阿波街道(志度道)を歩く

2021年12月21日(火) ~2021年12月25日(土)
総歩数:119190歩 総距離:78.3km

2021年12月24日(金)

丹生~屋島

                            晴れ
 8時10分に昨日歩き終えた踏切から出発する。
右手に寛保3年(1743)の「土居地蔵」がある。資料によると「為三界萬霊」と刻まれているようだ。
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右手に池があり、その淵に嘉永3年(1850)の常夜燈が立っている。
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すぐ先右手に「天神神社」があり、本殿前に天明7年(1787)の常夜燈が立っている。11号線から右へ分岐して進む。
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その先で11号線に合流したところ、左手に天保7年(1787)の地蔵尊がある。
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11号線から右へ分岐した池の淵に「篠姫龍神宮」があるが、由来はわからなかった。
その先左から道が合流するところ、左手に「櫓掛神社」がある。ここは宝暦の明細帳には櫓掛大明神と記されていて、旅立ちの守護神として人々の信仰を集めていたという。本殿は安政2年(1856)に再建されたという。ここは以前から百年祭が執行されていて、近年では平成15年に執行されたという。
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さぬき市に入るところ右手に「是より西鶴羽村」と刻まれた道標が立っている。
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右手に地蔵堂があり、その奥に嘉永4年(1851)のお墓や宝篋印塔が立っている。
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右手に青木海水浴場が広がっている。四国は四万十川に代表されるように川の水がとてもきれいだが、海もこうしてみると水がとてもきれいだ。
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左手に5体の地蔵尊が並んでいる。1体のみ「三界万霊」と刻まれていることを読み取ることができた。
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左手に祠があり、左右に石碑と地神塔が立っている。さらにその先右手に祠の中に庚申塔と地蔵尊が安置されており、その横に石仏が4体並んでいる。
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左手に「津田石清水神社」がある。ここは仁和年間(885~888)に山城国(京都男山)の石清水八幡宮の分霊を勧請したことが始まりで、天正11年(1592)長宗我部軍の兵火により衰退したが、文禄元年(1592)に再興し、慶長5年(1600)に現在地に遷座したという。入口には安政3年(1857)の常夜燈が立っている。この辺りは津田の松原と呼ばれる県下最大の海水浴場だが、この松原は樹齢600年とも言われるクロマツをはじめとして、約3000本の松が生えている。10時18分にここを通る。
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右手に本尊が恵心僧都作の阿弥陀如来という「光西寺」があり、その先左手に「志度 八栗 高松 通行 左側 建者升川」と刻まれた道標が立っている。
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右手に「左 やくり道」「右 白とり道」と刻まれた明治42年の道標が立っているので、ここを左折する。
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すぐ先で右折して進むが、ここはカラー舗装になっている。
右手にお堂が二つ並んでいるところから左折して進むと、右手に「実相寺」がある。実相寺は天平3年(731)に行基菩薩が建てたもので、天正年間の長宗我部軍による戦乱で本堂と山門を残し全て焼失したが、萬治2年(1659)に再興された。しかし昭和8年の火災で山門のみを残して焼失、更に昭和20年の戦火ですべて焼失、昭和53年に現在地に移転、復興されたという。
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すぐ先を右折、その先を左へ進むと、橋の手前左手に「津田橋地蔵尊」という地蔵堂があり、資料によると元文3年(1738)の地蔵尊が安置されている。その横に「俗名 鉞弥竹墓」と刻まれた文政11年(1828)の墓石が立っている。相撲とりの墓ということだ。
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その先で11号線に合流、さらにその先で道は二股に分かれているので、左へ進むが、左手少し入ったところに「長福寺」がある。明治37年に本堂改築工事中に文明12年(1480)の古銭が約300枚詰められた壺が発見されたという。
また本尊の藤原時代に造られた木造薬師如来坐像は国指定重要文化財になっている。11時33分にここを通る。
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左手に地蔵堂があり、その横に資料によると「㖦美 門人 錦川段造墓」と刻まれた文化8年(1811)の墓石がある。
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右手に地神塔があり、その先で川に突き当たるところに文化12年(1815)の燈篭と「左 白鳥道 右 高松道 鴨部八幡神社」と刻まれた文化12年(1815)の道標、さらにその横に鴨部村道路元標が並んで立っている。
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ここを右折して鴨部川沿いに進んでいく。この道は道路工事がされていて、車の流れは少ないのだが、それでも少し歩き難いし、その先で11号線に合流して左折していくので、途中右岸から左岸へ渡って歩いていった。ところが11号線の橋まで来ると右岸のところにスーパーがあったので、ちょうど昼になったことでもあり、ここで昼食を食べることにして、再び右岸に移動して、昼食にした。これから先食事をするところがなかったので、これは正解だった。
その先で11号線から右へ分岐して細道を進むが、左手に3体の地蔵尊を安置する地蔵堂がある。
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その先で小さな階段を登って11号線に合流すると、左手ゴルフセンター入口のところに不動王と2体の地蔵尊が祀られている。
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天野峠というバス停の横にうどん屋があり、その駐車場の横に「子育て地蔵」がある。この地蔵に願掛けすると母乳がもらえるという言い伝えがあるという。
その横に石仏が3体並んでいる。
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その先で道に迷う。11号線を進んでいくが左手下に旧道らしき道があるのを見つけたが、どこからその道に合流していいのかわからない。大川自動車センターという会社があり、人がおられたので道をお聞きすると、少し遡ったところに11号線から左へ分岐する道があるので、それを下ればいいと教えて頂いたのでその通りにすると旧道に合流することができた。うどん屋のところから下る道はなくなっていた。
右手に「金刀比羅神社」がある。資料では鳥居は嘉永5年となっていたが、新しいものに変わっていた。すぐ先に「大橋」の石柱がある。これは平成16年に見つかったもので、大橋川と呼ばれる志度村で一番大きな川に架かっていた橋の石柱という。
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右手に八十六番札所志度寺がある。遍路旅を二回したのでここにも二回来たことがある。結願までもう一息だと思ったことをよく覚えている。14時2分にここを通る。
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右手に志度寺の奥の院という「地蔵寺」がある。
その先街道から少し左へ行ったところに「雲間山 石鉄大権現」と刻まれた嘉永5年(1852)の常夜燈と資料によると「天満宮」と刻まれた道標が並んで立っている。
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右手に資料によると「八十五番へ六十丁」「八十六番へ七丁」「高松 片山芳太郎」と刻まれた道標とその横に慶應3年(1867)と読むことができる道標と、もう一つやはり折れた石碑が並んでいる。
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右手に「眞覚寺」がある。この寺は慶安4年(1651)にこの地に移転してきたという。ここにはかっては日本一の松と呼ばれた「岡野松」があったが、1993年に枯死したという。現在は後継樹が植えられているが、香川の保存木になっている大きなクスノキが立っている。
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左手に「平賀源内旧邸跡」がある。源内は高松藩の軽輩御蔵番の子として志度町で生まれたという。
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左手に「用心掘 御蔵掛 邦二」と刻まれた嘉永4年(1851)の常夜燈が立っている。高松藩の年貢米を収納する米蔵の一つがここにあり、御蔵の用心のため建てられたという。
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左手に「八十六番夛田 志度寺」と刻まれた道標が立っている。
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右手に弘化4年(1848)と刻まれた鳥居が立っており、左手に「志度寺 長尾寺」と刻まれた明治29年の道標が立っている。
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11号線を横断した右手に「幡羅八幡宮」がある。この神社は奈良時代の藤前大明神に始まり、全国二百社の一つの大社だったという。また、源平合戦で源義経がこの神社の境内で一夜を過ごしたという伝説もあるという。鳥居の額には「原八幡宮」と刻まれている。14時55分にここを通る。
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JRの高架下の左手に不動明王と地蔵尊が並んであり、すぐ先左手には元結(一里松跡)の説明板が立っている。
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左手に資料によると「衆力合成 願主阿生」と刻まれた宝永4年(1774)の地蔵尊を祀る地蔵堂とその横に地神塔が立っている。
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JRの線路の手前左手に寛政と読むことができるので、資料にある寛政10年(1798)の常夜燈だろう。
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左手に西林寺がある。源義経の本陣があったと伝えられているそうだ。15時52分にここを通る。
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川沿いの道を進み、地蔵橋を渡って対岸へ渡る。その先で11号線を横断する手前の対岸に地蔵尊があり、横に「妙玄信女」と刻まれた墓石が並んでいる。
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左手に源平合戦の際、義経の身代わりになって戦死した佐藤継信の墓と義経の愛馬として一の谷の合戦で活躍し、その後義経から継信に賜った太夫黒の寛永20年(1643)の墓がある。
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その横に景行天皇皇子神櫛王墓がある。
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16時33分に歩き終わり、屋島駅へ向かう。

本日の歩行時間   8時間23分
本日の歩数&距離 42565歩、27.5km。
本日の純距離    25.4km。(途中、道を間違えず、寄り道をしないで街道だけを歩いた距離)

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