熊野古道・小辺路を歩く

2011年04月12日(火) ~2011年04月29日(金)
総歩数:93423歩 総距離:69km

2011年04月13日(水)

大股~伯母子峠~五百瀬

                      晴れ

 今日も距離が短いため、朝ゆっくりして大股橋まで送っていただき、7時55分に出発する。小辺路はちょうどいい距離のところに宿がないため、小刻みに歩いていくしかないのだ。
 送っていただく車の中でホテルの方とHPの話になり、私のアドレスをいうと、それはみたことがあるといわれて驚いた。この方はどうすればホテルをもっとアピールできるかということを真剣に考えておられているようで、熊野古道関連のHPも色々とご覧になっていて、その中に私のHPが含まれていたということのようだった。ホテルは村営ということだったが、公共の宿の方が、それも女性の方がこのように一生懸命仕事に取り組んでおられる姿を見て、ちょっと意外な気がしたが、一方で非常に共感してこれからももっと頑張って欲しいと思った。
 この方のご主人もブログを作られていて、アドレスをお聞きしたので後日覗いてみると、ご主人は林業をされておられるようで、山の様子が写真入りでうまく記されていた。
 このホテルの風呂は温泉で、民宿に泊まった方もこのホテルまでわざわざ入りにきていたほど広くて気持のいい温泉だった。
 ここはとてもいいホテルですので、熊野古道を歩かれる方はぜひご利用してください♪

 大股橋を渡るとすぐに急坂になり、これを登っていく。集落を抜けたところに石仏郡がある。かなり古いようだが、説明もなく、また建立年月もわからなかった。
大股橋
 8時38分に「萱小屋跡」に着く。ここには江戸時代に茶屋があったということだ。
萱小屋跡
  ここから更に登って行き、その先で平坦な道になる。山の中の道だが、標識がしっかり立っているので、道に迷うことはない。
 9時28分に桧峠に着く。出発からほぼ1時間半が経過している。ここは弘法大師が捨てた箸を植えると桧の大木になったという話が残っているということだ。
桧峠
 ここで先に出発をされていた昨日のお二人に追いつき、先へ進む。この辺りにも雪が僅かだが残っている。
 「六字名号道標」が立っている。資料によると「南無阿弥陀仏」「かうやよ里 くま乃みち」と刻まれているようだが、よく読み取れなかった。ここで道は三本に分かれており、直進して伯母子峠の頂上を目指す。
六字名号道標
 10時10分に伯母子峠頂上に到着する。標高1314mの頂上から眺める360度に広がるパノラマは見ごたえがある。
伯母子峠頂上1伯母子峠頂上2

伯母子峠頂上3伯母子峠頂上4

 頂上にはその後二日間に渡って同じ宿になる同じ年齢の男性ともう一人若い男性、そしてご夫婦の5人が集い、景色を眺めながらしばし歓談する。ご夫婦は伯母子山に登ることが目的だったそうで、これから高野山まで引き返すという。ここから急坂を下っていくと山小屋がある。人によっては大股で泊まるのは近すぎるため、この山小屋で一夜を過ごし、次の日に十津川温泉まで行くという方もおられるようだ。時間計算をすると十分に可能だが、ただ、寝る前には風呂に入りたいし、布団で寝たいという私にはこのスケジュールは最初から想定外だ。
山小屋
 細い山道を下っていくと、途中の谷間にかなりの雪が残っている。これをみて少し前までは相当に雪が積もっていたのだろうと思った。
相当に雪
 ここから先、道は更に細くなり、人一人が辛うじて歩ける幅しかなくなる。更にその先では本道から外れて迂回路が出来ていて、本道を歩くことが出来ない場合はこの迂回路を歩くようにという看板が立っていた。見上げると迂回路はかなり高い崖の上を通ってその先で本道と合流していた。幸い今回は本道を歩くことが出来たが、右手の崖からは小石がパラパラと落ちてきていてちょっと気持が悪かった。がけ崩れで本道が通れなくなることがかなりの頻度であるのだろう。 このような細い道を法皇や上皇の輿を担いで歩くことはとても出来ないので、この道が参詣の道ではなくて生活道路だったということがよく理解できた。
 それにしても熊野古道の保守はここに限らずとてもきめ細やかに行われている。常にどなたかが点検、修復をされているのだろう。
細い道1細い道2

 旅籠「上西家跡」がある。ここには江戸初期から旅籠があり、昭和9年まで人が住んでいたということだ。
上西家跡
 そのすぐ先で道は二股に分かれており、左へ進む道は明治22年以降に使われていた道と資料にはなっているが、標識は右へ進むようになっていたので、標識に従って右へ古道を進む。
 その先で急坂を登り、更に急坂を下って進む。アップダウンが激しいが、この辺りも三田谷橋と伯母子峠までの距離が書かれた標識が立っているので、それに従って山の中の道を黙々と歩いていく。
三田谷橋
 「水ケ元茶屋跡」がある。ここには老女が一人で住んでいて、その姿や形は異様で頭髪は赤や白色が混じっていてたいそう乱れ、顔は青黒く大きなしわがあり、目は大きく光って歯は白く、その姿を見た人は恐怖を覚えたという。年を尋ねると六十歳ともいい、ある人には七十、八十とも答えたともいう。これらは作られた山姥の話だと説明されていた。弘法大師の坐像が安置された小祠がある。
水ケ元茶屋跡
 丁度昼になったので、ここで昼食にする。今日もホテルで作っていただいたおにぎりだ。
 ここから先も急坂を登ったり、下ったりを繰り返しながら、次第に下っていく。石畳の道になるが、この石畳はかなりの距離敷かれていた。これは大坂北浜の商人が父親の供養のために寄進したという。
石畳の道
 「待平屋敷跡」がある。後醍醐天皇の皇子、譲良親王は比叡山延暦寺の大塔に入ったことから大塔宮と呼ばれていたが、この地で家来の村上彦四郎を待ったので待平と呼ばれているという。平坦になっているが、ここには茶屋があったという説や寺があった、関所があったという諸説があるようではっきりしていないようだ。
待平屋敷跡
 三田谷橋まで0.9kmという標識が立っているところに「道標地蔵」が立っており、「右 ざい志よ道」「左 くまの道」と刻まれている。
右 ざい志
 この先九十九折の急坂を下っていく。この辺り、新緑が陽光に映えてきれいだった。
新緑が陽光
 13時52分に三田谷の登山口に着く。ここから三田谷橋を渡り、トンネルを抜けた先の右手に今日の宿農家民宿「政所」があった。14時3分に到着する。
政所
 このお宅は辻家といって、この地方では最も古い建物といわれ、棟札には享保10年(1725)と記されており、表門は薬医門形式で嘉永6年(1853)に修復されたとなっていて、主屋、表門、棟札が奈良県指定有形文化財になっている。平清盛の孫だった平維盛伝説によれば小松姓を名乗る維盛の子孫が平家の宝刀小烏丸を代々伝えてこの家に住んでいたといわれているが、明治になって没落し宝刀の行方も一家離散とともにわからなくなったという。小松家から玉置家へ渡り、現在の辻家は昭和36年からここに住んでおられるということだ。裏山に「維盛の墓」といわれる小祠があった。
維盛の墓
 このお宅は農家民宿として平成21年9月20日にスタートされたそうで、民宿としてはまだ日が浅いが、色々と心のこもったもてなしをしていただいた。夕食は全て地元でとれたもので、手作りのこんにゃくや八頭、これも手作りのハンバーグ、わさび菜等々で、缶ビールをサービスしていただいたりしておいしかった。オバサンと息子さんの二人暮らしだそうで、オバサンは七十代のようだったが、まだカクシャクとされていた。 伯母子山の山頂で会った同じ年の男性も後で到着して一緒に食事をした。食事中はオバサンと仕事から帰ってきた息子さんを交えて和気藹々。久しぶりに民宿らしい雰囲気を味わうことが出来た。

 本日の歩行時間   6時間8分。
 本日の歩数&距離 17527歩、14.7km。
 (歩数が異常に少ないが、これは山を登ったり下ったりする際に万歩計が正常にカウントしていないことによるもののようです。)

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