初瀬街道(青越え伊勢街道)を歩く

2018年11月28日(水) ~2018年12月20日(木)
総歩数:129676歩 総距離:92.4km

2018年12月18日(火)

桔梗が丘~西青山

                                晴れ

 10時50分に桔梗が丘1の信号から出発する。
この辺りは団地ができていて旧道は失われているので、一応団地の中のより旧道に近いと思われる道を進むことにする。
 信号を渡ってすぐ左手にちょっとした階段があるので、これを上って団地の中に入っていき、団地を抜けたところで165号線に合流する。
 ここにコンビニがあったので、歩き始めたばかりだし、まだ昼前ではあったが、食べることができる時に食べておくという原則に従って、昼食にする。
 桔梗が丘3の信号で右へ分岐、すぐに左折して進むが、右手に「右 なはりはせ道」「南無阿弥陀仏」「左下 ひなち道」と刻まれた道標が立っている。
右なはりはせ道
 ちょっとした坂を下っていくとT字路に出るので、ここを左折すると、左手に「岩ごさん」と呼ばれる岩がある。この石を持ち帰ったところ、家人が病気になったという言い伝えがあるという。
岩ごさん
 その先で道は二股に分かれているので、うっかり間違って左へ行ってしまった。なんかおかしいと思ってよくよく地図を見てみて間違いに気が付いた。この二股は右へ進むのが旧道だ。進んでいくとT字路に突き当たる。この右手角に地蔵堂がある。
地蔵堂1
旧道はそのまま直進していたそうだが、現在は道がなくなっているので、右折し、すぐ先で左折して進む。
 右手に「美旗古墳群」の説明板が立っている。県下最大級の馬塚古墳をはじめ5基の前方後円墳と方墳が築かれたという。その横に「観阿弥創座之地」と刻まれた石碑が立っている。能楽大成者である観阿弥が、妻の実家がこの地、上小波田だったので、この地で一座を組んだという。毎年11月第一日曜日に能舞台を中心とした、観阿弥まつりが開催されているそうだ。
観阿弥創座之地
 その先で道は二股に分かれており、そこに伊賀ゴルフコースの看板が立っているので、ここを右へ進む。
伊賀ゴルフコース
右手に池が三か所あり、それに沿って進んでいく。静かな山道だ。そのうち道は下り坂になるが、この坂を八丁坂というようだ。
八丁坂
 やがて165号線に合流して進み、右手にコメリがあるすぐ先から右折して前深瀬川に沿って進むが、左手に常夜燈と水神碑が立っている。12時41分にここを通る。
12時41分
 すぐ先右手に「照皇宮」と刻まれた自然石の常夜燈が立っている。
照皇宮
 右手に「献燈」と刻まれた常夜燈が立っている。ここから左折して川を渡る。
献灯
 左手に「安楽寺」がある。ここは天正9年(1581)の戦乱で焼失後、元禄2年(1689)に現在地に再建されたといい、境内には宝篋印塔と青山町内最古といわれる十三重塔がある。
安楽寺
 二股に分かれている道を右へ進むと、右手に大正7年の「常夜燈」と地蔵群があり、「旧初瀬街道」の看板が立っている。
大正7年
 左手に常夜燈が立っており、その前に「初瀬街道 阿保宿」の看板が立っている。阿保宿は上野街道と八知街道が分岐する交通の要衝で、上野、名張とともに藤堂藩から伊賀の地で三か所だけ許された商業の町として栄えたという。
阿保宿
 右手に「庚申碑 青面金剛」と書かれた看板が立っており、青面金剛像や石仏が並んでいる。
青面金剛
 左手に安政7年(1860)の街道一と言われる大きな常夜燈と、その横に延命地蔵がある。13時8分にここを通る。
街道一常夜燈
 ここから街道から外れて右へ進むと、阿保親王墓があるようなので行ってみた。こんもりとした塚があったが、阿保頓宮碑が立っているだけだった。ネットで調べてみると、ここは11代垂仁天皇の第9皇子「息速別命=阿保親王」とされてるそうだ。
阿保親王2阿保親王1

 街道に戻って阿保宿の中を進んで行くと、右手に大村神社の社標が立っており、ここから左折して進む。
大村神社社標
 木津川に架かる阿保橋の手前右手に「菅笠日記抄の碑」が立っている。これは昭和31年に建立されたもので、見出しに「本居大人菅笠日記抄」と刻まれており、明和9年(1772)に本居宣長がここを通ったことが書かれている記念碑だ。
阿保橋手前碑
 川を渡ってすぐ右折、川に沿って進むと、左手に祠があり、その前に「左 うゑの」「右 いせ道」と刻まれた道標が立っている。
左うゑの
 その先で道は二股に分かれているので、右へ川沿いに進んでいくと、右手に3基の水神碑がある。真ん中の水神には天保6年(1835)と刻まれていた。13時45分にここを通る。
天保6年水神
 すぐ先で165号線に合流して進むと、左手に地蔵尊があり、「初瀬街道 世直ししばられ地蔵尊」と書かれているが、説明がないため、詳細はわからなかった。
しはられ地蔵
 この辺りは歩道がなく、車の通行量もそれなりにあるので歩きにくい。
 中山トンネルの手前から165号線から右へ分岐して、旧道を進むと、左手に「旧初瀬街道 天狗亭跡」と書かれた看板が立っている。このあたりは伊賀の中山、あるいは奇岩、絶壁が多いことから天狗岩と呼ばれたと資料に書かれているので、その関係なのだろう。
 トンネルの先で165号線に合流するが、その手前右手のガードレールの向こう側に本居宣長の歌碑が立っている。ガードレールが邪魔をしてよく読めないが、資料によると「河づらの伊賀の中山なかへに見れば過うき岸のいはむら」と刻まれているという。
歌碑
 下川原バス停の先、左手に資料によると「宮川迄十四里 右 いせ(その下の「道」という字は埋もれている)「千時文政九丙戌年(1826)」と刻まれた道標がある。14時19分にここを通る。
宮川迄壽四里
 その先で165号線から右へ分岐して進むと、右手に明治28年の常夜燈が立っている。
明治28年常夜燈
 右手に「善福寺」がある。境内には数多くの墓石を積み上げた墓地が左右にある。
善福寺
 165号線に合流する右手に、伊勢地宿の案内板が立っている。それによると、この地は初瀬街道最大の難所と言われた青山峠の西麓に位置していたため、この地で一夜の宿を求める旅人が多く、20軒ほどの旅籠があったと書かれている。
 案内版の横に「菅笠日記」の一節が刻まれた記念碑とその横に「庚申塔」が立っている。
菅笠日記記念碑
すぐ先で、今度は165号線から左へ分岐して進むと、「村中安全」「太一」と刻まれた文政11年(1827)の常夜燈が立っているので、ここを右へ進む。
文政11年常夜燈
 宿の中を進んでいくと、左手に3人の方がおられたので、本陣の場所をお聞きすると、その横の家が本陣だったところで、お聞きしたその方が今回その家を購入されたといい、すぐ裏山にある「問屋山中半右エ門本陣址」と刻まれた石碑まで案内していただいた。これらの物のお守りをすることを条件にしてこの家を購入されたそうで、現在家を改築中だった。ただ資料では本陣は取り壊されたと記されているので、この調査の後に再建されたのかもしれない。
本陣1本陣2

 その隣が徳田屋で、明治末期まで旅籠を営んでいたという。
徳田屋
 集落のはずれ左手に「妙見大菩薩」と刻まれた石碑が立っており、その先で165号線に合流する。14時53分にここを通る。
妙見大菩薩
 15時3分に165号線から左へ分岐する旧道に入り、青山川に沿って進んでいく。道はかなりぬかるんでいたし、倒木もあったりしたが、しっかりとした道だった。この場所はひょっとすると藪漕ぎをしなければいけないかもしれないと思っていたのだが、草が枯れていたのですんなりと歩くことができた。
旧道1旧道2

 旧道から165号線に合流する場所は藪になっているが、わずかの距離なので問題はなかった。ただ、逆に伊勢のほうから来た場合は入口は見落としがちになるのではないかと思った。資料によると、青山川に架かる新薬師橋から右に入る、となっているが、橋そのものが小さなものなので、見つけにくいと思う。
左の写真が中から見た写真で、右側が外側から見た写真です。15時13分にここを通ったので、旧道を歩いた時間はちょうど10分間だった。
旧道3旧道4

 西青山駅が見えてきた。右手少し高いところに駅がある。事前の調べでこの駅のこの時間帯は毎時13分と29分の二本しか電車はない。15時29分にギリギリの時間なのでかなり急いでここまで来たのだが、どこに駅の入り口があるのかがわからない。道の左手に道があったので、これかな?と思って行きかけたのだが違うようだ。時間はどんどん迫ってくる。これを逃すと16時16分まで電車はないので焦った。ようやく駅の前方に登り口を見つけたので階段を駆け上ったところにちょうど電車が入ってきて間一髪間に合ってほっとする。
15時29分に西青山駅に着く。この後名張迄戻って駅近くのホテルに泊まる。

 本日の歩行時間   4時間39分。
 本日の歩数&距離 21894歩、16.2km.。
 本日の純距離    14.9km。(道を間違えず、寄り道をしない旧道のみの距離)

 

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