北陸道(鳥居本~福井)を歩く。

2011年06月14日(火) ~2011年06月17日(金)
総歩数:184791歩 総距離:128.8km

2011年06月14日(火)

鳥居本~米原~長浜~木ノ本~余呉 

                      曇

 滋賀県は東日本と西日本の中間に位置しているため、古来日本を代表する交通の要所だった。そうした中で、近江から北陸へ向かう道は琵琶湖の西岸を通る西近江路と東岸を通る東近江路があり、西近江路を北陸道と呼び、東近江路は北国街道と呼ばれていたようだが、今回は鳥居本宿の北端で中仙道と分岐する東近江路を歩き、以後福井県、石川県、富山県、新潟県へと続く道を北陸道と自分なりに呼ぶようにして、この道を歩いていくことにする。ちなみに滋賀県の歴史の道調査報告書にはこの道を北国街道として記されており、滋賀県内の沿道では北国街道という呼び名が多かった。滋賀県の先、福井県の歴史の道調査報告書にはこの道は北陸道となっている。
 鳥居本宿の北端、旧道が8号線に合流するところから出発するが、ここに「右 中仙道」と刻まれた昭和34年に建てられた道標が立っている。ここを7時丁度に出発する。
右 中仙道
 矢倉川に架かる橋を渡ったところがかっての中仙道と北陸道の分岐点で、ここに以前は道標が立っていたそうだが、今はなくなっている。そのすぐ先で右へ分岐する道があるが、ここが現在の中仙道との分岐点になっており、中仙道はここから摺針峠へ向かうのだ。かって中仙道を歩いた時、摺針峠で野生の猿の群れに出会ったことを懐かしく思い出す。この分岐点に「中仙道 明治天皇御聖跡 弘法大師縁の地 磨針峠望湖堂 是より東へ山道八百米」と刻まれた昭和52年の道標が立っている。
中仙道 明治天皇御聖跡
 8号線を進んでいくが、車の流れが多い。やがて8号線が右へカーブをするところから、更に右へ分岐する道があり、これを進む。その先で街道からはずれて梅ケ原の集落を右へ進むと左手に「六所神社」がある。ここは当初、伊勢両宮、住吉、熊野、三輪、鹿島、出雲の六大社から祭神を勧請して六所権現と称したという。この地は北陸道、中仙道の要衝にあたるため、彦根の守護神として井伊氏やその重臣で当地の領主だった庵原氏の厚い尊崇を受けた。現在の社地は元治元年(1864)井伊氏の助力で整備されたという。
六所神社
 その奥に「霊水禅寺」がある。ここは天平年間(729~749)に行基によって開基されたという伝承を持つ古寺の跡地で、現在の霊水禅寺は彦根藩士の庵原朝真らが旧寺地の一部を整備して堂宇を創建、朝真の子朝辰の時代の延宝7年(1679)に本堂が完成したという。天和3年(1683)の銘のある仏画や延宝年間(1673~1681)にできた大般若経六百巻など多くの寺宝を有しているという。
霊水禅寺
 「源隆寺」がある。ここは開基仏の裏書きによれば、元和3年(1617)に浄土真宗に転じたとなっており、江戸時代には彦根平田町の明照寺の道場だったという。
源隆寺
 街道に合流し、その先で街道は8号線に合流する。左手に米原駅が見えるところから再び右斜めへ分岐する道があり、これを進むとすぐ先の右手に米原祭に使われる「曳山 寿山」を格納する山倉が建っている。これは明治4年に長浜の曳山を多く建造した藤岡家の作という。
 このあたりから北陸道(北国街道)の第一の宿場である米原宿に入る。米原宿は街道の宿場としてだけでなく、中仙道と彦根城を結ぶ重要な湊として繁栄したところだ。
 街道を外れて右へ進むと「湯谷神社」がある。ここは大己貴神がこの地へやってきたときに、里人に地面を掘るように言い、里人がその場所を掘ったところ、温泉が湧き出したので、祠を建てたのが始りと伝えられている。中世より米原氏をはじめ在地豪族の尊崇を集めており、江戸時代には六所権現と称していたが、明治維新後現在の社名になったという。境内には明治天皇が北陸御巡幸の折、お休みになられた本陣北村源十郎の奥座敷が昭和6年の近江鉄道の開設に伴なって米原湊から移設されている。
湯谷神社本陣北村源十郎

 街道に戻って進むが、沿道には虫籠窓や連子格子の家が立っており、歴史を感じさせる。
虫籠窓
 米原宿の北端まで進むと、弘化3年(1846)の「北陸道、中仙道分岐点道標」が立っている。ここは北陸道と中仙道番場宿への連絡路(深坂道)が分岐しているところで道標には「右 中仙道 はん八 さめかゐ」「左 北陸道 なかはま きのもと」と刻まれている。
弘化3年
 ここで「左 北陸道」と刻まれているのを読みながら、ついうっかり右へ進んでしまった。何故間違ったのか自分でも分からない。まさについうっかりしてしまったとしか言いようがない。少し進んで行ったところに「深坂道」の案内板が立っているのを見て気がついて引き返し、左折して進む。その先で8号線に合流、右へ進み、米原高校入口のバス停のあるところから跨線橋を渡り、線路沿いに進んで新幹線の高架下を通って556号線に合流する。この辺りの街道は米原駅の拡張工事で失われているようなので効率よく(?)直線コースを進むことにした。556号線を進んでいくと、左手に「国宝 薬師如来」と刻まれた石柱が立っており、その前に「やくしみち」と刻まれた自然石が立っている。これは上多良にある薬師堂への道標だ。
国宝 薬師如来
 その先でまだ新しい「旧北国街道」の道標を見ながら進み、天野川に架かる天野橋を渡って556号線を進んでいくと、左手に「弘法大師」を祀る祠がある。地元では「弘法さん」と呼んでいるそうだ。
旧北国街道弘法さん

 宇賀野の信号の左手に享保18年(1733)の「坂田神明道」の道標が立っているので、それに従って街道からはずれて左折する。
坂田神明道 
 神明踏切でJRの線路を横断すると、左手に「坂田神明宮」がある。ここは式内社岡神社であったと伝えられ、かっては北陸道沿いに位置していたとされている。彦根城の鬼門に位置しているため、井伊家の庇護が厚く、戦国時代には荒廃していたが、享保18年(1733)に井伊直惟の命によって再建されたという。現在の社殿は明治24年に造営されたものだ。
坂田神明宮
 556号線に戻って進むが、ここは一直線の道だ。右手に「碇地蔵堂」がある。この辺りの街道沿いにはこのような地蔵堂が数多く祀られている。
碇地蔵堂
 琵琶田川に架かる琵琶田橋、土川に架かる土川橋を渡って進むと、長沢の集落に差し掛かる。近江町域の大半は彦根藩領だったが、長沢の集落は天領になっており、関所が置かれていたという。水路があるが、これは長沢城の内堀跡だという。
長沢城の内堀跡
 左手に「明治天皇聖跡」の石柱が立っており、ここから街道を外れて左折していくと、「福田寺」がある。ここは天武天皇の勅願により息長宿襺王が施主となって建立されたのが開基とされ、歴王2年(1339)に現在地に移設されたという。蓮如上人が三年間滞在して御自像を刻んだとされており、また明治天皇北陸巡幸時には「御小休行在所」とされ、その折に住職の夫人である鑈子(かねこ)が懇願されたのを機に、彦根城が廃城されることを免れたと伝えられている。
明治天皇聖跡福田寺

 街道に戻って556号線を進んでいくと長浜市田村町に入る。田村は鉄道開設以前からの宿場町だったという。左手に「田村神社」がある。ここは正治元年(1199)に後鳥羽上皇がこの地へおいでになられたとき、当地方に五社の神を勧請されたが、そのうちの一社だという。その後戦火で荒廃したが、寛政12年(1800)に現在の本殿が再建されたという。
田村神社
 右手少し入ったところに「多田幸寺」がある。ここは源満仲の三男という源賢法師によって開山されたと伝えられており、本尊の木造薬師如来坐像は国の重要文化財に指定されている。
多田幸寺
 右横に滋賀文教短期大学があり、その向こうに「大雲寺」がある。ここは元多田幸寺七寺の西方寺が開基とされ、宝暦11年(1761)に現在地に移転したという。境内には天明6年(1786)に再建新築された際の本堂の鬼瓦が置かれていた。
大雲寺本堂の鬼瓦

 街道に戻って進むと、右手林の中を入った所に「忍海神社」がある。ここは近隣五カ町の氏神で後鳥羽上皇が正治元年(1199)に五社の神を勧請されたときの一社といわれている。
忍海神社
 高橋町の信号から再び街道から外れて右折していくと、青樹会病院の横に寺田下坂屋敷跡と伝えられている場所がある。下坂氏は南北朝時代、足利氏側の武将として活躍をしたという。ここは現在病院の敷地内になっており、立ち入ることは出来なかった。
寺田下坂屋敷跡
 街道に戻って進み、大戌亥橋南の信号から左折、長浜新川に架かる猫戸橋を渡ってすぐ先を左折、川沿いに進み、地下道でJRの線路を横断して進むと弘長2年(1262)の創建と伝えられる「良畴寺」があり、境内には昭和12年に開基750年を記念して建立した国防弥陀如来(長浜びわこ大仏)が立っている。現在の大仏は昭和59年から10年余をかけて再建したものという。
長浜びわこ大仏
 左手に「天満宮」があり、ここに「犬塚」がある。創建は不明だが、以前は「目検枷」という名犬を祀る犬上明神と呼ばれていた。その後加賀藩主前田侯がこの地を通りかかった際、藩主の勧めで天満宮と名を改め、その横に犬塚を設けたという。犬塚の由来は昔、この地では毎年娘を一人、湖上の神に人神御供として差し出す風習があったが、ある時豪傑が湖上の神の正体は得体の知れない怪物だということを見破り、目検枷という犬とともに怪物と戦った。大乱闘の末、目検枷の歯痕を数多く残して怪物は退治されたが、犬も精根尽きて死んでしまったので、村人は犬塚を建てて霊を慰めたという。今でも目検枷の鋭い牙にあやかりたいと塚に触れた手で歯の痛むところに触れると痛みがとまるといわれているそうだ。幸い私の歯は今のところ大丈夫だが、念のため犬塚に触れた手で顔を撫でておいた。
犬塚
 直線の道を進んで行き、右手にある地下道でJRの線路を横断すると右手に「徳勝寺」がある。ここは応永年間(1394~1428)に創建され、寛文11年(1672)に井伊直惟によって現在地に移転されたが、浅井氏の菩提寺になっていて境内には久政公、亮政公、長政公三代の宝篋印塔が立っている。本堂は享保3年(1718)に建立されたものだ。
三代の宝篋印塔
 徳勝寺を出て左へ進み、JRの線路沿いに歩いていくと、長浜宿へと入って行く。ここは羽柴秀吉によって城下町として整備されたところで、虫籠窓や連子格子の家が立っていて、旧道の雰囲気が残っている。特に今年はNHKの大河ドラマでお江をやっているため、平日にも関わらず数多くの観光客が来ていた。
虫籠窓や連子格子
 右手に「真行寺」があるが、ここには蓮如によって授けられた本尊があり、その裏書に「江州坂田郡八幡庄今濱信楽寺、明應三甲寅六月二十八日」となっていることから、初めは信楽寺と号していたことが分かるという。その後、元和9年(1623)に真楽寺と改め、更にその後真行寺となったという。
真行寺
 左手に「馬通り」の石組みが再現されている。この地、下船町は米川水路を利用した船持ちや船大工が多く住んでいた。この馬通りは米川河口に着いた荷物を東側の船町まで馬車で運ぶための道で両側に石組みが築かれていて、その一部が再現されている。
馬通り
 長浜幼稚園があるが、ここが本陣の跡で長浜町年寄りの一人だった吉川三左衛門の屋敷跡だ。
 右手に「三百石朱印地」境界石柱がある。これは豊臣秀吉が天正19年(1591)の朱印状で定めた「三百石朱印地」の境界石柱だ。秀吉は長浜町に年貢免除の特権を与え、これを朱印地と呼んだ。慶安4年(1651)にこの朱印地を区別するため、この石柱が建立されたが、現在残っている石柱はこれを含めて5本しかないという。
三百石朱印地1
 左手に虫籠窓、連子格子の家、長浜十人衆三年寄の「安藤家」が立っている。
安藤家
 右手に「淨琳寺」がある。ここは元は浅井郡尊勝寺(現浅井町)にあり、蓮如に帰依して浄土真宗になった。天正元年(1572)の小谷城落城後に長浜へ移転したという。寛政10年(1798)に建てられた太鼓櫓があるが、ここで寺子屋を開き、子弟教育が行われたという。
淨琳寺
 道標が立っており、それには「左 たにくみ道」「右 北国みち」「左 京いせみち」と刻まれている。
左 たにくみ道
 「武者隠れ道」の案内板がある。それによると、この通りは四辻間が南北長さ六十五間九尺(120m)、各戸の家敷と隣の家敷の境界が不規則に出たり入ったりして戦いの時に身を隠したという。
武者隠れ道
 「うだつ」が上がった家がある。うだつとは建築用語で日本家屋の屋根の両端を一段と高く上げて小屋根をつけた土壁のことを意味しており、防火や装飾などの目的で造られ、金持ちの家に限られたことから、景気や威勢のいい例として「うだつ」が上がるといわれている。逆に「うだつ」が上がらないという言葉も良く耳にする言葉だ。
うだつ
 右手に伊勢大神宮を祀る郡上太神宮の「大神宮常夜燈」が建っている。明治11年に建立されたもので「為往来安全」と刻まれている。ここが長浜宿の北の玄関口に当たるところだ。また開国論に火花を散らし暗殺された金沢藩家老の仇討ちが明治4年にこの近くであり、これが最後の仇討ちになったと説明されている。熊野古道紀伊路を歩いた時、山中渓の先の境橋でも日本で許された最後の仇討ちという場所があったことを思い出したが、そちらは文久3年(1863)となっていたので、この場所のほうが新しいことになる。
大神宮常夜燈
 その先に「従是南西長濱領」の石柱が立っており、これも秀吉が定めた三百石朱印地境界石柱の一つだ。
従是南西長濱領
 そのまま街道を進んでいったが、うっかり大通寺を見過ごしていたことに気がつき、途中で引き返す。「大通寺」は米原方面から歩いてくると右手に願養寺があり、その先の下呉服町の説明が書かれた石柱が立っているところから街道を外れて右折する。ここは湖北一帯に居住する真宗門徒の中心となるお寺で、明暦3年(1657)に建立された本堂は国の重要文化財に指定されている。また広間附玄関は宝暦10年(1760)に建立されたもので、これも重要文化財に指定されている。
大通寺本堂広間附玄関

 「知善院」がある。ここは長浜城築城の際、城の鬼門に知善院を置いたといわれており、国の重要文化財である木造十一面観音坐像があり、桃山時代の建立である表門は市の指定文化財になっている。
知善院
 街道に戻って進むが、三ツ矢元町を進んでいく辺りで、どこかで左折するのだが、その場所が分からないまま直進し、251号線に突き当たってしまったので、ここを左折して地下道でJRの線路を横断し、祇園町の信号から右折して進む。ここにコンビニがあったので弁当を買って昼食にする。
 森町の信号で8号線を横断し、8号線に併行して右斜めに伸びている旧道を進んで行き、右手に六体の地蔵尊を安置する地蔵堂があり、左手に「北国街道」と刻まれた石碑があるところから街道を外れて左折する。
地蔵堂1北国街道1

 8号線の向こう側に「安楽寺」がある。ここは弘安2年(1279)に開基されたお寺で、足利尊氏の爪墓と伝えられる五輪塔があり、その横に釈迦如来石像、その前には寛延2年(1749)の法華塔が立っている。
足利尊氏の爪墓釈迦如来石像

 街道に戻って進むと、右手に「長善寺」がある。ここは毎年4月17日に京都の東本願寺を出発した蓮如の御真影が越前の吉崎御坊へ下向し、その帰路この長善寺で必ず一泊するという。
長善寺
 左手に「竹生島道」と刻まれた文久2年(1862)の道標が立っている。これは街道を北上してきた旅人を竹生島へ導くものだ。高さが3mを越えており、滋賀県内では最も背の高い道標だという。ここから左折して8号線に合流して姉川に架かる姉川大橋を渡り、更にその先で田川に架かる新田川橋を渡って進む。その先の信号で8号線は右へカーブするが、旧道はここから8号線と左へ分岐して直進する。
竹生島道」
 唐国集落に入るが、ここは山之内一豊の初領の地という案内板が立っている。天正元年(1573)越前の朝倉氏と織田信長が戦ったとき、豊臣秀吉の配下に属して敵将を討った功により唐国に400石を与えられたという。
高時川の手前左手に地蔵堂がある。数多くの地蔵尊が安置されているが、ここへ集めたような感じだ。
数多くの地蔵尊
 高時川に架かる馬渡橋を渡ったところに「左 竹生嶋本道」と刻まれた明治14年の道標とその横に地蔵堂が立っている。
左 竹生嶋本道
 この辺りの集落を馬渡(もうたり)と呼ぶが、それは昔、足利尊氏が実弟直義と戦った八相山の戦いで勝利し、次いで北陸へ向かおうとしてここまで来たが、高時川が増水して渡ることが出来なかった。これをみた観音寺村の庄屋赤堀藤八郎が村人を集めて川渡りを手伝い、無事尊氏一行を渡らせることができたので、尊氏はこれに感謝して「観音寺村」を「馬渡(うまわたり)村」と改めさせたという。その後訛って現在では(もうたり)と呼ぶようになったという。
 旧道は道標のすぐ後ろに伸びているが、直線で降りることができないので、迂回して道標の裏に出て進む。
 集落の中を進んで行き、その先で8号線に合流する。更にその先の小倉バス停から左斜めへ伸びる旧道に入って進み、その先で8号線に合流、更に高月南の信号で道は二股に分かれているので、これを右へ進む。このあたり「観音の里」と書かれた看板が目に付く。この辺りは戦火を免れた観音様が数多く残っていることに由来して観音の里と言っているようだ。
 高月の信号で8号線に合流して進むと、左手に「石作神社・玉作神社」がある。昔、この地には石作連、玉作連という技術集団が住んでおり、垂仁天皇の皇后日葉酢援命が崩御されたときに石棺を作って献上したという記録があるという。この神社は延喜式に記載されている式内社だが、度々の戦火で焼失、文明4年(1472)当地の地頭だった佐々木民部少将が両社を合祀したという。現在の社殿は延宝5年(1677)に再建されたものという。 境内に伊吹三郎が伊吹山から投げたという三郎の手の跡が残っている大岩がある。
石作神社・玉作神社伊吹三郎

 木之本中の信号で右折、西山踏切でJRの線路を横断して進むと、「右 京・いせ道」「左 江戸・なごや道」と刻まれた道標が立っている。ここが北陸道(北国街道)と北国脇往還の分岐点だ。この辺りも連子格子の家が目に付く。
右 京・いせ道
 街道はここから左折して進むが道幅は広い。左手に滋賀銀行があるが、これが木之本宿の問屋跡だ。現在は「きのもと交遊館」になっている。右手に「明楽寺」があるが、ここには蓮如上人の休息地の碑が立っている。
明楽寺
 左手に「富田八郎家」がある。ここは明治天皇の北陸巡幸の際、岩倉具視が宿泊をしたところだ。
富田八郎家
 右手に本陣薬局があるところが木之本宿の本陣があったところだ。
本陣薬局
 その先に「木ノ本地蔵尊」がある。昔からこの寺には、片方の目をなくした蛙が住むといわれ、その目は地蔵が目病の信者に譲ったと言い伝えられていることから眼病に霊験あらたかな時宗の寺として知られている。ここは奈良時代の祚蓮による創基、平安時代前期、空海による中興と伝えられているが、賤ヶ岳の合戦の時に焼失。豊臣秀頼が片桐且元に命じて再興したが、さらに江戸時代中期に火災によって再び焼失し、現在の建物はその後再建されたものという。
木ノ本地蔵尊
 今日の宿はこのすぐ近くにある草野旅館だ。とりあえず荷物を置きに行く。時間は16時半を少し過ぎたところなので、まだ暫く歩くことができる。ただここから先のアクセスが悪く、余呉駅より先へ進むと18時20分頃のバスが最終で、それ以降はアクセスがなくなってしまうので、バス停の場所等を宿の方から色々と教えていただく。宿の方は親切に教えてくれたので、それに従って再び街道を歩き始める。
 右手に元庄屋だった「上坂五郎右衛門家」がある。弘化4年(1847)の建設で当時の典型的な役人の屋敷という。
上坂五郎右衛門家
 右手に伝馬所跡の「山路清平家」がある。当時は柳瀬の関所(余呉町)を通過する人馬を検査した場所で、明治維新には数万人の武士が江戸から北陸へ向かったという記録が残っているという。
山路清平家
 「木ノ本牛馬市跡」の石柱が立っている。ここは牛馬市があったところで、各家が宿となって裏庭や空き地に小屋を建て、夫々に30~50頭の馬を繋いで売買をしたという。起源は室町時代といわれているが、安永年間(1772~1781)に市場の形態が整えられたという。
木ノ本牛馬市跡
 このように宿場の雰囲気が色濃く残っている木の本宿を過ぎて黒田の集落へ入ると左手に「一里塚跡」の松の木が立っている。旅人はこの南隣にあった茶屋伝八に立ち寄ったという。
一里塚跡」
 やがて家並みが途絶えてくると左手に賤ガ岳が見えてくる。天正11年(1583)羽柴秀吉と柴田勝家が織田信長の跡目争いで戦ったことで有名なところだ。
 右手に「意波閉神社」がある。ここは式内社で街道を通る旅人は必ず参拝をしたという。
意波閉神社
 街道はここから365号線から分岐して右斜めへ進むが、その先で再び365号線に合流する。
 下余呉の信号から左へカーブする365号線から再び右へ分岐して直進すると右手に「蓮如上人御休息所」の石碑が立っている。
蓮如上人御休息所」の石碑
 右手に「郷界一里塚跡」の碑が立っている。ここが下余呉と中之郷の境界になっていたところだという。
郷界一里塚跡
 中之郷集落に入ると右手に「鉛錬比古神社」がある。社殿は新しいが、式内社だ。
鉛錬比古神社
 その先で284号線に突き当たるので、これを左折、すぐ先を右折して進む。
左手に「明三寺」がある。ここに「明治天皇中之郷御小休所」の碑が立っている。
明三寺
 バス停は365号線にあるので、時間とバス停の場所を注意しながら進んできたが、18時5分に東野バス停に到着する。バスの時間までまだ少し時間があったので、もう一つ先の旧片岡小学校のバス停まで365号線を歩いていき、明日見る予定だった「毛受兄弟の墓」のほうへ行きかけたが、さすがに時間がなかったので、途中で引き返して、旧片岡小学校のバス停から18時23分のバスに乗って余呉駅まで行き、ここからJRで木ノ本駅まで引き返す。

 本日の歩行時間   11時間23分。
 本日の歩数&距離  65050歩、45.4km。

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん