北陸道(鳥居本~福井)を歩く。

2011年06月14日(火) ~2011年06月17日(金)
総歩数:184791歩 総距離:128.8km

2011年06月15日(水)

余呉~椿坂~栃ノ木峠~板取宿~今庄~湯尾峠~南条 

                       曇

 木ノ本駅前から7時22分のバスで出発し、7時55分に東野に着き、街道に合流して歩き始める。バスの中では運転手さんと話をし、街道に関して色々と教えていただく。
 この辺りには賤ガ岳の合戦戦死者の首塚の石碑が街道沿いに立っていたそうだが、現在では共同墓地に移転されているという。東野は合戦の際、羽柴軍の最前線となった場所だ。
 右手に「式内佐味神社」と「明源寺」が並んで立っており、この辺りに柴田勝家が最後の陣を置いたという狐塚があるはずだと思って探したがわからなかったので、お寺の奥さんにもお聞きしたが分からないということだった。
 その先で街道から外れて左折して進むと林谷山の麓に「毛受兄弟之墓」がある。毛受兄弟は賤ガ岳の合戦で諸将敗戦後、この地で約300名の同志を率いて敗走する勝家の身替りになって討ち死にしたという。
毛受兄弟之墓
 街道に戻って山間の道を進んでいき、北陸自動車道のガード下を通って小谷集落へ入る。その先で再び北陸自動車道の下を通って365号線に合流するが、すぐ先で365号線から左へ分岐して旧道に入る。
 柳ケ瀬集落の中の左手に鈴木家がある。ここにも「明治天皇柳ケ瀬行在所」の碑が立っている。ここは本陣の役割をしており、街道に接している立派な長屋門は元関所役人柳ケ瀬家の住宅にあったものを、明治天皇の行在所に決定したときに移設したと伝えられているそうだ。
明治天皇柳ケ瀬行在所
 右手に「柳ケ瀬関所跡」の碑が立っている。この関所は幕末まで存続されていて、常時番人六人が昼夜二人ずつ交代で勤務していたという。
柳ケ瀬関所跡
 柳ケ瀬集落の北端に倉坂峠へ向かう道が分岐しており、ここに明治16年に建立された道標が残っている。この道を行くと倉坂峠を経て敦賀へ至るという。倉坂峠の北側には柴田勝家が本陣とした玄蕃尾城跡があって、現在でも堀や土塁等が残っているということだ。
明治16年に建立
 この分岐点を右へ進んで365号線に合流する。この辺りは集落もなく、両側に山が迫ってきている。豪雪地帯ということで、道の両側に北海道で見たことがある道路幅を示す矢印が立っている。
道路幅を示す矢印
 暫く365号線を進んで行き、140号線と分岐する手前から右折して北陸自動車道の高架下を通る。高架下は二本あって、最初の高架下を通ろうとしたところで軽トラックとすれ違った。トラックを運転している方が「どこへ行くのか」と問いかけてきたので、街道を歩いているというと、すぐ先から旧道は左へ分岐しているので、そちらを進むように言われて、わざわざ案内をしていただいた。旧道は二本目の高架下を通る手前から左へ分岐していて、最近はあまり人が通らないようで、舗装はされているものの、草が生えてかなり荒れた道になっていた。これは教えていただかなければ、そのまま二本目の高架下を通って直進してしまっていただろうと思う。ここで道を間違う方が多いのでその方がわざわざ教えてくれたのだと思って感謝する。 川沿いの道を進んで行き、高平橋を渡って進む。
二本目の高架下
 右手に「五輪塔」が立っており、このあたりから道幅は広くなって歩きやすくなってくる。365号線に一旦合流するが、その先で再び左へ分岐して進むと椿坂集落へ入って行く。椿坂は柳ケ瀬に設置されていた関所がもとあったところで、元和3年(1617)の関所の移転に伴なって、関所役人も柳ケ瀬へ移住、椿井姓を柳ケ瀬姓に改めたという。
 右手、巨木の下に石仏が集められている。
巨木の下に石仏
 右手に「八幡神社」があり、この辺りの鎮守様として祀られている。
八幡神社
 山間の静かな集落の中を進んでいくと、右手に「椿神社跡」の石碑が建っている。ご近所の方にお聞きしたが、だれもその由来をご存知なく、随分昔に神社があったようだということしか分からなかった。
椿神社跡
 集落を抜けると山の中を通る365号線を黙々と歩く。みるべきものもなく、とにかく単調だ。中河内集落の入口で365号線から分岐して左へ進むと左手に巨木に囲まれた「廣峰神社」がある。この神社の祭礼である野神祭りの際に三年に一度奉納される太鼓踊りは県の無形文化財になっている。
廣峰神社
 中河内バス停が365号線にあり、その向こう側に「本陣跡」の石碑が立っている。
本陣跡」の石碑
丁度昼近くになったので、このバス停で昼食にする。昼食は宿で作っていただいたお弁当だ。ここで持ってきた水を全て飲み尽くしてしまった。集落の中のどこかに自販機があるだろうと思っていたのだが、どこにもない。これは困った。これからかなりの距離、人家のない山の中の道を通らなければいけないので、なんとか水を調達しなければ、と思って歩いていると、玄関が開いた一軒の家があったので、そちらにお伺いをして、水をいただけないかお願いをした。街道を歩いているというと、水分を取らなければ熱中症になるから気をつけなきゃと言って気持ちよくミネラルウォーターを分けてくれた。自販機がないという話をすると、この少し先にあるといわれたので、進んでみると確かにあった。この集落ではこの自販機が唯一の自販機のようだった。この中河内集落が滋賀県最北の集落で、近江最後の宿場だ。冬には2~3mは雪が積もるという豪雪地帯ということだが、南国育ちの私には想像もつかない生活なのだろう。 
 ここから再び365号線を歩く。もう人家は全くない山の中の道だ。
 やがて標高537mの「栃ノ木峠」にくる。ここが滋賀県と福井県の県境だ。ここは越前北ノ庄の領主となった柴田勝家によって南方への軍の移動、物資輸送の便を図るために道の拡幅が行われたということだ。峠に栃ノ木が群生していたことからこの名前がついたといい、現在でも樹齢約500年といわれる栃ノ木が立っている。周囲には豪雪地帯らしくスキー場があり、またこの地は淀川の源という案内板が立っている。
栃ノ木峠
 ここから福井へ向かって下り始めるが、深い山の中の道で、現在でこそこのように舗装された道だが、昔は大変な難路だったのだろうと思う。古来、越前への道は山中峠を越える古道(万葉道)と木ノ芽峠を越える北陸道(西近江道)だけだったが、柴田勝家が北ノ庄に封じられ、信長の居城安土城に赴く最短路として天正6年(1578)栃ノ木峠の大改修を行って以来、人馬の往来が頻繁になったという。
深い山の中
 暫く下っていくと、左手に「今宿365スキー場」の大きな看板が立っているところから道が分岐している。この段階では何も気づかずそのまま365号線を下っていくと、左手に「板取宿跡」がある。ここに関所の門が復元されており、ここから石畳になっている坂を登っていくと「板取宿跡」があった。ただこの道がどこから来ているのか分からなかったので、そのまま坂を登っていくと、先ほどあった「今宿365スキー場」の看板が立っているところにでた。この看板が立っているところから左へ分岐する道を進み、すぐ先で右へ分岐して坂を下っていくと、この板取宿跡に入ることになる。板取宿は越前の玄関口として重要な番所として賑わったといい、現在も甲造り型や妻入り型の茅葺の民家が昔の姿で保存されていた。
板取宿跡1板取宿跡2

 365号線を更に下っていくと、右手に孫谷川に架かる宮下橋があるので、365号線から分岐してこれを渡って進むと、ここが下板取の集落だ。集落を抜けると365号線に再び合流し、その先で孫谷の集落に入る。ようやく峠を越えて人里に着いたのだ。365号線を歩いていると車が横で止まり、外国人が右手の親指を突き上げて「乗っていけ!」という。歩きが基本なので本来であればお断りするのだが、相手が外人ということもあって、面白そうだったので乗せてもらうことにした。「どこへ行くのか?」と日本語で話しかけてきたので、地図を見せ、365号線から分岐する落合橋を示して、ここまで行きたいというと「OK!」といって走り始めた。話を聞くと、ブラジルのサンパウロから夫婦と2人の子供の4人で日本に来てもう13年になるという。何をしているのかと聞いてきたので、街道を歩いているといったが、江戸時代の街道ということを説明することは難しく、理解できなかったようだ。ブラジルでは歩いている人を見かけると「乗っていけ!」と声をかけるのは当たり前のことだと言っていた。かなりのスピードで車を走らせていたが、ひょっと横をみるとJRの線路が見える。地図をみると大分先まで来てしまっているようだ。あわてて道を間違っていると言って、車を止め、後戻りする。最初地図を見せたとき、自信たっぷりにOK!と言ったので、てっきりこの辺りの場所に精通していると私は思ったのだが、相手は逆に私がこの辺りの場所を理解していると思ったようで、お互い行き違いが起きたようだった。落合橋はすぐわかったので、そこで車を止めてお別れをするが、記念に写真を撮らせてもらった。一緒にいたのは僅かの時間だったが、いかにも陽気な南米人だった。なお、地図には落合橋から先と落合橋まで戻ったところは削除しています。
ブラジル人
 孫谷川に架かる落合橋を渡ると道は二股に分かれているので、左へ進む。日野川に架かる大門大橋を渡って川沿いに進み、孫谷川に架かる合波橋を渡って365号線を横断、突き当りを右折して合波集落の中を進む。
この辺りの家には豪雪地方らしく玄関にフードが設置されている。
フード
 北陸道踏切でJRの線路を横断、すぐ先で道は二股に分かれているのでここを右折する。鹿蒜川に架かる鹿蒜橋を渡ると、右手に「蓮如の道」「北陸道」「北国街道」と刻まれたまだ新しい石碑が立っている。その横に、文政13年(1830)の「右 京 つるが 己可佐(ワカサ)道」「左 京 いせ 江戸道」と刻まれた道標が立っている。ここが今庄宿の南端に当たるところで、西近江路と東近江路がここで合流する。
蓮如の道
 左手に「稲荷神社」があり、その前に大正14年の題目石が立っている。
稲荷神社
 その先で道は二股に分かれているので左へ進むと、左手に「やなぎ清水地蔵尊」がある。
やなぎ清水地蔵尊
 右手に歴史を感じさせる造りの「畠山酒造」がある。この辺りには「福井県認定証 ふくいの伝統的民家」という札を下げた歴史を感じさせる民家が続いている。問屋跡の看板が立っているがここは遺構は残ってなくて空き地になっていた。この辺りが今庄宿の中心街となっていたところだ。天保年間には旅籠が55軒もあり、とても賑わった宿場だったという。
畠山酒造
 左手に「新羅神社」がある。ここは式内社で、天安2年(858)智証大師は高麗国からの帰途、激しい嵐に遭遇、神々の加護を祈ったお陰で無事帰国することが出来た。貞観元年(859)智証大師の前に神が姿を現し、「私は大和国から渡って新羅国の守護神になったものだ」といわれたため、その姿を刻んで新羅大明神とした。この御神像は当初三井寺に安置されたが、その後戦乱を避けて当寺へ移されたという。また新羅神社という名前から新羅三郎義光の霊を祀るともいわれている。社殿はもと愛宕山の山頂にあったが、寿永2年(1183)木曾義仲が平家軍を迎え撃つため、「燧ケ城」を築いたときに城側に移され、天文年間(1532~1555)に現在地に移されたという。その燧ケ城跡はこの裏山にある。
新羅神社
 すぐ先右手に「高札場跡」がある。
 ここから街道を外れて今日の宿である、今庄サイクリングターミナルへ行く。ここは今庄駅の向こう側にある町営の施設だが、今夜の泊り客は私一人だった。ここで荷物を置いて16時15分に出発する。
 街道に戻るがまだ今庄宿が続いている。本陣は享保3年(1718)に後藤覚左衛門が仰せつかり、明治天皇北陸御巡幸の際も行在所となったが、その後後藤家は移住したため、この辺り一帯を公徳園として利用している。
本陣は
 また脇本陣は北村新兵衛家が勤めたが、跡地を田中和吉氏が購入して昭和会館を設立、その後今庄町役場として使用され、現在は公民館になっている。
脇本陣
 更に右手に「京藤甚五郎家」がある。うだつが上がった虫籠窓、連子格子の建物で天保年間(1830~1844)に建立され、当時は造り酒屋だったという。今庄宿は歴史を感じさせる家が数多く残っているのが印象的だ。
京藤甚五郎家」
 今庄宿を抜けるとJRの線路と接するところに第2大岩踏切がある。旧道はこれを渡らず、線路と併行した土道を進む。ここから湯尾峠に入るのだが、ここはYahooの地図に道が記されていない場所だ。ここともう少し先の二ヶ所が今回歩くところで道がわからない場所だった。役場に問い合わせをして一応のことをお聞きしていたので、それに従って進んでいくと、一里塚跡の標柱が立っている。これは今庄と湯尾の境にあったもので、昭和の初めまで残っていたが、鉄道の防雪堰工事のため破壊をされたという。更にその先に「湯尾峠登り口」の標柱が立っていて、ここから登り坂になる。道は比較的しっかりとしており、迷うことはない。山頂近くに石垣が残っている。
石垣が残っている
 この峠は戦の度に城や砦として利用されたので、道も枡形になっていて、直角に曲がっている。やがて峠の頂上に着くと、「明治天皇湯尾峠御小休所址」の碑が立っており、その横に元禄2年(1689)奥の細道を旅した松尾芭蕉が「月に名を つつみかねてや いもの神」という句を読んだとして句碑が立っている。この湯尾峠は寿永2年(1183)木曾義仲が開いたといわれており、その後天正6年(1578)に柴田勝家が北陸道(北国街道)を開いたとき、湯尾峠も大改修が行われたという。
明治天皇湯尾峠御小休所址
 峠の頂上で左手へ分岐して上る道があるが、これは八十八カ所霊場へ行く道になっており、街道はここから峠を下っていく。
 右手に「馬の水飲み場」の標柱が立っている。直径30cmほどの小さな岩のくぼみだが、水は夏でも枯れなかったという。今は草が一面生い茂っていた。
馬の水飲み場
 左手に「血頭池」への入口がある。このあたりは南北朝時代の延元元年(1336)南朝方の杣山城主瓜生保と足利方の高師泰の大軍が湯尾城の要害を争って戦った上野ケ原古戦場跡で、そのとき瓜生軍が敵の大将首を洗ったため、池が赤くなったため血頭池と呼ばれるようになったという。
 無事暗くなる前に峠を下ることが出来た。出口までくると道が三本に分かれているので、しばらく迷ったが、真ん中の道を下っていく。この写真は峠を下ったところから峠を見たときのものです。
峠を下ったところから
 真ん中の道をそのまま下っていくと、左手に「湯尾神社」があるが、どうも地図と感じが違うようなので、丁度おられたご近所の方にお聞きすると、道を間違っていることが分かったので、先ほどの峠のところまで戻って、もう一度やり直す。まず真ん中の道を進み、すぐ先で左へ分岐する道があったので、これを進むと、左手に「明治天皇湯尾御小休所」の石碑が立っている。
明治天皇湯尾御小休所
 その先で「湯尾神社」前に出た。先ほど歩いた道とはここで合流している。湯尾神社は明治43年に八幡宮、牛頭天王宮、稲荷神社、孫嫡子神社の四社が併合されて建てられたものだ。
湯尾神社
 「湯尾宿高札場跡」の標識が立っており、その先左手に「初音の小坂」の案内板が立っている。それによると奥の細道を旅していた松尾芭蕉が鶯の関(現南越前町関ガ鼻)では鶯の声を聞くことが出来ず、失望しながら北陸路を進み、湯尾のこの地にきて初めて鶯の声を聞き、「うぐいすの 初音きかせし しるべかな」という句を読んだという。案内板の横に自然石に彫られた句碑が立っている。
うぐいすの 初音きかせし 
 湯尾谷川に架かる天皇橋を渡るが、渡った左手に「妙法寺」があり、その境内に宝篋印塔と題目石が並んでいる。宝篋印塔は鎌倉時代中期の作といわれており、もと地蔵谷にあったものをこの地へ移したものという。
妙法寺
 集落の中を進んでいくと、道は二股に分かれており、これを右へ進んで365号線に合流する。その先で365号線が右へカーブするところで、365号線に併行して左へ旧道は分岐しているので、これを進み、北陸自動車道の高架下を通り、そのすぐ先で左折、楢橋踏切でJRの線路を横断して進む。ここから先も道が地図に記されておらず、通り抜けることが出来るか不安だったが、材木会社があり、その会社の方にお聞きすると通り抜けることが出来るといわれたので、山際の道を進んでいく。時間は17時50分近くになっており、日没まで残された時間は僅かなので無駄足は踏みたくないのだ。突き当たりに歩行者専用の鯖波トンネルがあり、これを通り抜けて進む。ここは踏切があったが、事故が多発したため踏切は閉鎖され、代わりにトンネルが掘られたという。トンネルを出たところに白山神社の参道があり、その横に「明治天皇御膳水」の石碑が立っている。
「明治天皇御膳水」の石碑が立っている。
 ここで道は二股に分かれているので、右へJRの線路と併行して進む。右手に「明治天皇御駐輦之処」の石碑が立っている。ここは石倉家という鯖波宿の本陣を勤めた家の跡地だという。
治天皇御駐輦之処
 305号線のトンネルの横に出るので、右手をグルッと小さく迂回する形で反対側へ出て247号線を進むと、左手に「鶯の関跡」碑がある。この辺りが関ケ鼻の集落で、芭蕉が鶯の声を聞くことが出来なかったという場所だ。
鶯の関跡
 そのまま道なりに進んで行き、大道踏切でJRの線路を横断、左へ進んでいくと南条駅があるので、今日はここで終わり、ここからJRで今庄まで戻る。
 18時28分に南条駅に到着する。

 本日の歩行時間   10時間33分。
 本日の歩数&距離  60644歩、45.8km。(外人に車に乗せてもらった距離(約3km)も含んでいます。)

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん