熊野古道・小辺路を歩く

2011年04月12日(火) ~2011年04月29日(金)
総歩数:93423歩 総距離:69km

2011年04月14日(木)

五百瀬~三浦峠~十津川温泉

                      晴れ

 御世話になったお二人と愛犬マグちゃんの写真を撮らせていただいて7時28分に出発する。
御世話になったお二人
 振り返るとオバサンがいつまでも手を振って見送ってくれていた。宿の方からこうした見送りを受けるのは久しぶりだし、めったにあることではないので気持がいい。本当に色々と御世話になりました。
 「腰抜田」の説明板が立っている。南北朝の頃、大塔宮護良親王は北朝方の追っ手から逃れて五百瀬を通過しようとしたとき,五百瀬の荘司に行く手を遮られた。荘司は宮の通行を認める代わりに宮の家来か錦の御旗を置いていくように要求し、やむを得ず錦の御旗を置いていくことにした。暫くして一行から遅れていた宮の家来の村上彦四郎がこの地を通りかかったとき、錦の御旗があるのを見て怒り、荘司の家来を投げ飛ばして御旗を取り戻したという。そのとき投げ飛ばされた家来が腰を抜かしたので、その田を腰抜田と呼ぶようになったという。
腰抜田
  左手に「庚申堂」がある。
左手に「庚申堂
 ひょっと振り返ると犬が後をついてきている。この犬は昨日民宿の庭でみかけた犬で、こうして旅人の後をついていくことがあり、あなたにもついていくかもしれないよとオバサンから言われていたのだ。この段階ではまだ軽く考えていてどこまでついてくるのかなという程度にしか考えていなかった。
振り返ると犬が
 「三浦峠」への標識が立っているので、それに従って右へ下り、舟渡橋を渡るが、この橋はつり橋で下が透けて見える。しかも歩くとゆらゆらと揺れていて、余り気持のいいものではない。
舟渡橋
 橋を渡ると急な上り坂になる。鶯の鳴き声が聞こえてきて気持がいいなと思っていると、先ほどの犬がいつの間にか私の前にいるではないか。先回りをしていたようだ。かわいいので頭をなでてやると、さかんに尻尾を振っている。犬は後で確認するとちびちゃんという名前だそうだ。道はやがて石畳になり、坂を登って行く。
先ほどの犬
 この辺りも標識が立っており、それに従って山を登っていくと、平坦な場所に出る。ここは旅籠を営んでいた「吉村家跡」で昭和23年まで営業をしていたという。
吉村家跡
 ここには樹齢500年といわれる杉の巨木が何本も立っていたが、これは防風林だったのだろうと思われているそうだ。
樹齢500年
 この場所には吉村家の墓石があり、夫婦の名前が刻まれていた。
吉村家の墓石
 「ゴミを捨てたらあカンでぇ」と書かれた五百瀬小学校の生徒が作った標識が立っている。小学生にこうしたことをしてもらうと、彼らも熊野古道に対する認識を持つだろうし、環境整備という意識も育つと思う。一方大人も小学生からいわれたのでは気をつけざるを得ないので中々いい試みだと思う。
五百瀬小
 「二十五丁石」が右手にある。これは大坂の商人が神納川から三浦峠までの間に建てた丁石と資料に記されている。ここでこの石を見ていると、昨夜一緒に泊まった方が私を追い抜いていった。
二十五丁石
 その先右手少し入ったところに「三十丁の水」がある。
三十丁の水
 その先で「この先危険につき通行止め(工事中)迂回路を通行してください」という看板が立っているので、それに従って迂回路を進んでいく。
この先も右手が崖になっている細い道や丸太を渡した橋を渡って進む。
右手が崖丸太

 やがて9時25分に標高1060mの三浦峠の頂上に着く。はるか下に五百瀬の集落が見える。
五百瀬の集落
 ここに小辺路の案内板が立っている。それによると明治22年に十津川村を襲った大水害によって約2600名の人々が新天地を遠く北海道に求め、神戸から船に乗るため、この小辺路を歩いていったという。三浦峠をはじめアップダウンの多い厳しい道なので、途中子供や年寄りは青年達に背負われながら歩いたという。
 ここで先ほど追い抜いていかれた方に合流する。この方は少し休んでいかれるようだったので、私は先に出発する。
 この先も細い山道を進む。
この先も細い
 「古矢倉跡」がある。ここの西側に苔むした天保10年(1839)の地蔵菩薩坐像とその前に「南無阿弥陀仏」と書かれた「六字名号碑」が立っている。ここには「古矢倉」という名前の茶店兼旅籠があり、昭和10年まで営業を行っていたという。昔、ここに古矢倉坊主という者がいて、屋敷につり天井を仕込み、旅人を殺害して軍資金を作って、大坂の陣に出たという話が残っているという。
天保10年(古矢倉

 ここからなだらかな坂を下っていくと、「出店跡」がある。ここにはかって茶店・旅籠があったが、明治43年に廃屋になったという。昭和20年代の末頃までは今西の人が遠くの谷から水路を作って耕作をしていたそうで、かっては豊かな田園風景が広がっていたということだ。今ではその面影もない状態になっている。
出店跡
 その先で道は二股になっており、標識に従って左へ上って行くが、ちびちゃんは道を熟知しているらしく、自分から左の道を登って私が来るのを待っている。私が標識を確かめたり、写真を撮ったりしていると、わざわざ私を迎えに来るように道を下ってきた。なんともかわいいものだ。
道を熟知
 このちびちゃん、時々姿が見えなくなる。どうしたのかな?もう家にもどったのかな?と思っていると、突然前方に姿を現して私が追いつくのを待っている。当然のことだが私よりはるかに健脚だし、道ではない坂を駆け下りたり、駆け上ったりして常に私より前を進んでいく。格好の道案内であり、だれもいない山の中を黙々と歩いている私にとってとても心強い仲間だ。
 右手に「五輪塔」が立っているが説明がなかったので、どういう由緒があるのかはわからなかった。
五輪塔
 左手に墓石が六基立っている。文政8年(1825)、文政13年(1830)の年号が刻まれていた。
墓石が六基
 ここでも写真を撮ったり、刻まれている文字を見たりして時間がかかっていると、ちびちゃんはこちらを見ながら道に座って私が行くのを待っていてくれる。
道に座って
 「矢倉観音堂」が左手にある。この観音堂は昭和30年に建て替えられたもので、中には台座に「大坂屋天満市場山家屋彌兵衛」と刻まれた「如意輪観音菩薩坐像」と享保10年(1725)の「地蔵菩薩立像」、そして観音菩薩らしき三体の石仏像が安置されている。耳を患う人が願をかけ、地蔵さんの頭をなでると治るといわれているそうだ。
矢倉観音堂
 今は人が住んでいないような民家が二軒並んでいる前を通って進み、その先で急坂を下って舗装道に出る。舗装道を少し行くと右へ下る道があり、標識が立っているのでそれに従って山道を下っていく。再び舗装された道に合流、その先で舗装道から分岐して階段を下って再び山道を下っていく。この辺りになるとちびちゃんもさすがに道が良く分からないようで、階段の少し先で立ち止って私を待っていた。私が階段を下りはじめると「アッ、そっちだったか」という感じで走ってきて、また私の先を進んでいく。その姿がなんともかわいい。
私の先を
 やがて425線に合流するが、ここに「三浦峠登山口」の道標が立っていた。11時25分にここに到着する。
三浦峠登山口」
 ここからは425線を進むので平坦な舗装道で歩きやすい。右手につり橋があり、入口に「一度に5人以上渡橋しないでください」という看板がかかっている。一人で渡ってもかなり揺れそうな橋だったが、幸いこの橋を渡る必要がなかったので、そのまま425線を進んでいく。
つり橋
 お店があり、そこのオバチャンがちびちゃんをみて「あら、あんた、また案内をしてきたの」といわれていた。一昨日も山を越えた人を案内をしてきたそうで、このあたりでは有名人(犬?)なのだそうだ。この犬ともう一匹いて、それもやはり案内をしてくるそうだ。後で民宿のオバサンに電話で聞いてみると、もう一匹というのはちびちゃんの親だそうで、最近は繋がれていることが多くて、このちびちゃんのほうが活躍(?)しているそうだ。もともとは親がたまたま登山者についていったところ、食べ物を貰ったことから味をしめて登山者がいると一緒に歩き始めたということのようだ。その親の姿をみて、ちびちゃんも最近こうして登り始めたという。
 気になっていた一人(一匹)で帰ることができるかどうかお聞きすると、山を下ってきた人はここから十津川温泉までバスで移動する人が多く、案内をしてきた人がバスに乗るのを見届けると、一人で山へ帰っていくそうだ。私の場合、バスに乗らずに歩いていくと言うと、自分で帰ることが出来る範囲まで行くと、そこから帰っていくだろうといわれたので、ちょっと安心する。それにしてもかわいい、そしてかしこい犬だ。
かしこい犬
 オバチャンがパンを一個犬にやるとおいしそうに食べていた。
 その先左手に「川合神社」があり、丁度12時になったので、ここの境内の階段に腰掛けて昼食にする。
川合神社
 宿で作ってもらった弁当をひらくとおにぎりが3個とウインナーが2本、漬物が二切れ入っていたので、ちびちゃんと半分ずつ食べることにした。最初に二つに割ったおにぎりをやると、中に梅干が入っていて食べない。もう一個のおにぎりをみると、これは鮭の身を混ぜたおにぎりだったので、これをやるとおいしそうに食べた。漬物はさすがに食べないだろうと思ってこれは私が二つ食べ、その代わりウンナーを2本やると、これもおいしそうに食べた。最後のおにぎりは高菜が入っており、ご飯のところだけをやるとこれも食べてくれたのでうまく二等分できてよかった。最後にキャンデーが3個入った袋があり、なにやら紙が入っている。何かなと思ってみてみると「登山はなれたものですね。又今日もお元気で楽しい登山をなさって下さい。機会がございましたら又おいで下さい。ありがとうございました」としっかりとした文字で書かれたメモが入っていた。オバサンが入れてくれたものだろうが、行き届いた心配りに感謝する。このキャンデーもちびちゃんと二等分していただいた。
ちびちゃんは食べ終わると私のすぐ上の階段に座ってじっとしている。本当にかわいい。
食事も済んで、さてもう一息だと思って立ち上がった瞬間、腰にグキッときた。「アッ!やばい!」、もともと腰が良くなくて、ぎっくり腰も経験したことがあるので、これは困った!と思った。ゆっくり立ち上がってみると、ギックリ腰の時のような息も出来ないほどの痛みはなくて比較的軽いようだ。少しずつ屈伸をしたりして身体をほぐしていると、ちょっと楽になってきたので、歩き始めた。ゆっくり歩くとなんとか歩くことができそうだ。ここから今日の宿まで約8km程の距離で、平坦な舗装道を歩くので何とかなりそうだ。ゆっくり、休みながら歩いていくが、この辺りは集落があって、車がかなり通る道だ。ところがちびちゃんは車が来ても避けないで、堂々と道の真ん中を歩いていく。こちらは気になってしょうがないので、車が来るたびに痛む腰をかばいながら、ちびちゃんを道の端に寄せようとするが、なかなか言うことを聞いてくれない。ところがこの辺りの人はこの犬のことをご存知の方が多くて、笑いながら車のほうが避けて通ったり、ちびちゃんが通り過ぎるまで車を止めて待っていたりしてくれる。皆さんいい人ばかりだし、ちびちゃんの人気度も抜群のようだった。
 重里のバス停の手前から左へ分岐する道があるので、これを進んでいくと左手に「天誅組 深瀬繁理碑」がある。文久3年(1863)の天誅組挙兵には、野崎主計等と共に郷士を率いて参加、各地に転戦した。後、情勢の変化により十津川郷は天誅組を離脱したが、この時、繁理は天誅組への義理を重んじ、天誅組の脱出を助けるため、北山郷に入り、遂に幕軍に捕えられ、9月25日白川河原で斬首され、首は重里に葬られたという。時に年37歳。正五位 が贈られたと説明されている。「あだし野の露と消えゆくますらをの都に残す大和魂」という辞世の句碑が立っている。
深瀬繁理
 西川に架かる片谷橋を渡って進むと、右側に「昴の郷」があり、そのまま直進してトンネルを通り、右手に赤く塗られた柳本橋があるところを更に直進する。橋の向こうに明日越える果無峠が見える。
赤く塗られた 
 今日の宿である平谷荘には14時27分に到着する。
 ちびちゃんはここまでついてきてしまった。宿の少し先にお店があったので、そこでパンを買ってやるとこれもおいしそうに食べていた。宿の女将さんもパンを一個持ってきてくれ、それもやるとこれもおいしそうに全て食べてしまった。一日の重労働で腹が減っていたのだろう。問題はこれからだ。果たして自分でここから帰ることができるのだろうかと心配になってきたので、前日の民宿のオバサンに電話を入れて、平谷荘まで来てしまったことを告げると、飼い主に連絡をして迎えに行ってもらうようにしましょうということだった。それからとりあえず私は風呂に入っていると、三浦峠で別れた方が到着したようで、風呂に入ってきた。犬はまだ玄関の前にいますよといわれたので、風呂から上がって玄関まで出て行くと、ちびちゃんがまだ座っていた。私を見ると驚いたように後ずさりをしたので、俺だよと声をかけると私と気がついたようで、しっぽを振って近寄ってきて、足元にうずくまった。浴衣に着替えていたので私と分からなかったようだ。暫く一緒にいてやったが、お願いしていたマッサージの方がこられたので、部屋にもどり一時間ばかりやってもらった後、玄関へ出てみると、もうちびチャンの姿はなかった。翌日気になったので民宿のオバサンに電話をして確かめてみると、もどっているということだったので安心した。飼い主が迎えに来たのか、自分で帰ったのかはオバサンはわからないということだった。

 翌朝、起きてみるとやはり腰が痛い。これからその名も「果無峠」(はてなしとうげ)という標高1050mの厳しい山を越えるのはちょっと無理なようなので、一日休養をとってみることにした。
 休養をとったのはいいが、とにかく暇だ。することがない。テレビをつけても面白い番組はないし、新聞は昼頃にならなければ配達されないという地域だ。本屋等の店もない。手持ち無沙汰の一日を過ごすが、午後から雨が降ってきた。かなりの雨だ。
 翌朝、空を見るとまだ雨空だ。腰は昨日よりは少しはいいようだが、まだまだ痛みが残っている。果無峠をみるとガスに覆われている。
果無峠
 腰が悪い上に雨が降っていて足元が悪くて滑ったりしたのではたまらないなと思って、迷った末に踏破を断念した。後一日、正確には6時間も歩けばゴールである熊野本宮大社へ到達できるのに、と思うと残念でたまらないが、しかたがないとあきらめた。
 結局宿のすぐ近くにあるバス停から6時35分のバスで帰ることにした。バスに乗ると宿の女将さんが手を振って見送ってくれていた。昨日のオバサンといい皆さん親切だ。その後乗り継ぎを繰り返して、小倉に着いたのは16時22分だった。約10時間の長旅だったが、これもかなり腰に堪えた。 

 本日の歩行時間   6時間59分。
 本日の歩数&距離 25421歩、20.4km。

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん