初瀬街道(青越え伊勢街道)を歩く

2018年11月28日(水) ~2018年12月20日(木)
総歩数:129676歩 総距離:92.4km

2018年11月29日(木)

榛原~桔梗が丘

                               曇り

 7時15分に札ノ辻を出発する。
 左手に「宗祐寺」がある。ここは聖徳太子が開基したといわれており、一時は衰退したが、永禄年間に織田信長の家臣服部宗佑が再建。重要文化財である「木造多聞天立像」(平安時代の作)や「絹本著色仏涅槃図三幅」(鎌倉時代の作)、更には「地蔵菩薩立像」や「薬師如来像」も祀られているという。
宗祐寺
 この辺りも歴史を感じさせる旧家が立ち並んでいる。
 左手に延喜式内社の「椋本神社」がある。神武天皇が大和を征服するためにこの地を訪れたが、体調を崩してしまった。その際、高倉下という人が霊剣を奉納すると体調が回復したという。その高倉下を祀っている神社ということだ。
椋本神社
 左手に「往来安全」 「江戸屋〇」と刻まれた元治2年(1865)の道標が立っている。
江戸屋
  左手に地蔵堂があり、その前に「孝心」と刻まれた石碑と安永と読める石灯籠が立っている。その反対側、右手に「右 いせ 左はやま道」と刻まれた寛文4年(1664)の道標が立っているので、ここを右折して進む。
孝心左はやま道

 その先で道は二股に分かれており、その角に「宇陀西國二十六番霊場 観音寺道 是より二丁」と刻まれた道標が立っている。ここは右へ進む。7時34分にここを通る。
宇陀西國
 すぐ先で165号線に合流して進み、右手に「赤人霊園」「榛原斎場」への案内板が立っているところから、165号線から右へ分岐して進む。8時1分にここを通る。その先で榛原8号踏切を越える。
 右手に室生ダムがあり、その対岸の岸辺に鎌倉時代の作といわれる「濡れ地蔵」がある。これは背後の山から水をひいて、この地蔵菩薩に注いでいたことに由来する俗称で、ダムの運用によって秋から春にかけて水没し、田んぼに水を引く5月上旬から徐々に姿を現すという。今は11月終わりなのだが、御姿ははっきり見えており、拝むことができた。8時11分にここを通る。
濡れ地蔵1濡れ地蔵2

 近鉄のガード下をくぐって進んでいくと、左手民家の庭に3体の地蔵尊を祀る祠がある。
3体地蔵
 ここから左折すると、すぐ先右手に幹回りが3.5mもあるという榎の巨木が立っている。
榎の巨木
 その先で165号線に合流する。
 左手に地蔵堂があり、その横に「緑の道標」が立っている。8時45分にここを通る。
左手に地蔵堂「緑の道標」

 そのすぐ先で右折して半焼橋で近鉄の線路を越える。橋を渡ってすぐ左折して進み、その先のトンネルで近鉄と165線を越えて進む。T字路の左角に「右いせみ(以下埋没)」と刻まれた天保11年(1840)の道標が立っているので、ここを右折して進む。
右いせみ
 その先で道は二股に分かれており、その右手に「右 室生山道」と刻まれた大正4年の道標が立っているので、ここを右へ下っていく。
室生山道
 右折して近鉄の高架下を通り、すぐに左折して進んで行くと、右手に室生中学があり、その先右手に「太神宮」と刻まれた安政6年(1859)の常夜燈が立っている。
室生中常夜燈
 その先の十字路に「石佛彌勒 御長  春日」と刻まれた石碑があるので、ここは直進する。
石佛彌勒
 左手上に室生口大野駅を見ながら進み、トンネルで近鉄を越えていくと、「えび坂」に至る。この時期紅葉がきれいだ。9時25分にここを通る。 
えび坂
 坂を登っていくと、途中右手に「北向き地蔵」がある。
北向き地蔵
 高架下を通って進み、集落の中の最初の家の横、写真に写っている電柱の横の細道を右折して進む。
ほぞ道1ほぞ道2

 やがて元三の宿場跡を通る。左手に台座に「両皇太神」と刻まれた嘉永3年(1859)の常夜燈があり、その右手に「西澤家」があるが、ここが「上ぬしや」といい、本陣を務めていたという。現在は医院になっている。
元三常夜燈西澤家

 左手街道から少し外れたところに三代目の三本松が立っている。病のため、この地に滞在していた北条時頼が病が癒えたことを喜んで一つの松の実を植えたところ、それが成育して三股に分かれた大樹になったので、三本松と呼ばれるようになり、昭和初期には天然記念物に指定された。三本松の名前が広く知れ渡ったことから、この地のことを三本松と呼ぶようになったという。松は昭和34年の伊勢湾台風で倒れたため、現在は三代目の松が植えられているという。
三本松
 街道に戻って進むと、右手に登録古民家「西岡家」がある。「明治・大正・昭和初期の古民家を大切にする会」と書かれた看板が立っており、「登録番号第零零零零零弐九号」となっていた。江戸後期の建物という。
西岡家10月西岡家2

 跨線橋を渡ったところに「長命寺」がある。ここに「琴引峠跡」の碑が立っているが、これは以前は跨線橋の手前にあったという。琴引峠は大和から伊賀へ抜ける道の最初の峠だった。ここは源義経と静御前が逃避行の中で琴を弾いた、あるいは北条時頼が琴を弾いたとか言われているようだ。
 また資料によると「大和國山辺部長瀬村」「従是西大野高札迄十六丁三問従是東伊賀國境迄二十三丁半 」と刻まれた石碑が立っている。10時10分にここを通る。
長命寺1長命寺2

 、その先165号線から左手に分岐したところに川口家があり、ご主人が丁度外に出られていてお会いすることができたので、家の中へ案内をして頂き、仏像を拝ませていただいた。千手観音を真ん中にして3体の仏像が飾られていた。
川口家
 ご近所の方に教えていただいてわかったのだが、右手に元本陣がある。
元本陣
 右手に明治39年の常夜燈が立っている。
明治39
 左手街道から少し外れたところに「安産寺」があり、行こうとしていると、ご近所の方が、あそこは無住で事前に連絡をしなければいけないといわれたので、行くことをやめた。
 右手に「子安地蔵尊」と刻まれた石碑が立っている。
子安地蔵
 右手に「女人高野室生山」、横にかすかに「是より五十丁」と読むことができる文政12年(1819)の室生寺道標がある。女人禁制だった高野山に対し、室生寺は女人の参詣が許されていたことから女人高野と呼ばれていたという。
女人高野
 左手に「六地蔵」がある。このすぐ先で三重県に入る。11時2分にここを通る。
六地蔵
 左手に「牛飼地蔵」があり、資料によると「長谷観音〇奉供養一千日往来志之施主為二世安楽死」と刻まれている元文5年(1740)の地蔵尊が立っている。また地蔵の前に置かれている花立には元文6年(1741)と刻まれている。
牛飼地蔵
 左手に明治14年の「唐崖修路碑」が立っている。この場所は現在はコンクリートで固められた切り立った崖になっているが、昔は番取山から宇陀川に大きな岩が張り出した大変危険な場所だったという。
唐崖修路碑1唐崖修路碑28日
 
 左手、崖をくりぬいたところに地元では薬師さんと呼ばれている「延命地蔵」が祀られている。
薬師さん
 左手にこれも資料によると「慶応3年(1867)の水神碑」、「慶応3年(1867)の鹿高渠水碑」、明治29年に建立された「孝女碑」が並んで建っている。
慶應3年
 その先で165号線から左へ分岐して進む。165線は歩道がなく、交通量も多かったのでホッとする。集落の中で貯水槽のようなものがあったので、これに腰かけて昼にはまだ少し早かったが、朝コンビニで買ったパンの昼食にする。
 その先で165号線を横断したすぐ先左手に庚申堂がある。資料によると「奉供養庚申待 元禄二己巳年(1689)三月廿二日」と刻まれた庚申塔が小さな地蔵と並んで安置されている。
元禄2年
 この辺りも旧い連枝格子の家が建っている。
連枝格子
右手に宇陀川が流れているが、この辺りの川底は巨大な岩盤になっていて、兵頭瀬と呼ばれているという。
兵頭瀬
 左手に石碑群があり、その一つに「安部田村義民碑」がある。これは明治7年に建立したものの、伊勢湾台風で流失したので、昭和35年に再建したものという。更に資料によると「観世音菩薩」「供養長谷寺二千日参志施主二世安楽死」「宝暦四年甲申(1764)二月十四日 願主隔夜浄法」と刻まれた供養碑、大正11年の「大峯山参拝記念碑」、「明治28年の四国巡り記念碑」が立っている。
安部田村
 左手に鹿高神社の鳥居とその横に「菅笠日記」の碑が立っている。菅笠日記は本居宣長が吉野へ旅をした際の紀行文である。鹿高神社は壬申の乱の際、大海人皇子が吉野から美濃へ向かうためここを通ったが、宇陀川が洪水を起こして進めなくなった。その時、二頭の鹿が現れて軍勢を対岸に渡した。ところがその後二頭の鹿は一頭に変わってしまい、片鹿と呼ばれたのが地名となって鹿高(かたか)となったという。その後、勝利した大海人皇子が感謝し、この地に鹿高大神として祀ったとのことだ。11時52分にここを通る。
菅笠日記
 その先で街道は二つに分かれているようで、一方は宇陀川を渡って赤目口駅のほうへ向かうようだが、今回は川を渡らずそのまま直進する道を進んだ。
 右手に宇陀川に架かる猪尻橋がある。これは沈橋だ。その袂に享保2年(1802)の「水神」碑が立っている。
猪尻橋1猪尻橋2

 その先で165号線と合流して進むと、右手に文化元年(1804)の「水神」碑が立っている。
文化元年
 左手に「地蔵道標」があり、「右 ならみち」と刻まれている。ここは名張から奈良へ向かう奈良街道の登り口だという。
右 なら
 右手、用水路堤に「南無阿弥陀仏」と刻まれた石碑が立っている。
用水路
 その先で165号線から左へ分岐して進む。この辺りのどかな風景が続いており、山々は紅葉で彩られている。
紅葉
 右手に資料によると「観世音菩薩」「奉供養 長谷寺一千日参志施主二世安楽死」「宝暦五年乙亥(1755)二月吉祥日」「願主隔夜法」と刻まれている供養塔が立っている。この施主は先ほどあった石碑群の中にあった観世音菩薩と刻まれた碑の施主と同じ人だ。
奉供養
 左手に「第五十三番黒田村弘法大師 霊場従是三丁無動寺」「寶圀不動明王」と刻まれた大正5年の石碑がある。
大正5年
 黒田橋の袂、左手に資料によると「黒谷法然上人石碑 従是二丁ニ有」「願主名張本町紙屋」と刻まれた川原石の道標があり、地蔵尊を祀った祠と並んでいる。これは黒田の法然寺跡に祀られている法然上人供養塔への案内で、名張地方では珍しい北朝年号の至徳元年(1384)と刻まれており、市指定文化財になっている。
黒谷法然上人
 橋の手前、左手の桜並木の入り口のところに明治11年の「水神」碑がある。この辺り水神を祀る碑が多い。宇陀川は洪水が多かったのだろうか?
黒田橋手前
 黒田橋を渡るが、ここで先ほど赤目口駅のほうへ分岐した道と合流する。橋を渡った右手に資料によると「右 はせならみち」「左 あめがたき」「是より六十丁」「天保十五年辰(1844)十月 延壽院深海建立」と刻まれた道標が立っている。12時54分にここを通る。
黒田橋道標
 その先で新町橋を渡って右折するのだが、この角に新しい初瀬街道の標識が立っている。ここまで歩いてきて初めて見る初瀬街道の標識だ。
新しい道標
 ここから街道を外れて左折して行くと「愛宕神社」があり、入り口に文化2年(1805)の常夜燈が立っており、本殿前に文化4年(1807)、享保4年(1719)の常夜燈が立っている。また境内左手に黒田橋詰めから移されたという「水神」碑がある。
愛宕神社1愛宕神社2

 街道に戻って進むと、右手に明治初年に薬商細川家の次男細川次郎が分家として建築したという旧細川邸があり、「やなせ宿」という看板が掛けられている。
細川邸
 左手に江戸川乱歩生誕の地の石標が立っており、その先左手に「栄林寺」がある。ここには芭蕉の句碑とともに「右はせみち」「文化元年甲子(1804)三月吉日」と刻まれた道標と薬師堂建て替えの際に発掘されたという「東海道 槌屋清兵衛」と刻まれた道標がある。
栄林寺1栄林寺2

 その先で街道は左折するのだが、そのまま直進をすると、福祉センターの前に「ひだりいせミち」「右はせ多武峯山上高野みち」「願主敬白 文政10年丁亥(1827)五月吉日」と刻まれた道標が立っている。
ひだりいせミち
  街道に戻って進むと、安永7年(1778)に寄進されたという宇流富志禰神社の一の鳥居が立っており、その横に樹齢300年と言われる街道の名残の一本松が立っている。名張は藤堂家の城下町として、また伊勢へのおかげ参りの宿場町として栄えたという。13時20分にここを通る。
名張
 ここから右斜めに進んでいくと、左手に「山口家住宅」がある。ここは明治の初めに山口長七が旅館「山口楼」を開業したときから残る建物で、登録有形文化財に指定されている。
山口家
 その先左手に「梅田家住宅」がある。これは鋳物製造販売を営んでいた梅田家の13代傳吉が慶応2年(1866)に再建したと説明されている。
梅田家
 57号線に合流した右手に「両社八幡宮」がある。ここは仁徳天皇と藤堂高虎を祀っているという。
両社八幡
 左手に「題目石」が立っており、そのすぐ先から57号線から右へ分岐する。
題目石
 左手に明治8年の「太神宮」「常夜燈」と刻まれた常夜燈が立っている。
明治8年
 近鉄の高架下を通って進むと、右手に「奉燈」と刻まれた明治29年の常夜燈が立っている。
明治29年
 シャックリ川という変わった名前の川に架かった川北橋を渡って進むと、左手に「延命地蔵」を祀る祠がある。資料によるとこれは安政5年(1858)に建立されたものという。
安政5年
 このすぐ上、階段を上ったところに「山の神」がある。
山の神
 14時35分、この先で今回は歩き終わることにし、桔梗が丘駅から帰途につく。

 本日の歩行時間   7時間20分。
 本日の歩数&距離 33494歩、24km。  
 本日の純距離   22.8km。(道を間違えず、寄り道をしないで街道のみを歩いた時の距離)

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん