伊勢本街道を歩く

2020年01月13日(月) ~2020年01月16日(木)
総歩数:139301歩 総距離:87.2km

2020年01月16日(木)

櫃坂峠~田丸

                    晴れ

 今日は昨日と違っていい天気だ。おそばやさんのご主人に昨日歩いた櫃坂峠まで車で送っていただいて、7時49分に歩き始める。
 櫃坂はいきなり坂道を下り始める。もともと櫃坂を呼ばれていたのは、ここに来る途中で分岐した古坂の方だった。現在櫃坂と呼んでいる道は北畠氏が多気に国司館を築いて以降の道で、当時は間道として使われていて、本道はあくまでも古坂道だったという。江戸時代になり、おかげ参りが盛んになったことから、寛文年間(1661~73)に危険個所を改修して「櫃坂道新坂」と称した。以前通行していた古坂道より近道であったが、急坂で危険個所が多かったため、昭和に入って現在のルートになったという。「櫃坂」の語源は古坂道の北側斜面が急峻で櫃状の地形をなしていたために名づけられたという。
 ここは15丁あって、1丁は約109mなので、約1635mあることになる。丁石が置かれているケースが多いが、ここは標識が立っていた。
丁石
 「朱鉄ノ滝」がある。約5mあるこの滝は以前は名前がなかったが、最近になって櫃坂峠をもっと知ってもらおうと清掃作業をしたときに、この岩を磨いたところ、岩が朱く染まっていることからこの名前が付けられたそうだ。
朱鉄の滝
 櫃坂峠を8時17分に抜けると、十字路になっているので直進、すぐ先で舗装された道を横断すると、階段があり、これを下ると集落がある。右手に慶応2年(1866)の「勢至菩薩」を安置する祠があり、その下に井戸がある。
勢至菩薩1
 すぐ先で舗装道に合流、二又に分かれているので左へ直進する。
 左手から368号線が合流する所、右手に資料によると「左 若宮八幡宮参道」と刻まれている昭和8年の道標が立っている。それ以外にも色々な文字が刻まれているようだが、読み取ることができなかった。
若宮八幡
 右手杉の木の下に「山の神」がある。 
山神1
 その先で道は二又に分かれているので、左へ進み、その先の二又のところ、まだ新しい高福寺の社標が立っている横に「右いせ 宮川へ九り」と刻まれた道標が立っているので、右へ進む。
高福寺
 茶屋橋手前の十字路左手に「左 はせ なら道」「右 阿ららぎ道」と刻まれた道標が立っている。
茶屋橋
 左手に天保5年(1834)の「子安地蔵」碑が立っているところから街道から外れて左へ坂道を上っていくと、子安地蔵を安置する祠がある。
子安地蔵碑子安地蔵1

 左手に仁柿小学校があるが、その校庭に二宮金次郎の銅像が立っていた。昔はどこの学校にもあったものだが、最近ではめったに見かけない像だ。9時10分にここを通る。
二宮金次郎
 左手に「弘法大師の水」と書かれた井戸がある。
弘法大師井戸
 左手に「弘法大師の御堂及び長瀬不動尊の御堂」があり、その横に燈籠と文久3年(1863)の常夜燈がある。
長瀬不動尊
 368号線を一旦横断、その先で368号線に合流するが、この左手杉林の中に資料によると「子自供養津国大坂」「南無阿弥陀仏」と刻まれた万治3年(1660)の供養碑が立っている。
万治3年
 その先で高さ約6m、胴回り11mの大きなまねき猫が立っている。町おこしの一環として地元の藁や竹木を使って作ったもので、多くの方をお招きして交流を深め、地域の方に元気をお届けしたいということだ。
招き猫
 左手に「両泉寺」があり、その前に延宝4年(1676)の「庚申碑」が立っている。
庚申碑
 丁度ご住職がおられたので、資料にある「大界外相」がどこにあるのかお聞きすると、案内をしていただいた。これは先ほどの庚申碑の反対側にある石垣のところにあった。大界外相とはお寺や清浄な場所の境界に立っている結界石の一つで、ここからは聖域ですよと伝えるための物というご説明をしていただいた。9時33分にここを通る。
大界外相
 材木工場がある先から右折して進むと、右手に明治時代の「常夜燈」が立っていて、「両宮献燈」と刻まれている。
両宮献灯
 ここから道なりに左折、その先で右折して進むと右手に二体の庚申像を安置する「庚申祠」があり、その横に常夜燈が立っていて、その横に資料によると「者世(はせ)より是迄十四り 是より宮川へ八り すがの村 行悦」と刻まれた道標がある。
庚申祠
 ここから左折して進み、一旦368号線に合流するが、すぐに左折して368号線から分岐する。
 左手民家の生垣の所に「石敢當」があった。鹿児島や沖縄を歩いた際によく見かけたもので、魔よけの石碑なのだが、その他の地域ではほとんど見た記憶がない。そちらの方のご出身の方なのだろうか?と思った。
石敢當
 左手に「柿野神社」があり、境内には3mを越す天保元年(1830)の常夜燈が立っており、「大神宮 天下泰平 是ヨリ宮川江 七里半」と刻まれている。
柿野神社1柿野神社2

 その先で10時13分に166号線に合流する。ここから先は以前歩いた伊勢南街道・和歌山街道と重なるので、この部分に関しては伊勢南街道・和歌山街道のページをご参照ください。

和歌山街道粟野~大石、大石~松阪 2019年11月23日、34日

 11時28分に伊勢南街道・和歌山街道と分岐するところに来る。
分岐点
 この間、1時間15分で歩いているが、前回歩いた時は1時間57分かかっている。前回は沿道にある文化財の説明を読み、刻まれている文字を確認、メモを取って写真を撮るという作業の時間があったが、今回はそれらの作業がなかったので、42分も早く歩くことができた。これらの作業に随分時間を費やしていることがよくわかった。
 分岐点で右折して進む。
 すぐ先、上出江口の信号がある交差点を左折して700号線を進み、その先で道は二又に分かれているので、左へ進むと、右手に資料によると「延命地〇」「左りは〇」「すく〇」と刻まれた頭部だけ残っている道標がある。
延命地
 その先で一旦700号線に合流、右手につばな幼稚園があるところから、700号線から右へ分岐して進むと、突き当りに貞享5年(1688)の庚申塔がある。
貞享5年
 700号線に合流して進み、下茅原のバス停があるところから再び700号線から右へ分岐して櫛田川に架かる津留橋を渡る。この渡しは昔は宮川の柳の渡しとともに渡川の難所だったという。渡し場の川の中に岩があって、水量を測る目安とされ、この「はかり岩」が水没すると「川とめ」になったという。はかり岩の頭部は現在は流失しているという。
 右手に「左 いせ道」刻まれた道標があり、その前に「右 大師道」と刻まれた道標が倒れていた。
廻国供養碑
 上牧バス停から右へ分岐、すぐ先を左折、その先のT字路を左折して進むと、左手に資料によると「右 はせミち法誉是〇」「左 にうミち秀誉円清〇」と刻まれた「道別れ地蔵」とその横に行き倒れ地蔵、更にその横に「はせ迄十七里 〇〇」と刻まれている「廻国供養碑」が並んで立っている。
道別れ地蔵
 その先、十字路の左手に「道別れ地蔵」が立っていて、下部に「右 いせみち」「左 まつさかみち」と刻まれている。
左まつさかみち
 その先で421号線に合流して伊勢自動車道の下のトンネルを通って進む。
 右手に「南無阿弥陀仏」と刻まれた2本の石碑が立っている。
2本の石碑
 右手に「山神」が二つ並んである。
山上2つ
 右手、不動院前に天明5年(1785)の「仏足跡碑」が立っている。資料によると「経に此相を見れば千劫の重罪を滅すと言へり」と刻まれている。仏足とは釈迦の足跡のことで、仏教が広まったころ、仏像の代わりにこれを拝んだという。地元の人は「足神さん」と呼んでおり、街道を歩く人たちはここを通るとき、この「足神さん」にわらじを奉納して旅の安全を祈願したという。13時8分にここを通る。
仏足跡碑
 右手に「左 丹生大師道」と刻まれた安永6年(1777)の道標が立っている。
丹生大師道
 右手に大正12年の「津田村道路元標」がある。
津田村道路元標
 更にその先右手に「南无阿弥陀仏」と刻まれた弘化4年(1847)の石碑が立っている。
南无阿弥陀仏
 その先で421号線から右へ分岐して進み、T字路を右へ進むと、右手に源義経の家臣伊勢三郎義盛が敵の軍勢を松に登って見張ったという「伊勢三郎物見の松」がある。現在は五代目の松という。その傍らに里人がいぼ落としを祈願した「いぼ地蔵」と行き倒れ道者の死を哀れんで建てたという「廻国供養碑」が立っている。
いぼ地蔵
 松を右手に見ながら進んで行き、その先のT字路を右折、更にその先の同じくT字路を左折して421号線に合流する。
 三疋田西のバス停の右手に、歯が痛いときにこの地蔵にお祈りすると効果があるといわれている「歯痛地蔵」がある。資料によるとこれは道標地蔵で「左丹生山近長谷寺三十町」と刻まれているという。
歯痛地蔵
 五差路があり、その右手に弘化2年(1845)の常夜燈がある。高さ5.5mあって街道では最大級のものと説明されている。
弘化2年 常夜燈
 街道は左から2番目を進み、すぐ先でこれまで来た道に合流する。左手相可高校の前に明治45年の「西行法師の歌碑」があり、その横に集落への疫病の侵入を防ぐといわれる「賽ノ神」と寛政4年(1792)の燈籠が立っている。14時5分にここを通る。
西行法師
 右手に文久3年(1863)の「相可の道標」が立っていて、「伊勢本街道」「すくならはせみち」「右くまのみち」と刻まれている。またその横には「さんぐうみち」「右まつさかみち」「左くまのみち」と刻まれた道標が並んで立っている。この辺りは制札場で、盆踊りを催したので、踊り場と呼んでいたという。
文久3年相可道標
 左手に乳母神を祀る「おんばさん」がある。倭姫命がこの地に来た時、里人が百日咳に悩んでいたので、櫛田川の水を浄めて、この水で子供たちを洗うように教えたため百日咳は治まったという。そのため倭姫命を乳母神として祀ったという。
おんばさん
 黒田山踏切でJRの線路を横断して進んで行くと、右手に水分社(みくまりの社)があり、水分神社と山の神が祀られている。以前はここに清水が湧き出ていて、茶屋で休む旅人の喉を潤したという。土地の人は「しょうずんさん」と呼んで崇めているという。
水分社
 この先も街道は直進しているのだが、工事中で通行できなかったため、少しだけ迂回をして進んだ。そのため地図は迂回した道になっています。
 右手に天保15年(1844)の西池上の常夜燈が立っている。
西池上常夜燈
 左手に「山神」がある。
左山上
 その先で道は二又に分かれており、ここに「すぐさんぐう」「右とばかささぎの中」「すぐならはせ」と刻まれた明治31年の道標が立っている。ここは左へ進む。
明治31年道標
 池上踏切でJRの線路を横断して進むと雑木林の中の舗装された道になる。左手に常夜燈が2基並んで立っていた。
常夜燈2基
 道が二又に分かれているところがあり、標識がなかったので少し迷ったが直進すると、すぐ先に「おいせまいり」の札が下がっていたので、道を間違っていないことを確認できた。
直進
 伏拝坂がある。昔伊勢参りの旅人がここまで来て、お伊勢さんまでの距離を訪ねたところ、「三里山道、五里畷」と聞き、これから先の難儀を思って参拝することをあきらめて、東の空を伏し拝んで残念そうに帰っていったという伝説の場所という説明板があり、その左手の崖の上に「両宮遥拝所献燈 ふしお可巳坂 文政10年(1827)」と刻まれているという石燈籠の一部が見えるのでカメラのズームを大きくして撮影した。
伏拝坂1伏拝坂2

 その先で十字路に出るが、ここにも「おいせまいり」の札が下がっているので、これを見て直進する。このお札は伊勢本街道保存会の方が付けてくれた札だが、迷いそうな場所に的確に下がっていて助かった。
迷いそうな道
 その先で右手に榛原神社の森がある先のT字路を左折、すぐ先で右折して進むと、左手に「山神」があり、その先右手にも「山神」が二つ続いてあった。
山神碑21山神碑22

 左手に「正念僧・人柱供養碑」がある。二百数十年前に正念という老僧がこの地迄来たときに重い病になってしまった。死期を悟った正念は街道を往来する旅人の安全を祈って人柱に立ったという。村人はこれを哀れみ、供養のために塚を築き、碑を建てたという。 
正念僧
 左手に「上田辺羽根遥拝所」があり、その横に常夜燈が立っている。
上田辺羽根遥拝所
 左手に「西國四國供養法名」と刻まれた文化9年(1812)の供養地蔵が祀られている。
文化9年
 すぐ先下田辺北の信号の右手に六地蔵や三界万霊碑が立っている。
三界万霊碑
 「左 はせ道」「右 松坂道」と刻まれたまだ新しい道標ががっているので、右へ進む。
右 松坂道
 右手に「田丸神社」があり、前に天保5年(1834)の常夜燈が立っている。
田丸神社
 次第に暮色が濃くなってきており、先を急いだこともあって道を間違ってしまった。この辺りをウロウロして百五銀行の前に来てようやく道がわかって、道標のところに来ることができた。「紀州街道」「右 さんぐう道」「左 よしのくま乃みち」と刻まれている道標が熊野街道(熊野古道・伊勢路)との分岐点になる。
熊野古道分岐点
 伊勢神宮からここまでは熊野街道(熊野古道・伊勢路)と重なり、すでに歩いているので、今回はここで歩き終わることにする。17時5分にここに着く。ここから一応間違った道を正しく地図上で表示するために道をさかのぼって確認をした。

 本日の歩行時間    9時間16分。
 本日の歩数&距離  53682歩、34.7km。
 本日の純距離     33.7km。(途中、道を間違えず、寄り道をしないで街道だけを歩いた距離)


 伊勢本街道総計
 総歩行時間     26時間40分。
 総歩数&総距離  139301歩、87.2km
 純距離        82.9km。(途中、道を間違えず、寄り道をしないで街道だけを歩いた距離)

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん