阿波街道(志度道)を歩く

2021年12月21日(火) ~2021年12月25日(土)
総歩数:119190歩 総距離:78.3km

2021年12月21日(火)

徳島城鷲の門~板野

                              晴れ
 徳島から高松へ至る道を香川県歴史の道調査報告書では「阿波街道(志度道)(長尾道)」としており、一方徳島県歴史の道調査報告書では讃岐街道と呼称しているので、今回この道を「阿波街道」と呼ぶことにした。また阿波街道は途中で志度道と長尾道に分かれているので、今回は志度道を歩いた。
 
 徳島城は天正13年(1585)に阿波に入国した蜂須賀家政が築城し、以後14代に渡って蜂須賀家が統治した。鷲の門は藩政当初から存在していたが、幕府に鷲を飼うからと申し立てて建造したことから鷲の門と呼ばれたという。昭和20年の戦災によって焼失してしまったが、平成元年に篤志家の寄付によって復元されている。
ここを12時42分に出発する。
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192号線を進み、元町の信号を左折して新町橋を渡り、二つ目の角を右折してアーケードの中を進むが、このアーケードは短い。
次の信号の右手に「井戸寺 七・三km」「恩山寺 十二・0km」と刻まれた平成3年の遍路道道標が立っている。遍路を行ったときによく見かけたものだ。
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その次の角を右折するのだが、左手少し行ったところに「いどじミち」と刻まれた道標が立っている。
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街道に戻って右折して進み、佐古橋を渡るが、渡った右手に「さこばし」と刻まれた石碑が立っている。
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すぐ先を左折して進むと、左手に諏訪神社があり、その門前左手に「まよひご石」がある。この石は約百年前に建てられた、迷い子を探すための石で、全国的にも珍しく、徳島県ではこの一基のみという。昔この地域は文化・経済が栄えて人の交流が多く、そのため迷い子も出ていたため、迷い子をこの石のところに連れてきて、親を探したと説明されている。その横には「大谷」と刻まれた大きな常夜燈が立っている。
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その先で192号線に合流して進み、その先で右折してJR徳島線の踏切を渡る。左手に蔵本駅が見える。13時45分にここを通る。
右手に「恩山寺江四」まで読むことができ、下部は埋まっている文化10年(1813)の道標とその横に資料によると「下総国海上郡の小川村 願主育日智圓」と刻まれた寛政2年(1790)の地蔵尊を祀る地蔵堂とその間に「四丁」と刻まれ、一部欠けている小さな地蔵尊がある。
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右手に「葆光庵」がある。ここは元亀天皇以前から当地に伝承された史蹟で、火伏大師と呼ばれていると説明されている。横に「光明真言供養塔」が立っている。
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30号線を横断した左手に「右一ばん霊山寺 左十七ばん井戸寺」と刻まれた文久2年(1862)の道標がある。
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その奥に「神明神社」があって、境内に地神塔、狛犬、常夜燈、百度石、千度石などがある。百度石はあちこちで見かけるが、千度石はこの先も見かけたが、他の地域ではあまり見た記憶がない。
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右手に1基、元禄4年(1691)の「〇〇信士」「〇〇信女」と刻まれているお墓がある。夫婦のお墓なのかな?
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右手に2体の地蔵尊を安置する地蔵堂がある。
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道が二股に分かれているところに「久保津神社」があり、境内に徳島市天然記念物に指定されている楠がある。以前はここに一里松が植えられていたという。ここは左へ進む。
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 鮎喰川に架かる不動橋を渡り、川沿いに右へ進むと、すぐ左手に「不動院密厳寺」がある。境内には天保8年(1838)の大飢饉による死者の供養のため、弘化4年(1848)に建てられた供養塔が立っている。東北地方を歩いた際には飢饉餓死者の供養碑を数多く見かけたが、その他の地方で餓死者の供養塔を見ることは稀だ。また境内には百度石、千度石もある。
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その横に如意輪寺がある。
その先で道が二股に分かれているところに「雨降神社」 「とくしま」「一ばん大坂」と刻まれた道標とその横に文政10年(1827)の「光明真言供養塔」が立っているので、右へ進む。
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左手に天明4年(1784)の三界萬霊を祀る地蔵堂がある。
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その先で道は二股に分かれており、ここに「雨降神社」の鳥居だけがぽつんと立っている。ここを右に進む。
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右手に不動中学校、左手に不動小学校がある間の道を進んでいく。
左手に大正14年の「阿弥陀橋由来碑」があり、その横に常夜燈が立っている。
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その先飯尾川の堤防の手前の民家の庭に、資料によると文化元年(1804)の常夜燈が立っている。
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堤防に沿って進んでいくと、左手に「神明神社」がある。
堤防にまだ新しい「名田渡し跡」碑が立っている。15時8分にここを通る。
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飯尾川に架かる名田橋を渡る。大きな川だ。
堤防を下ったところ左手に、資料によると嘉永4年(1851)の地蔵尊がある。
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すぐ先左手に少し入ったところに「八坂神社」があり、文化7年(1810)の鳥居が立っており、境内には文化8年(1811)の常夜燈がある。
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すぐ先左手に文政3年(1820)の地蔵尊を祀る地蔵堂がある。
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左手に「千光寺」がある。社殿は最近建て替えたようでまだ新しい。資料では享和改元年(1801)の常夜燈があるとなっているが、この写真の常夜燈なのだろうか?よくわからなかった。
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すぐ先の角に安永3年(1774)の地蔵尊がある。
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右手に「八幡神社」があり、境内に町指定天然記念物のクロガネモチの巨木が立っている。
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右手に「右遍路道 左徳島道」又資料によると台座に「是井戸寺迄五十七丁 昇仙寺迄四十弐丁」と刻まれている宝暦4年(1754)の道標地蔵がある。
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ジェイテクトという会社の周囲を回るようにして進み、1号線を横断して進むと、右手に安政3年(1857)の「龍池の地蔵尊」がある。このあたりはかってカクジの浜と呼ばれていて藍の出荷で賑わった港があり、この地蔵尊は台座を含めて4m近くあるため、ここに出入りする船の標識になっていたという。吉野川の洪水から地蔵尊を守ろうとするなかから、このような高地蔵が生まれたという。
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左手民家の庭に嘉永5年(1852)の供養塔があり、資料によると「国家安全 秩父 坂東 西国 聖観世音菩薩東条金」と刻まれており、その左右に地蔵尊と供養碑が2基並んでいる。
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左手電柱の陰に資料によると「埴安姫命 倉稲魂命 天照大神 大己貴命 少彦名命」と刻まれた地神塔が立っている。
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左手に板野支援学校入口があるところ右手に地蔵堂がある。
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大寺橋を渡った右手に「大寺渡し跡」のまだ新しい碑が立っており、その右手少し行ったところに「延命尊」と刻まれた資料によると明治12年の地蔵尊を祀る地蔵堂がある。
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その先で16時42分に板野駅に着き、徳島の宿まで引き返す。

本日の歩行時間   4時間。
本日の歩数&距離 22758歩、15.6km。
本日の純距離    15.4km。(途中、道を間違えず、寄り道をしないで街道だけを歩いた距離)

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