北陸道(鳥居本~福井)を歩く。

2011年06月14日(火) ~2011年06月17日(金)
総歩数:184791歩 総距離:128.8km

2011年06月16日(木)

南条~武生~鯖江~浅水 

                       曇

 7時31分に南条駅に着き歩き始める。街道は駅のすぐ前を通っているので道なりに進んでいくと、右手に「羽太神社」がある。ここは創建は不詳だが、社伝には延暦2年(783)に十禅師大明神、平安前期には大戸道尊を祀ったとされているといい、その後、木曾義仲や朝倉敏景が特に尊崇したという。社殿は平成22年に改築したばかりということでまだ新しい。
羽太神社
 その先に突き当たりがあるのでこれを左折、すぐ先を右折、小川に沿って進んだが、また突き当たりになったので、これを左折すると、先ほど右折したところから曲がらずに左へ伸びている道と合流、そこに「題目石」が立っている。
そこに「題目石」
ご近所の方にお聞きすると合流した道が旧道だった。結局最初にあった突き当たりを左折、すぐ先で右折する道を曲がらずにそのまま進む道が旧道だった。この旧道を進んでいくと、先ほどあった「題目石」が左手にあることになる。このあたり目印となるものがなにもないので分かり難い。
 左手に「妙泰寺」の社標が立っている。妙泰寺は永仁2年(1294)日像菩薩開基の寺で、北国身延と称して北陸屈指の名刹という。
妙泰寺」の社標
 小川に沿って進むがこの辺りも題目石が数多く立っている。
題目石1題目石2

 清水川に架かる脇本橋を渡って進み、変則十字路に来るので、ここを直進してしまったが、これも間違いで、ここは左折して進まなければいけなかったのだ。その先で地図をみると右手に寺尾製材所がなければいけないのに、左手にこれをみることになって初めて気がついた。このあたりも目印がなくて分かり難い。ここから引き返して、先ほどの変則十字路まで戻って歩き直すことにした。
 変則十字路を左折するとすぐ先左手に「明治天皇脇本御小休所」の石碑が立っている。ここが脇本宿の本陣だった中山家だ。
中山家だ。
 右手に明治21年の「題目石」が立っている。このあたりから田んぼが広がっているが、もう田植えは終わっている。
題目石3
 左手に「八幡宮道 是三丁」と刻まれた弘化2年(1845)の大塩八幡宮への道標が立っている。
大塩八幡宮への道標
 「交通史跡 往還一里塚跡」の碑が立っている。これは国兼一里塚跡と呼ばれ、南条町と今宿町の境にある一里塚だ。
交通史跡 往還一里塚跡
 左手に「地蔵堂」がある。田んぼの中にポツンと立っているが、この辺りは昔は相当に寂しく不気味なところだったという。
左手に「地蔵堂」
 左手に「日吉神社」と「妙勧寺」が並んで立っている。妙勧寺の門前には「順徳天皇御霊代御駐輦所」の石柱が立っており、山門の横に「願満祖師」と刻まれた石碑、境内には文政2年(1819)の題目石が立っている。
日吉神社」と「妙勧寺
 その先で365号線に合流するが、すぐ先で再び左へ分岐する。
 左手に明治9年の道標が立っており、「敦賀 西東 従是西 河野浦至 敦賀港」「敦賀 南東 大坂」等と刻まれている。
明治9年の道標
 すぐ先で365号線に合流し、春日野川に架かる行松橋を渡って進むと、右手に安永元年(1772)の「題目石」が立っている。
安永元年
 その先で街道である365号線から外れて左折して進むと、左手に「専林寺」がある。ここは延喜元年(901)恵貞が創建したもので、元禄4年(1691)に現在地に移転、明治12年の火災で伽藍が全焼したため、再建されたという。
専林寺
 そのすぐ横に「神明神社」があり、更にその横左手に「私庵 準提寺」という小さな庵があり、その横に地蔵堂が3つ並んでいて、その中の一つには文政6年(1823)と刻まれた地蔵尊が安置されていた。
私庵 準提寺
 「月見地蔵堂」がある。ここには慶長2年(1597)の地蔵尊が祀られている。この地方を訪れた徳本上人がたまたま7月25日に地蔵堂で仮寝をした際、夜明けの東天に月が三つに割れて出現する三光天子を目撃したことからこの堂宇を月見地蔵堂と呼ぶようになったという。
月見地蔵堂
 その横に「徳本上人」の名号碑が立っている。徳本上人は文化12年(1815)に越前の国を巡錫したといわれ、これはその徳を慕った村人達によって建てられたものの一つといわれている。すぐ横に「十府神社」の社標が立っている。
徳本上人」の名号碑
 街道である365号線に戻るが、すぐ先で365号線から分岐して左へ進む。この分岐するところ右手に「天満宮」の小さな祠が立っている。
天満宮」の小さな祠
 その先右手に小さな地蔵堂があり、その横に「往還一里塚」の説明板が立っている。ここが松森一里塚跡だ。
松森一里塚跡
 365号線のガード下を通って進み、十字路を過ぎた先で道は二股に分かれているので、これを左へ進むと、松が一本立っている。街道松の名残なのだろうか?
街道松の名残
 跨線橋でJRの線路を越えて進むと365号線に合流、ここの信号で道は二股に分かれているので、左の道を進む。 左手に天保15年(1844)の大きな「題目石」が立っている。これは天保年間の大飢餓による死者の供養を目的として建立されたもので、文字が深く彫られているので、一俵(60kg)の米粒が入るといわれている。
天保15年
 右手に「月光寺」がある。ここは永正年間(1504~1521)に銅仏庵と言う名前で創立されたといわれているが、その後焼失。弘化4年(1847)に天明・天保の大飢饉で3000人を越すといわれる亡くなった人々を供養するために再建されたという。本尊は像高が4.8mもある阿弥陀仏像で以前は露仏だったが、明治3年に大仏殿が建てられ、その際月光寺と改称されたという。
月光寺
 右手に「神名神社(上総社)」がある。ここは中世以前、霊峰日野山の遥拝所で伏し拝みと呼ばれていたところで、継体天皇が即位のため味真野から都へ向かわれたとき、駕籠を止めて越前国中の神々を拝された宮跡と伝えられている。それ以降、人々が旅に出る時は必ずこの地で道中の安全を日野山に祈願したという。その後戦乱によって荒れ果てていたが、寛文年間(1661~1673)に府中領主本多昌長によって再建され、伏し拝み神社として信仰を集めていた。明治36の大火で総社が類焼したので、御神体をここへ移していたことから上総社と呼ばれていたが、明治41年に三ツ口の神明神社を合祀、以後神明神社と改称したという。
神明神社
 左手に「窓安寺」があり、「大聖不動明王泰澄大師御自作」と刻まれた石柱が立っている。ここは養老年間(717~724)に泰澄大師によって開基されたが、その後戦火で焼失、天文2年(1533)にこの地に再建されたという。ここには不動堂に秘仏の泰澄大師作と伝えられる胎内仏の不動明王が祀られており、境内には越前市指定文化財の永禄3年(1560)に建立された地蔵菩薩像や不動明王像がある。
窓安寺永禄3年

 右手に「福願寺」がある。ここは永正12年(1515)に蓮如上人に深く帰依して、直弟子となった誓順法師によって開基した寺で、蓮如上人直筆の名号二幅と寺号を附与されたという。
福願寺
 右手に「北野神社」がある。天暦7年(953)に創建され、天保年間(1830~1844)に現在地に建立されたという。南朝後村上天皇の元東宮尊観法親王の作と伝えられる、越前市の文化財に指定されている天神坐像が安置されている。この辺りのお寺はどこも屋根が高い。雪対策の一環なのだろう。
北野神社
 このあたりにも虫籠窓、連子格子の家が建っている。
 左手少し入ったところに「龍門寺」がある。ここは永仁・正安(1293~1301)に禅僧悦崇禅によって創建された。天正元年(1573)織田信長の朝倉攻略の際、この寺に本陣を置き、また天正3年(1575)、信長は一向一揆を討つために再び越前に進攻し、ここに城を築いて龍門寺城として戦いの指揮をしたという。また天正11年(1583)賤ケ岳の戦いで破れた柴田勝家を前田利家がこの城で迎えたという。
龍門寺
 この横に「陽願寺」があるが、ここは文明15年(1483)に蓮如の高弟善鎮によって創建され、戦国時代に現在地に移転した。現在の本堂は安政3年(1856)に再建されたもので、山門は明治6年に本保陣屋の門を移設したものという。
陽願寺
 更に「蓮尚寺」がある。ここは応永年間(1394~1427)に創建されたもので、天正年間(1573~1585)に現在地に再興されたものだ。火災で焼失したため、現在の本堂は明治12年に建立された。墓地には本多家二代昌長公正室、三代長員公正室とその子長三郎の五輪塔が立っている。
蓮尚寺
 この辺りには他にも数多くの寺社が軒を並べているが、先へ進むことにする。蓬莱の信号のところが札の辻で高札場のあったところで、大正5年の道標が右手向かい側に立っている。
大正5年の道標
 この四辻は直角になっておらず、少しずれた形になっているが、これは戦略上南北の見通しが利かないようにしていたという。
 ここから左折、すぐ次の角を右折して進むと、左手に「総社大神宮」がある。大化の改新の結果、越前にも国府がおかれたが、国司は国内各地の神社に巡拝することを求められたので、国内各社の神々を勧請して総社を建立し、総社に詣でることによって各社の巡拝に替えたという。その結果、総社は越前一ノ宮及び二ノ宮と共に越前における代表的な社となっている。
総社大神宮
 右手に「本興寺」がある。ここは法華宗真門流三本山の一つで、境内地は八町四方あったと伝えられていることから、越前国府の国庁があった場所ではないかという説があるという。
本興寺
 福井鉄道福武線の北府駅の手前の2号線の交差点の手前で道は二股に分かれているので、これを右折、すぐ先で左へカーブして2号線を横断、西武生第二踏切で福井鉄道を横断して進む。
 右手に加藤家という長屋門の立派な屋敷がある。
加藤家
 右手に天保飢饉の餓死者供養のため、府中の法華門中十一カ寺が建てたという天保6年(1835)の「題目石」が立っている。これまで色々な街道を歩いてきてわかることなのだが、このように天保飢饉の餓死者供養塔が全国各地に建てられている。いかにひどい飢饉だったのかが良く分かる。
天保6年(1835
 右手は信越化学工業の広大な工場が広がっている。その先、右手に「柳原舟だまり」がある。府中から流れる御清水川(尼寺川)は柳原を通って日野川に注いでおり、ここには小舟専用の舟だまりがあったという。柳原は陸路と水路の要路だったため、茶屋や料亭が軒を並べて賑わっていたという。このすぐ横に「柳原一里塚跡」があり、「交通史跡 柳原一里塚」と刻まれた石碑が立っている。
柳原一里塚
 左手に「光澤寺」があるが、ここは現在も蓮如上人絵像吉崎下向の時はここで小休、蕎麦を供える習わしがあるという。
光澤寺
 左手に天保12年(1841)の「題目石」が立っている。
天保12年(1841
 その先左手に「長谷川先生碑」が立っており、その横に明治34年に建立された「題目石」が立っている。長谷川先生とは天保13年(1842)にこの地で生まれた長谷川周一先生のことで、明治3年に医師免許を取得、学校の助手、寄宿長を勤めたが、明治5年に30歳の若さで亡くなったという。先生によって助けられた人々がその遺徳を偲んでこの碑を建てたという。
長谷川先生碑
 その先で日野川に突き当たるのでこの堤防に沿って進み、白鬼女橋で日野川を渡る。ここは街道が日野川を渡る唯一の場所で、三国湊と府中を結ぶ舟運の終点として栄えた場所だったという。「白鬼女」の由来は継体天皇が西暦500年ごろに福井の三大川を改修したころ、日野川の中下流部を白鬼女川と呼んだことに起因しているというが、恐ろしい鬼女がでたという、妖女の伝説から名づけられたという説もあるという。
 橋を渡って二つ目の信号を左折して進むと、左手に西正寺、その先に「妙正寺」がある。妙正寺の門前には享保18年(1733)の題目石が立っている。
享保18年
 右手に「萬慶寺」がある。享保6年(1721)に初代鯖江藩主間部詮言が越後村上から移封されたことに伴なって、西家中(現在の桜町付近)に万松庵を再興、その後享保10年(1725)に二代藩主間部詮方が現在地に移転し、現寺号に改めたという。山門は鯖江では珍しい二階建てになっており、嘉永2年(1849)建立の棟札墨書が発見されたという。ここは間部家の菩提寺になっている。
萬慶寺
 左手に「鯖江藩陣屋跡」がある。享保5年(1720)に間部詮言が移封されてきて鯖江藩が成立、翌年から移転が始まったが、当時は人口わずか200人ほどの寒村だったという。その後城下町建築が始まり、一連の事業が終わったのは享保13年(1728)だったという。ここには今から1200年前からあるという「願かけ地蔵」が祀られている。
願かけ地蔵
 その先左手に「西福寺」があるが、ここの本堂は元禄5年(1689)に建立された市内最古の建造物だという。
西福寺
 その横に「誠照寺」がある。ここは承元2年(1208)波多野景行の屋敷で親鸞が最初に法を説いたのが始りといい、永享年間(1429~1441)に現在の寺号になったという。四足門は文正元年(1466)後土御門天皇によって建立されたが、天正11年(1583)柴田勝家の北ノ庄落城に伴なって焼失、安永8年(1779)に再建されたという。本柱の左右にある「駆け出しの龍」が左甚五郎の作といわれている。
誠照寺駆け出しの龍

 左手に「歯塚大権現」があるが、これは天正2年(1574)の一向一揆の際に焼失した長泉寺の経典を埋めた塚といわれ、昔から歯の痛む者が箸を持って祈願すると痛みが癒えるといわれている。その横に一向一揆との戦いで戦死した富田長繁の霊を慰める供養塔が立っている。
歯塚大権現
 189号線を進んでいくと、道は二股に分かれており、その角に「蓮如上人御父存如上人御はか所 是ヨリ左西へ五丁」と刻まれた明治31年の道標が立っており、その先に「縣社 神名社」の社標が立っている。
縣社 神名社
 ここを右へ進んでいくと、左手に「神名社」がある。ここに「神符納龕」がある。この納龕(ノウガン)は文禄2年(1593)に建立されたもので、もとは廻国納経の際に経を納める容器として使用していたが、後に神符(お札、お守り)を納めるようになったという。また「中雀門」は貞享5年(1688)に建立されたものとという。
神符納龕中雀門

 左手に「八幡神社」があるが、ここには国指定史跡の「兜山古墳」がある。この古墳は5世紀後半、古墳時代中期のものとみられており、県下はもとより北陸地方でも最大級のものという。
兜山古墳
 右手に「妙法寺」があり、ここには元文4年(1739)や文化12年(1815)の題目石が並んでいる。
化12年(1815)の題目石
 妙法寺の道の前に元禄16年(1703)の「題目石」が立っている。
元禄16年
 鳥羽中の踏切で福井鉄道の踏切を横断して進むと、左手に「三日月地蔵」坐像が安置されている。これは加州小松、濃州、奥州、越中などの六部が嘉永3年(1850)に建立したという。
三日月地蔵
 浅水川に架かる鳥羽橋を渡って進むと、左手に「万法寺」がある。ここは養老3年(719)に泰澄大師が創建したといい、寛永11年(1642)に現在地に移転したという。本堂は鉄筋コンクリート製だが表門は越前赤瓦葺だ。
万法寺
 この辺り特有の造りの家を数多く見かける。これは越前地方を中心に加賀南部でも良くみられる妻壁の仕様で、農家に良く見られることから「越前農家型」と呼ばれており、束(柱)と貫(梁)をあえて見せる造りになっている。
越前農家型
 229号線を横断して進むと鯖江市から福井市へ入る。左手に「泰澄寺」がある。ここは「越の大徳」といわれた泰澄大師の生誕地といわれている。ここの梵鐘は製造年は不詳ということだが、織田軍との戦いの際、浅水川へ投げ捨てられたが、その後信者によって引き上げられたという。
泰澄寺
 この辺り、村社としての八幡神社を数多く見かける。左手に「明治天皇浅水御小休所」の碑が立っている。ここは浅水宿の問屋を務めた池田家だ。
明治天皇浅水御小休所
 あさむつ川に架かるあさむつ橋を渡る。ここは清少納言の枕草子に「橋はあさむつ橋」と書かれ、藤原定家や松尾芭蕉にも詠まれた名所だった。近世はこの橋を境に北の浅水、南の浅水二日町に分かれ、橋北詰の陣屋跡と南詰の人馬継ぎ立てを行う問屋を中心に発達した宿場だったという。 橋を渡って左へ進み、すぐ先で右へ曲がる、その角に「本陣跡」の石碑が立っている。ここに浅水宿の本陣だった鈴木家があったのだ。

 浅水本陣跡ここで時間は15時8分になっている。今日はここから福井駅まで出て金沢へ向かい、学生時代の友人と会うことになっているので、ここで今日の歩きは終わって浅水駅へ向かう。 

 本日の歩行時間   7時間37分。
 本日の歩数&距離  41630歩、27.4lm。

 この夜は金沢の友人と千葉の松戸から来た同じクラブの友人と3人で楽しい酒を飲み交わし、宴が終わったのは日付が変わった後だった。金沢在住のI君にはすっかり御世話になったが、学生時代に同じ釜の飯を食べ、共に汗を流した仲間はいいものだ。

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん