現在の塔は昭和9年に建立された六回目の塔ということだ。
根本大塔
 「不動堂」がある。ここは建久8年(1197)、鳥羽上皇の皇女である八條女院内親王が発願され、行勝上人によって建立された。もともと一心院谷(現在の金輪塔所在地付近)に建てられていたが、後世になって伽藍へ移築された。現在の建物は鎌倉時代後期、十四世紀前半に再建されたと考えられており国宝に指定されている。
不動堂
 「三昧堂」がある。これは済高座主(870~942)が延長7年(929)に建立されたお堂で、もともと総持院境内に存在していたという。済高師はこのお堂で「理趣三昧」という儀式を執り行っていたため、三昧堂と呼ばれるようになった。現在の建物は文化13年(1861)に再建されたものという。
三昧堂
 「総本山金剛峯寺」は文禄2年(1593)、豊臣秀吉が亡き母堂の菩提を弔うため、木食応其上人に命じて建立したもので、当時は秀吉の母堂の剃髪が納められたため、剃髪寺と名付けられたそうだが、のちにその名を青厳寺と呼んだという。その後再三の火災によって焼失し、現在の本殿は文久3年(1863)に再建され、高野山真言宗の総本山として高野山真言宗管長が就住職(座主)に就任することになっているという。
金剛峰寺
 「奥の院」は高野山の信仰の中心であり、弘法大師が御入定されている聖地だ。
 「弘法大師御廟」は大師信仰の中心聖地で、各宗派の祖師のなかでもただ一人入定信仰を持つ弘法大師は、今でもここに参るあらゆる人を救いつづけていると信じられている。御入定後、弟子たちはこの地の洞窟に定身を収めて御廟とし、それ以来日々のお給仕を続けているという。ここは撮影禁止になっている。
 奥の院は正式には一の橋から参拝するようになっており、一の橋から御廟まで約2キロメートルの道のりには、おおよそ20万基を超える諸大名の墓石や、祈念碑、慰霊碑の数々が樹齢千年を超える杉木立の中に立ち並んでいて壮観だ。ここにそのいくつかの戦国武将の墓所を掲載しておきます。
豊臣家墓所織田信長墓所
  豊臣家墓所            織田信長墓所
明智光秀墓所石田三成墓所
  明智光秀墓所         石田三成墓所
上杉謙信霊屋武田信玄・勝頼墓所
 上杉謙信霊屋         武田信玄・勝頼墓所 
  
 奥の院参拝を終わって今夜泊まる「蓮華院」に入る。 ここの開基は弘法大師、あるいは快仙僧都とされており、かつては高野聖方の本寺であり、また古くから徳川家との縁が深く、天文4年(1535)家康の祖父松平清康の遺骨が納められると蓮花院から光徳院に改号、さらに文禄3年(1594)、豊臣秀吉に随従して高野山に登った家康から大徳院の院号が与えられ改号した。寛永20年(1643)、後山に家康・秀忠の霊屋が落慶し(現在の徳川家霊台)、徳川家の菩提所となった。明治初期に現在の地に移り旧号の蓮花院に戻したという。当然のことながら料理は精進料理だった。ここに尼僧がおられて面倒を見ていただいたが、この方は福岡市出身だといわれていた。お寺の方かと思って聞いてみると「在家」です、と言われた。在家とは出家せずに、家庭にあって世俗・在俗の生活を営みながら仏道に帰依する者のことで、出家に対する語だ。
 4月12日の朝6時半からの勤行に参加をすると、外国人の女性が一人おられた。この方も宿泊していたのだろう。勤行が終わってお坊さんから寺中を案内していただいたが、徳川家の高野山における菩提寺ということで、徳川家歴代将軍のお位牌が並んでいた。女性は日本語が全く分からないということだったが、一緒に回っていた。朝食の精進料理をおいしく頂いて8時20分に再度金剛峯寺に参拝をして出発する。今日はいい天気だが寒く、お寺の水桶には氷が張っていた。
 奥の院へ向かう道を進んで行き、右手に「金剛三昧院」の石碑が立っているところから右折して進む。
金剛三昧院」の石碑
 「金剛三昧院」は建暦元年(1211年)北条政子の発願により源頼朝菩提のために禅定院として創建され、承久元年(1219)源実朝菩提のために禅定院を改築して金剛三昧院と改称、以後将軍家の菩提寺として信仰されたという。貞応2年(1223)北条政子が禅定如実として入道し、多宝塔を建立したが、これは現在国宝となっている。本坊、庫裡はちょうど解体修理中で見ることが出来なかった。
金剛三昧院
 街道は金剛三昧院の入口から右折して進む。山の中の道だが、舗装されていて歩きやすい。
 やがてろくろ峠「大滝口女人堂跡」に着く。高野山は明治5年まで女人禁制だったため、高野山へ入る七つの口には夫々女人堂が設けられていた。女の人はここから先には入れなかったため、夫々の女人堂を巡ってお参りをしたという。
大滝口女人堂跡
 その先で道は二股に分かれているが、標識が立っているのでそれに従って左へ進む。
⑲の標識
 すぐ先で再び道は二股に分かれており、ここにも標識が立っているのでそれに従って右へ進む。このあたりになると日陰にはまだ霜が下りている。なだらかな道を上って行くと、右手に自動車の残骸がある。こんなところまでどうして運び上げたのだろうかと思うような場所だ。遺棄して大分時間が経過しているようで、車体はかなり傷んでいた。熊野古道は清掃が行き届いて感心していたのだが、これはどうしたのだろうか。
自動車の残骸
 右手に眺望が開け、熊野の山々を眺めることが出来て気持がいい。
熊野の山々
 やがて薄峠に到着する。ここで道は二股に分かれていて、標識に従って左へ下るが、今日は距離が短いためゆっくり行こうと思って少し休憩をとることにした。しかし標高1040mということでじっとしていると寒い。
薄峠
 しばらく下っていくと鶯の鳴き声が聞こえ出した。鶯はどのくらいの高度までいるのだろうかなどと思いながら下っていく。この辺りも道は整備されていて、急な下り坂のところには階段が作られている。
文久2年(1862)に建立された大師像が彫られたお墓がある。「信士」「信女」と刻まれているので夫婦のお墓だろうか?
文久2年
 落葉の積もった道はフカフカとして足に優しい。気持ちよく山を下っていくと高野槙の林が続いており、やがて舗装された道に出る。
高野槙
 右手に石仏が四体と墓石が4基あり、ここから急な下り坂になる。
右手に石仏
 谷を挟んで前方の山の中腹に集落らしいものが見えるが、あんなところに人が住んでいるのだろうかと思いながら下っていき、御殿川を渡る。ここから今度は急坂を登るが、資料によるとこの辺りを昔は「馬殺し」といったそうで、それぐらいきつい坂だったようだ。その先で林道に合流、右折して更に坂を上って行くと左手に「弥勒菩薩」と刻まれた石碑が立っている。
弥勒菩薩
 その先で集落に入るがここが大滝の集落で、先ほど山を下るときに見えた集落だった。ここでオバサンに出会ってしばらく話をお聞きする。この方のご主人は高野槙を作りながら、語り部もされているということだった。この大滝集落は昔は旅人が一休みする場所にあったため、かなりの数の家があって賑わっていたが、現在では7軒が残っているだけになってしまったそうだ。山の中なので冷え込みが厳しく、今朝も零度だったといわれていた。ここにはトイレと休憩所が設けられていたので一休みする。今日は距離が短いので、あまり早く着いても仕方がないと思ってこの後も頻繁に休憩を取るようにした。
大滝の集落
 集落を抜けると山の中の道になる。ここも檜林の中の道だ。
檜林
 やがて熊野龍神スカイラインに合流し、そこから暫くスカイラインを歩いていく。もっともスカイラインといっても通る車の数は少ないので、国道を歩くよりはるかに楽だ。暫く行くと左手に「辻分地蔵」があり、「右ハくまのみち」「左ハこうやみち」と刻まれている。
辻分地蔵
 そのすぐ先に「立里荒神遥拝所」があり、傾いた鳥居が立っている。立里荒神は以前は荒神岳山頂(海抜1260m)に鎮座していたと伝わり、古荒神と称したが、現社地は尾根沿いに北へ2kmほど下ったところにあるという。 桜井市の笠山三宝荒神、宝塚市の清荒神、と並び日本三大荒神の一つといわれているが、この場所から遥拝できるのだろう。
立里荒神遥拝所
 その先からスカイラインから分岐して左手に坂を登る道があり、ここが水ケ峰への分岐点になっている。
スカイラインから分岐
 ここで昼になったので道端に座り込んで昼食にする。今日は高野山の町のコンビニで買ったおにぎり4個が昼食だ。
 ここで食べていると、ご夫婦らしい二人連れが登ってこられて、「お先に」と言って先へ進んでいかれた。このお二人とは宿も一緒で、翌日の伯母子峠でも一緒になった。
 右手に「道標地蔵」がある。「くまのみちこれよりほんぐうまで十八(?)り」と読むことが出来た。
右手に「道標
 この辺りの木は妙に変形した巨木が多い。ちょっと珍しい木だ。
変形した巨木
 右手に「水ケ峰 右 こうや 左 くまの」と刻まれた石碑が立っており、その横に二基の墓石が立っている。昔はここに7軒ほど宿屋があって賑わっていたという。
水ケ峰 右
 路傍に雪が残っている。二週間前に降った雪がまだ残っているのだ。気温が低く寒く感じるはずだ。
路傍に雪
 この辺りだけ空き缶が散乱していた。どうしたのかな?熊野古道はどこも清掃が行き届いて空き缶が落ちていることなどなかったので気になった。
 舗装道に出てしばらく行くと「みどりと歴史のビューポイント」という休憩所があり、そこに先ほどのお二人が休んでいた。今度はこちらが「お先に」と言って先へ進む。
 「タイノ原線林道開設記念碑」が立っている。時間を見るとまだ1時過ぎだ。このまま行くと余りに早く宿に着きすぎるので、ここで暫く休憩をする。この林道は立派な林道なのだが、車が通らない。ここで休んでいるときに二台通っただけで、それ以外は全く車を見る事がなかった。記念碑の裏をみると11億1325万円の工費がかかっているとなっていたが、それだけの効果があったのだろうかとつい思ってしまう。
タイノ原線
 この記念碑のすぐ先から右へ下る道があり、標識が立っているのでそれに従ってこれを下っていく。
 その先で道は二股に分かれており、標識がないように見えたのでちょっと迷ったが、右手へ進むと木に「コース」と書かれたシールがテープで巻きつけていた。どなたかが応急的につけたのかな?
この記念碑のすぐ
 急坂を下っていって林道に合流、「平辻の道標」から林道と分岐して右へ入る。分岐点の左手に地蔵尊が二体あり、一体は道標地蔵になっていて「右 くまのみち」「左 ざい志やうみち」と刻まれており、もう一体の小さい地蔵尊には天保9年(1838)と刻まれていた。
平辻の道標
 左下に林道を見ながら稜線を下っていくと、右手にポツンと地蔵尊が立っている。地蔵尊は大体ここのようにポツンと立っている場合が多いのだが、なぜかこの地蔵尊を見た時に「ポツンと立っているなぁ」という言葉が浮かんだ。資料をみるとこの地蔵尊は「鋳掛地蔵」となっており、「左 熊野道」と刻まれていて、文政2年(1819)に建立されている。なんとなく親しみを感じてしっかりと参拝させていただいた。
ポツン
 その先のアカマツ林を抜け、急坂を下っていくと林道に合流する。舗装道を進んでいくと、左手に分岐する坂道があるので、これを下っていく。途中道は二股に分かれているところがあるが、左へ下っていく。九十九折のかなりの急坂だ。はるか下方に大股の集落が見える。
 左手に「ほめき地蔵尊」があるが、説明がなく資料にも詳細が書かれていなかったので、どういう地蔵尊なのか分からなかった。
ほめき地蔵尊
 大股橋に14時44分に到着する。ここから今日の宿であるホテルのせ川へ電話を入れようとしたが、圏外で携帯電話が繋がらない。確かに資料をみると「この辺りはケイタイ電話が通じないので注意」と書かれている。参ったな、と思ったが、携帯が繋がらなければ公衆電話がどこかにあるはずだと思って、橋を渡って集落のほうへ行って見た。しかしどこにもない。これは困ったぞ。ホテルまで歩くしかないか、それともどこかのお宅で固定電話をお借りしようかと思いながら、その辺りを暫くウロウロしてみたが、人影もない。さてどうしようと思ってもう一度橋のところまでもどってみると、橋の袂にトイレがあり、そこに公衆電話があった。一般に公衆電話というと電話ボックスを想像するのだが、ここの電話は箱の中に入っていて扉が閉まっている。ただ、扉に公衆電話と書かれていたのだが、電話ボックスばかりを想像していたので気がつかなかったのだ。幸い小銭があったのでここから電話をして迎えにきていただくようにお願いをして待っていると、途中ですれ違ったお二人が山から降りてこられた。宿をお聞きすると同じ宿ということが分かったので、同じ車でホテルに向かうことにした。ホテルはここから3kmほど離れたところにあったが、気持のいいホテルだった。

 本日の歩行時間   6時間24分。
 本日の歩数&距離 25930歩、18.2km。

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん