2018年12月19日(水)
西青山~川合高岡
曇り
7時32分に西青山駅に着き歩き始める。昨日は電車に間に合わせるために一生懸命だったので、周囲に注意を払う余裕がなくて気が付かなかったが、改めて今日見てみると周囲に人家はなく、こんなところにある駅を利用する人がいるのだろうか?と思うような場所にある駅だ。現実に昨日も今朝も乗降客は私一人だけだった。
歩き始めるが、通勤時間帯ということもあるのかもしれないが、車の通行量はかなり多く、信号がないのでどの車もかなりスピードを出している。歩道がないのであまり気持ちのいいものではない。
今朝は相当に冷え込んでいるようで、吐く息が白い。
橋が架かっている手前から165号線から左へ分岐して旧道があるので7時39分にこれを進む。昨日の旧道もそうだったが、この時期は草が枯れていて歩きやすい。
左手に明治32年に地元の大師講が設置したという四国八十八か所霊場のミニチュアがあり、石仏が二体ずつ並んで何か所も立っている。
その先で7時45分に165号線に合流する。
右手に乗馬クラブがあり、騎手が乗馬して何頭かが馬場を走っていた。ここは新青山トンネルができるまでは旧西青山駅があったところという。
左手道路より少し低い場所に「青山地蔵」がある。この地蔵像は摩崖仏で自然石の岩壁に彫られており、弘法大師一夜の作という伝説があるという。境内には古い宝篋印塔などが立っている。ここは右側に歩道があって、珍しくガードレールがついているのだが、切れ目がないため、ガードレールを乗り越えて道路を横断して地蔵のほうへ行った。地蔵を見た後、歩道に戻るため、ガードレールに片足をかけて乗り越えようとした。ところがガードレールに苔が付いていて、それが朝露に濡れていたようで、体重をかけた片足が見事に滑ってしまい、危うくひっくり返るところだった。かろうじて踏ん張って事なきを得たが、なんとも無様な恰好だったと思う。8時2分にここを通る。
道路に設置している温度計が1℃を表示している。寒く感じるはずだ。
「青山高原 保健休養地」の看板が出ているところから165号線から右へ分岐して進む。きれいに舗装された道だ。8時20分にここを通る。
その先で道はまた二股に分かれているので、右へ下る。右手に「初瀬街道」の看板が立っているのが目印だ。8地30分にここを通る。
右手に資料によると「みや川迄十二り半津 〇 はせ迄十一り半津 岡長次郎」と刻まれた道標地蔵が立っている。ここは伊勢と伊賀の国境で、この辺りの道は初瀬街道を往来する旅人にとって最大の難所だったという。
所々に倒木があるものの、道はしっかりとしていて気持ちのいい道だ。
8時40分に165号線に合流するが、ここにも初瀬街道の看板が立っている。
その先で左へ分岐する旧道があるので、ここを進む。8時50分にここを通る。
ここも気持ちのいい道が続いている。ただ地面がゆるくて靴がずぶずぶと埋まりそうな場所がかなりあった。
9時3分になって石橋があり、その先から道はなくなっているので右手の崖をよじ登って165号線に合流する。
165号線に出るとすぐ左手に白山トンネルの入り口がある。ここはトンネルを越える旧道を進むため、登ってきた反対側、トンネルに向かって右側の崖をよじ登ると、旧道があった。旧道は右から左へ続いているので、どこからこの旧道は来ているのだろうか?と思って右手へ戻ってみると、すぐ先でやはり165号線から崖を登ってこの道に合流しなければいけないことがわかった。ただ私が登ったところよりも低くなっているので、こちらから登ったほうが楽だ。その場所はトンネルのすぐ手前、右手にガードレールがあり、私はそのガードレールの一番トンネル寄りの切れ目から登ったのだが、そうではなくて、同じガードレールのトンネルから一番遠い切れ目から登ると樂なようだ。ここから旧道を進んでいくが、ここもしっかりとした道が付いている。ただこの道も地面がずぶずぶな箇所が多かった。トンネルの上を小峠と呼んだという。
しばらく旧道を進んでいくと、左手からきれいに舗装された道が合流している。ただ通行禁止の札が下がっていた。このすぐ先右手に石仏と「役行者碑」が立っている。資料によると「太神宮 役行者」「施主 津 芝原氏」「宝暦四戌(1754)中秋月」と刻まれているようだ。9時25分にここを通る。
その先で一旦165号線に合流するが、すぐ先で再び左手に分岐する旧道がある。ただこの入り口の柵には「この道路は初瀬街道の八重坂で垣内宿へ通じます。この道路を使用される方は垣内自治会長宅へカギを取りに来てください。」と書かれた看板が立っている。ただ横から簡単に入ることができるし、町内会長宅がどこにあるのかわからない。連絡先も書かれていないので、どうしようもないので柵を越えて進んでいく。9時33分にここを通る。
最初は舗装された道だったが、やがて山道になる。木漏れ日の中、気持ちのいい道が続いている。横を流れる川の水音のみが聞こえてくる静かな道だ。このあたりを八重坂というようだ。
左手に地蔵尊がある。資料によると「安永四年(1775)天 西国供養塔 正月吉日」「源右エ門 文五郎 きん つや 惣助 浅八 くに」と刻まれているようだ。10時7分にここを通る。
山を抜けた所にも入り口にあったものと同じ柵と看板がある。垣内川に架かる花山橋を渡って右折して進むがここから先は舗装された道になる。10時16分にここを通る。
ここから垣内宿に入っていくが、その入り口に「初瀬街道 垣内宿」と書かれた看板が立っており、その横に「いろはや」と書かれた看板が立っている。いろはやは旅籠だったようだが、遺構は何も残っていない。その先には「初瀬街道 垣内宿」「ながはしや」あるいは「もちや」と書かれた暖簾を玄関先に掛けている家があった。
左手に「乗渓寺」の参道があり、その入り口に常夜燈と「津市元標へ六里七町九間 大三村大字大村へ壱里参拾町四拾八間倭村大字垣内 上津村大字伊勢地へ参里貮町四拾貮間」と書かれた大正3年の元標が立っている。
山間にあるこの小さな垣内宿は17世紀中ごろには宿場としての機能を果たしていたようで、峠を越える英気を養うため、また峠を越えてきた疲れをいやすために欠くことのできない宿場だったといい、江戸時代末には戸数が70戸以上もあって、旅籠は常時300人以上の収容能力があったという。島津家久や本居宣長、伊能忠敬等もこの街道を利用していたという。また明治になるといち早く郵便局が開設されたという。
川沿い右手に「奥山大権現」と刻まれた明治28年の石碑とその横に山の神がある。10時31分にここを通る。
左手に「常夜燈」と垣内宿の案内板が立っている。
垣内のバス停があってベンチがあったので、そこに座って一息入れていると、バスがきた。津市のコミュニティバスで、この時間帯は2時間に一本しかない。そのバスがちょうどきたのだ。運転手さんが私を見てバスに乗ると思ったようで、扉を開けて何か声をかけたようだ。バスに乗っている人たちが一斉にこちらを見ているので、乗りません、ちがいますという意味を込めて手で×印を作って知らせると、バスはそのまま走り去った。
その先右手に石祠が一つと山の神が2体祀られている。
川久保のバス停から165号線から右へ分岐して進むと、左手に慈眼寺がある。ここは成願寺の末寺で新しく僧侶になる人の修行寺であったという。境内には古い石仏や山の神がある。
165号線を横断すると左手に「成願寺」がある。ここは明応年間(1492~1501)に天台宗真盛派の宗祖真盛上人によって開基されたお寺で、同宗の中本山となっている。天正12年(1584)に火災で焼失、寛永16年(1639)に再建されたという。山門の左手には不動明王があるが、これは享保20年(1735)の作と言われている。右手には地蔵立像があり、これは永正10年(1513)の作で、ともに2m近い大きな像である。また境内右手には享保10年(1725)の宝篋印塔が立っている。11時11分にここを通る。
成願寺を出ると、すぐ先左手に天保15年(1844)の常夜燈が立っている。
その先で道を間違えた。右折しなければいけない細道があったのだが、間違ってそのまま直進してしまったのだ。165号線に合流する手前で間違いに気が付いて、後に戻って旧道を歩く。一旦165号線に合流、すぐ先で右へ分岐するが、この旧道は短くてすぐ165号線に合流する。その先左手に慶応4年(1868)の常夜燈が立っている。
ここから165号線から左へ分岐して進むと、右手に旧町役場支所だったという木造の建物があり、ここを右折して進む。
その先左手に津市白山郷土資料館があったが、現在は閉館されていた。
次の十字路で街道から外れて、左手に少し行ったところに山の神の石仏群が祀られている。
165号線に合流し、すぐ先で165号線から右へ分岐すると右手に「白山比咩神社」と刻まれた昭和12年の石柱が立っているが、この場所に白山神社の一の鳥居が立っていたという。
街道はここから左折して田んぼの中の道を進んでいく。今日は天気はいいものの風が強く、この場所も風よけになるものがなくて、もろに風を受けながら進んだ。
左手に慶応3年(1867)の常夜燈が立っている。
その先左手に称名寺があり、その入り口に地蔵堂があって、その横に宝暦12年(1762)の六十六部供養塔が立っている。
左手に山の神がある。この辺りは山の神が多く祀られている。
左手に「浦上キリシタン収容所跡」の看板が立っている。明治2年肥前国彼杵郡浦上村のキリシタン3000人が全国に配流となったが、津藩も155人預かり、そのうち75人がこの地二本木の旧代官跡に収容されたと説明されている。代官所の遺構は残っておらず、広場になっている。すぐ先左手に今度は「大村閑城代官所跡」の看板が立っていた。
その先、突当りに「上 いせみち」「下 山や〇道」と刻まれた道標が立っている。
ここから左折して進んだのだが、道を間違えてそのまま直進してしまった。途中で間違いに気が付いて後戻りする。街道はこの道標のすぐ先に右折する細道があって、そこを右折しなければいけなかったのだ。細道を進んでいき、先ほど間違って進んだ道を横断して次の三差路を右折して進み、すぐ先でこれまで歩いてきた道に合流する。ここはわかりにくい道だ。
右手に天保4年(1833)の常夜燈が立っている。この辺りが二本木宿の中心だった場所という。二本木という地名は一根二幹の松の大樹があったことからきているという。
その先で街道から少し左へ外れたところにコンビニがあったので、12時35分、ここで昼食にする。
右手に安政4年(1857)まで旅籠をしていて、それ以降は醤油屋をしていたという「丁子屋」がある。
丁子屋の前の家が資料によると「角屋(下角屋)」のようだが、ちょうど通りかかった人にお聞きすると、ここは角屋ではないといわれてしまった。結局よくわからなかったが、一応写真を掲載しておきます。角屋は二軒あって、もう一軒上角屋と呼ばれていて、ここに来るまでのどこかにあったようだが、わからなかった。
その先で旧道は線路によって失われてしまっている。一応線路際まで行ってみたが、それから先は進むことができなかったので、元に戻って進む。
左手に地蔵堂がある。
雲出川沿いを歩くが、ここには桜並木がある。亀ケ広の桜として知られているようで、大村の人々が旅人の心をいやすため雲出川の眺めがいい、この場所に休み場として吉野桜を植えたという。樹齢70年ということで、古くなったからだろうか、左側に並んでいる桜は元から切られていた。
その先は左手から急な崖が迫ってきており、雲出川とのわずかの隙間に道が通っている。昔は相当の難所だっただろうと思わせる道だ。その道の左手に「笠着地蔵」がある。急な崖に刻まれた摩崖仏で、真盛上人が幼児のころに故あって雲出川に捨てられた時、上人を乗せた笠が流れをさかのぼってこの淵に流れ着いたという。人々はその不思議に感じて巨岩に地蔵尊を刻み、通行の安全も祈ったという。
地蔵尊の前の川に巨岩があるが、これは安政の大地震で道路わきの巨岩が二つに割れて川岸に半回転して転げ落ちたという。この岩の下にさかさになった地蔵が刻まれていることから、「さかさ地蔵」と呼ばれているという。確かに川岸には二つの大きな岩があるが、どのどちらの岩に地蔵が刻まれているのかわからなかったので、二つの岩の写真を掲載しておきます。13時37分にここを通る。
その先で道は二股に分かれており、この左手に「右 伊勢道」と刻まれた道標が立っている。手持ちの資料ではここは右へ県道二本木一志線を通るようになっていたが、この道標に従って左手に分岐して田んぼの中の道を進む。
その先で「誕生寺」があるので、寄り道をしてみた。ここは天台真盛宗の開祖である「真盛上人」が1443年に現在の一志町大仰で誕生したことから誕生寺と命名されたというお寺で、寺院自体は明治時代に建立されたという。
その先で大仰橋を渡るのだが、旧道はその先から川を渡っていたというので、橋を渡らず先に進んで渡し場のところまで行ってみた。
右手に天明3年(1783)の常夜燈が立っている。対岸からこの辺りに板橋がかかっていたといい、すぐ横に「大仰有料橋跡」「架設三百二十年記念」と刻まれたまだ新しい石碑が立っている。
すぐ先左手に「成福寺」があり、門前に「真盛上人慈父母菩提所」と刻まれた石碑が立っている。
大仰橋まで戻ってこれを渡り、左折するとすぐ先で道は二股に分かれており、ここは右の細道を進む。この辺りが大仰宿のあったところのようだが、遺構は何も残っていない。
その先で165号線に合流、谷戸峠を登っていったところから165号線から左折して進むと、左手に「薬師地蔵」がある。14時40分にここを通る。
坂を下っていくと右手に15号線が見え、15号線に沿ったところに明治32年の常夜燈とその傍らに「万燈さん」と呼ばれる祠がある。
街道に戻ると、すぐ先右手に「お宮さん」と言われる祠と明治27年の常夜燈が立っている。すぐ先で15号線に合流する。
川沿いの道を進んでいき、その先から15号線から右へ分岐して細道を進んで行き、その先で再び15号線に合流する。田尻の信号で右へ進み、川合高岡駅に15時11分に着く。ここから松阪まで行ってホテルに入る。
本日の歩行時間 7時間39分。
本日の歩数&距離 36675歩、25.7km。
本日の純距離 23.5km。(途中寄り道をせず、道を間違わなかった時の街道だけの距離)
7時32分に西青山駅に着き歩き始める。昨日は電車に間に合わせるために一生懸命だったので、周囲に注意を払う余裕がなくて気が付かなかったが、改めて今日見てみると周囲に人家はなく、こんなところにある駅を利用する人がいるのだろうか?と思うような場所にある駅だ。現実に昨日も今朝も乗降客は私一人だけだった。
歩き始めるが、通勤時間帯ということもあるのかもしれないが、車の通行量はかなり多く、信号がないのでどの車もかなりスピードを出している。歩道がないのであまり気持ちのいいものではない。
今朝は相当に冷え込んでいるようで、吐く息が白い。
橋が架かっている手前から165号線から左へ分岐して旧道があるので7時39分にこれを進む。昨日の旧道もそうだったが、この時期は草が枯れていて歩きやすい。
左手に明治32年に地元の大師講が設置したという四国八十八か所霊場のミニチュアがあり、石仏が二体ずつ並んで何か所も立っている。
その先で7時45分に165号線に合流する。
右手に乗馬クラブがあり、騎手が乗馬して何頭かが馬場を走っていた。ここは新青山トンネルができるまでは旧西青山駅があったところという。
左手道路より少し低い場所に「青山地蔵」がある。この地蔵像は摩崖仏で自然石の岩壁に彫られており、弘法大師一夜の作という伝説があるという。境内には古い宝篋印塔などが立っている。ここは右側に歩道があって、珍しくガードレールがついているのだが、切れ目がないため、ガードレールを乗り越えて道路を横断して地蔵のほうへ行った。地蔵を見た後、歩道に戻るため、ガードレールに片足をかけて乗り越えようとした。ところがガードレールに苔が付いていて、それが朝露に濡れていたようで、体重をかけた片足が見事に滑ってしまい、危うくひっくり返るところだった。かろうじて踏ん張って事なきを得たが、なんとも無様な恰好だったと思う。8時2分にここを通る。
道路に設置している温度計が1℃を表示している。寒く感じるはずだ。
「青山高原 保健休養地」の看板が出ているところから165号線から右へ分岐して進む。きれいに舗装された道だ。8時20分にここを通る。
その先で道はまた二股に分かれているので、右へ下る。右手に「初瀬街道」の看板が立っているのが目印だ。8地30分にここを通る。
右手に資料によると「みや川迄十二り半津 〇 はせ迄十一り半津 岡長次郎」と刻まれた道標地蔵が立っている。ここは伊勢と伊賀の国境で、この辺りの道は初瀬街道を往来する旅人にとって最大の難所だったという。
所々に倒木があるものの、道はしっかりとしていて気持ちのいい道だ。
8時40分に165号線に合流するが、ここにも初瀬街道の看板が立っている。
その先で左へ分岐する旧道があるので、ここを進む。8時50分にここを通る。
ここも気持ちのいい道が続いている。ただ地面がゆるくて靴がずぶずぶと埋まりそうな場所がかなりあった。
9時3分になって石橋があり、その先から道はなくなっているので右手の崖をよじ登って165号線に合流する。
165号線に出るとすぐ左手に白山トンネルの入り口がある。ここはトンネルを越える旧道を進むため、登ってきた反対側、トンネルに向かって右側の崖をよじ登ると、旧道があった。旧道は右から左へ続いているので、どこからこの旧道は来ているのだろうか?と思って右手へ戻ってみると、すぐ先でやはり165号線から崖を登ってこの道に合流しなければいけないことがわかった。ただ私が登ったところよりも低くなっているので、こちらから登ったほうが楽だ。その場所はトンネルのすぐ手前、右手にガードレールがあり、私はそのガードレールの一番トンネル寄りの切れ目から登ったのだが、そうではなくて、同じガードレールのトンネルから一番遠い切れ目から登ると樂なようだ。ここから旧道を進んでいくが、ここもしっかりとした道が付いている。ただこの道も地面がずぶずぶな箇所が多かった。トンネルの上を小峠と呼んだという。
しばらく旧道を進んでいくと、左手からきれいに舗装された道が合流している。ただ通行禁止の札が下がっていた。このすぐ先右手に石仏と「役行者碑」が立っている。資料によると「太神宮 役行者」「施主 津 芝原氏」「宝暦四戌(1754)中秋月」と刻まれているようだ。9時25分にここを通る。
その先で一旦165号線に合流するが、すぐ先で再び左手に分岐する旧道がある。ただこの入り口の柵には「この道路は初瀬街道の八重坂で垣内宿へ通じます。この道路を使用される方は垣内自治会長宅へカギを取りに来てください。」と書かれた看板が立っている。ただ横から簡単に入ることができるし、町内会長宅がどこにあるのかわからない。連絡先も書かれていないので、どうしようもないので柵を越えて進んでいく。9時33分にここを通る。
最初は舗装された道だったが、やがて山道になる。木漏れ日の中、気持ちのいい道が続いている。横を流れる川の水音のみが聞こえてくる静かな道だ。このあたりを八重坂というようだ。
左手に地蔵尊がある。資料によると「安永四年(1775)天 西国供養塔 正月吉日」「源右エ門 文五郎 きん つや 惣助 浅八 くに」と刻まれているようだ。10時7分にここを通る。
山を抜けた所にも入り口にあったものと同じ柵と看板がある。垣内川に架かる花山橋を渡って右折して進むがここから先は舗装された道になる。10時16分にここを通る。
ここから垣内宿に入っていくが、その入り口に「初瀬街道 垣内宿」と書かれた看板が立っており、その横に「いろはや」と書かれた看板が立っている。いろはやは旅籠だったようだが、遺構は何も残っていない。その先には「初瀬街道 垣内宿」「ながはしや」あるいは「もちや」と書かれた暖簾を玄関先に掛けている家があった。
左手に「乗渓寺」の参道があり、その入り口に常夜燈と「津市元標へ六里七町九間 大三村大字大村へ壱里参拾町四拾八間倭村大字垣内 上津村大字伊勢地へ参里貮町四拾貮間」と書かれた大正3年の元標が立っている。
山間にあるこの小さな垣内宿は17世紀中ごろには宿場としての機能を果たしていたようで、峠を越える英気を養うため、また峠を越えてきた疲れをいやすために欠くことのできない宿場だったといい、江戸時代末には戸数が70戸以上もあって、旅籠は常時300人以上の収容能力があったという。島津家久や本居宣長、伊能忠敬等もこの街道を利用していたという。また明治になるといち早く郵便局が開設されたという。
川沿い右手に「奥山大権現」と刻まれた明治28年の石碑とその横に山の神がある。10時31分にここを通る。
左手に「常夜燈」と垣内宿の案内板が立っている。
垣内のバス停があってベンチがあったので、そこに座って一息入れていると、バスがきた。津市のコミュニティバスで、この時間帯は2時間に一本しかない。そのバスがちょうどきたのだ。運転手さんが私を見てバスに乗ると思ったようで、扉を開けて何か声をかけたようだ。バスに乗っている人たちが一斉にこちらを見ているので、乗りません、ちがいますという意味を込めて手で×印を作って知らせると、バスはそのまま走り去った。
その先右手に石祠が一つと山の神が2体祀られている。
川久保のバス停から165号線から右へ分岐して進むと、左手に慈眼寺がある。ここは成願寺の末寺で新しく僧侶になる人の修行寺であったという。境内には古い石仏や山の神がある。
165号線を横断すると左手に「成願寺」がある。ここは明応年間(1492~1501)に天台宗真盛派の宗祖真盛上人によって開基されたお寺で、同宗の中本山となっている。天正12年(1584)に火災で焼失、寛永16年(1639)に再建されたという。山門の左手には不動明王があるが、これは享保20年(1735)の作と言われている。右手には地蔵立像があり、これは永正10年(1513)の作で、ともに2m近い大きな像である。また境内右手には享保10年(1725)の宝篋印塔が立っている。11時11分にここを通る。
成願寺を出ると、すぐ先左手に天保15年(1844)の常夜燈が立っている。
その先で道を間違えた。右折しなければいけない細道があったのだが、間違ってそのまま直進してしまったのだ。165号線に合流する手前で間違いに気が付いて、後に戻って旧道を歩く。一旦165号線に合流、すぐ先で右へ分岐するが、この旧道は短くてすぐ165号線に合流する。その先左手に慶応4年(1868)の常夜燈が立っている。
ここから165号線から左へ分岐して進むと、右手に旧町役場支所だったという木造の建物があり、ここを右折して進む。
その先左手に津市白山郷土資料館があったが、現在は閉館されていた。
次の十字路で街道から外れて、左手に少し行ったところに山の神の石仏群が祀られている。
165号線に合流し、すぐ先で165号線から右へ分岐すると右手に「白山比咩神社」と刻まれた昭和12年の石柱が立っているが、この場所に白山神社の一の鳥居が立っていたという。
街道はここから左折して田んぼの中の道を進んでいく。今日は天気はいいものの風が強く、この場所も風よけになるものがなくて、もろに風を受けながら進んだ。
左手に慶応3年(1867)の常夜燈が立っている。
その先左手に称名寺があり、その入り口に地蔵堂があって、その横に宝暦12年(1762)の六十六部供養塔が立っている。
左手に山の神がある。この辺りは山の神が多く祀られている。
左手に「浦上キリシタン収容所跡」の看板が立っている。明治2年肥前国彼杵郡浦上村のキリシタン3000人が全国に配流となったが、津藩も155人預かり、そのうち75人がこの地二本木の旧代官跡に収容されたと説明されている。代官所の遺構は残っておらず、広場になっている。すぐ先左手に今度は「大村閑城代官所跡」の看板が立っていた。
その先、突当りに「上 いせみち」「下 山や〇道」と刻まれた道標が立っている。
ここから左折して進んだのだが、道を間違えてそのまま直進してしまった。途中で間違いに気が付いて後戻りする。街道はこの道標のすぐ先に右折する細道があって、そこを右折しなければいけなかったのだ。細道を進んでいき、先ほど間違って進んだ道を横断して次の三差路を右折して進み、すぐ先でこれまで歩いてきた道に合流する。ここはわかりにくい道だ。
右手に天保4年(1833)の常夜燈が立っている。この辺りが二本木宿の中心だった場所という。二本木という地名は一根二幹の松の大樹があったことからきているという。
その先で街道から少し左へ外れたところにコンビニがあったので、12時35分、ここで昼食にする。
右手に安政4年(1857)まで旅籠をしていて、それ以降は醤油屋をしていたという「丁子屋」がある。
丁子屋の前の家が資料によると「角屋(下角屋)」のようだが、ちょうど通りかかった人にお聞きすると、ここは角屋ではないといわれてしまった。結局よくわからなかったが、一応写真を掲載しておきます。角屋は二軒あって、もう一軒上角屋と呼ばれていて、ここに来るまでのどこかにあったようだが、わからなかった。
その先で旧道は線路によって失われてしまっている。一応線路際まで行ってみたが、それから先は進むことができなかったので、元に戻って進む。
左手に地蔵堂がある。
雲出川沿いを歩くが、ここには桜並木がある。亀ケ広の桜として知られているようで、大村の人々が旅人の心をいやすため雲出川の眺めがいい、この場所に休み場として吉野桜を植えたという。樹齢70年ということで、古くなったからだろうか、左側に並んでいる桜は元から切られていた。
その先は左手から急な崖が迫ってきており、雲出川とのわずかの隙間に道が通っている。昔は相当の難所だっただろうと思わせる道だ。その道の左手に「笠着地蔵」がある。急な崖に刻まれた摩崖仏で、真盛上人が幼児のころに故あって雲出川に捨てられた時、上人を乗せた笠が流れをさかのぼってこの淵に流れ着いたという。人々はその不思議に感じて巨岩に地蔵尊を刻み、通行の安全も祈ったという。
地蔵尊の前の川に巨岩があるが、これは安政の大地震で道路わきの巨岩が二つに割れて川岸に半回転して転げ落ちたという。この岩の下にさかさになった地蔵が刻まれていることから、「さかさ地蔵」と呼ばれているという。確かに川岸には二つの大きな岩があるが、どのどちらの岩に地蔵が刻まれているのかわからなかったので、二つの岩の写真を掲載しておきます。13時37分にここを通る。
その先で道は二股に分かれており、この左手に「右 伊勢道」と刻まれた道標が立っている。手持ちの資料ではここは右へ県道二本木一志線を通るようになっていたが、この道標に従って左手に分岐して田んぼの中の道を進む。
その先で「誕生寺」があるので、寄り道をしてみた。ここは天台真盛宗の開祖である「真盛上人」が1443年に現在の一志町大仰で誕生したことから誕生寺と命名されたというお寺で、寺院自体は明治時代に建立されたという。
その先で大仰橋を渡るのだが、旧道はその先から川を渡っていたというので、橋を渡らず先に進んで渡し場のところまで行ってみた。
右手に天明3年(1783)の常夜燈が立っている。対岸からこの辺りに板橋がかかっていたといい、すぐ横に「大仰有料橋跡」「架設三百二十年記念」と刻まれたまだ新しい石碑が立っている。
すぐ先左手に「成福寺」があり、門前に「真盛上人慈父母菩提所」と刻まれた石碑が立っている。
大仰橋まで戻ってこれを渡り、左折するとすぐ先で道は二股に分かれており、ここは右の細道を進む。この辺りが大仰宿のあったところのようだが、遺構は何も残っていない。
その先で165号線に合流、谷戸峠を登っていったところから165号線から左折して進むと、左手に「薬師地蔵」がある。14時40分にここを通る。
坂を下っていくと右手に15号線が見え、15号線に沿ったところに明治32年の常夜燈とその傍らに「万燈さん」と呼ばれる祠がある。
街道に戻ると、すぐ先右手に「お宮さん」と言われる祠と明治27年の常夜燈が立っている。すぐ先で15号線に合流する。
川沿いの道を進んでいき、その先から15号線から右へ分岐して細道を進んで行き、その先で再び15号線に合流する。田尻の信号で右へ進み、川合高岡駅に15時11分に着く。ここから松阪まで行ってホテルに入る。
本日の歩行時間 7時間39分。
本日の歩数&距離 36675歩、25.7km。
本日の純距離 23.5km。(途中寄り道をせず、道を間違わなかった時の街道だけの距離)