北陸道(鳥居本~福井)を歩く。

2011年06月14日(火) ~2011年06月17日(金)
総歩数:184791歩 総距離:128.8km

2011年06月17日(金)

浅水~九十九橋

                      晴れ

 金沢の楽しい一夜を終えて浅水駅まで戻り、10時18分に到着して歩き始める。本陣跡の石碑が立っているところから右折して進むと、右手に元和元年(1615)に現在地に移転してきたという「東稱名寺」があり、その横に「日吉神社」がある。ここには貞享元年(1684)に松岡藩主(後の福井藩主)だった松平昌勝が眼病平癒祈願のために参籠したという。
名東稱寺日吉神社

 その先右手には「善良寺」があるが、ここは福井藩初代藩主結城秀康に随従してきた佐々木某という家臣が秀康の没後、この地に庵を結んだのが最初だという。
善良寺 
 その先で道は三叉路になっているので、左側の道を直進、朝六ツ川沿いに進んでいく。左手に天保14年(1843)と刻まれた地蔵尊を含む「六地蔵」がある。
「六地蔵」
 右手に「北陸道」と刻まれたまだ新しい石碑が立っており、その先右手の駐車場に「荒井一里塚跡」の石碑が立っている。福井市域では最も南の一里塚で、江戸から132里のところということだ。
北陸道」荒井一里塚跡

 左手に「八幡松原」の説明板が立っている。また道を挟んだ反対側に「橘曙覧有縁の所」の石碑が立っている。その先右手に「八幡神社」があるが、この神社に福井藩四代藩主松平光通が松杉を100本寄進したといわれ、一帯は八幡松原と呼ばれたという。この地は参勤交代の見送り、出迎えの地とされ、上茶屋、大茶屋、中茶屋の三軒の茶屋があったという。大茶屋では文久元年(1861)に橘曙覧が長男今滋と幸山長遠を同伴して伊勢参宮の折、見送りの弟宣と野村恒見とともに歌を詠んだという。
八幡松原「八幡神社」

 左手に「日吉神社」がある。境内には明和年中(1764~1772)に福井藩主松平重富の脳病を癒した霊水と知られた三日月池がある。
「日吉神社」三日月池

 江端川に架かる玉江橋を渡って進むと左手に「正善寺」がある。ここは天正5年(1577)に創建されたものだが、その後何度も戦火、火災、震災によって焼失し、昭和52年に現在地に本堂が再建されたという。
正善寺」
 右手にショッピングモールがあり、その端から右折、すぐ先を左折して進む。狐川に架かる玉江橋は歌や句に詠まれた玉江の跡といわれており、それにちなんで親鸞が承元元年(1207)に越後へ流されるときにこの地を通ったことが記されている「親鸞聖人御遺跡跡」碑と芭蕉が奥の細道の旅でここを通過した時に詠んだ「月見せよ 玉江の芦を 刈らぬ先」の句が刻まれている「玉江跡」碑の二つが並んで立っている。
玉江跡
 その先で229号線に合流する直前で左へ進むと、左手に「宝蔵寺」がある。ここには鎌倉時代、今から約800年前の作といわれ、寛政2年(1790)に現在地に祀られたという「寝釈迦尊像」と、同時期に建立され、明治33年にこの地に祀られたという「見返阿弥陀尊像」の二体が安置されている。
宝蔵寺
 その先で229号線に合流すると、左手に「専照寺」がある。ここは越前三門徒派の本山の一つで享保9年(1724)に現在地に移転をしており、御影堂は天保8年(1837)の火災で焼失した後に再建されたもので、福井市指定文化財になっている。
専照寺
 右手に「木田荒町一里塚跡」の碑が立っており、その奥に幕末に町奉行になって仁政を施した福井藩士鈴木主税を祀っている「世直神社」がある。
木田荒町一里塚跡
 新木田の信号で福井鉄道の電車道に合流、すぐ先の信号で左折するが、右手に「長慶寺」がある。ここの境内には織田信長、豊臣秀吉に仕えた武将で、天正13年(1585)に越前北庄城主となった堀秀政の墓がある。
堀秀政の墓 
 左手に「木田神社」がある。ここは貞観13年(871)に尾張国津島神社から勧請されたもので、その後焼失したが、享保12年(1727)に再建されたという。
木田神社
 177号線に突き当たるので、これを右折して進むと、左手に「藤島神社」がある。ここは南朝方の忠臣だった新田義貞を祭る神社で、明治34年に現在地に移されたという。
藤島神社
 ここから山を下っていくと、途中に火除けの神という白山神社があり、更に下っていくと「毛谷黒龍神社」がある。ここは慶長12年(1607)徳川秀康が死去したため、その菩提寺として幕府の命によって建立されたという。元禄3年(1690)の鳥居が立っている。
毛谷黒龍神社
 街道から左へ分岐したところに「運正寺」がある。ここは福井藩主結城秀康の菩提寺として慶長12年(1607)に建立されたものである。
運正寺
 そのすぐ近くに「安養寺」がある。ここは文明5年(1473)に朝倉敏景が一乗谷に建立し、足利義昭将軍の御所となった。その後柴田勝家によってこの地に再建されたという。
安養寺
 ここから「足羽神社」へ愛宕坂を登っていくが、その入口に「橘曙覧生誕地」「橘曙覧生家の跡」の説明板が立っている。それによると橘曙覧は文化9年(1812)にこの地で生まれ、34歳のとき家業を弟に譲り、国学と歌道に専念したという。坂を登っていく途中に「三女健子」の墓や橘曙覧が天保10年(1839)から9年間住んでいたという黄金舎跡、更に寛永6年(1629)に開基したという「虚空蔵寺」がある。
三女健子虚空蔵寺

 「足羽神社」は五世紀後半ごろ、男大迹王(後の継体天皇)が越前で過ごしている時に越前平野の大治水事業を行ったが、まず最初に朝廷に祀られている大宮地之霊(坐摩神)を足羽山に勧請し、諸事の安全を祈願したのが足羽神社の起源とされている。第26代天皇として即位し越前を出発する時に、「末永くこの国の守り神とならん」と、自らの生御霊(いきみたま)を鎮めて旅立たれたので、それから継体天皇が主祭神として本殿中央に祀られている。
足羽神社
 街道に戻って進んでいき、久保町の信号を右へ進むが、その角に「橘曙覧生家の跡」の石碑が立っている。
 足羽川に架かる九十九橋を渡ったところで、当初考えていた工程を全て歩き終えたので、13時15分、今回はここで終わることとする。

 本日の歩行時間   2時間57分。
 本日の歩数&距離 17467歩、10.2km。


北陸道ーその1合計
 総歩行時間  32時間30分。
 総歩数    184791歩。
 総歩行距離  128.8km。
 北陸道純距離 103.7km。(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離)

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