薩摩街道を歩く

2008年06月30日(月) ~2008年11月28日(金)
総歩数:393032歩 総距離:252.6km

2008年07月01日(火)

JR八代駅~JR有佐駅~八代~日奈久~肥後二見

                              
                               晴れ
 八代駅からJRで有佐駅へ戻り、7時40分に昨日歩いた街道地点に到着、歩き始める。
 今朝は快晴。歩き始めると暑い。
  歩き始めてすぐのところに「旧井芹家」がある。ここは天保3年(1832)頃建てられたと推測されている。井芹家は天保の頃,細川氏より侍株を買って独立したとされ、明治6年(1873)に書かれた家相図が存在している。それによると本家の裏に宝蔵や酒造場などが描かれていることから、当時は醸造業を営んでいたようだ。現在の建物はこの家相図の吉凶により、増改築が行われたと考えられていると説明されていた。それにしても侍株というものが売買の対象になっていたとは知らなかった。
井芹家
 そのすぐ横に「旧井芹銀行本店」がある。井芹銀行は大正7年(1918)、県下でも有数の大地主だった井芹康也氏を中心に、熊本市内にあった九州実業銀行を買収して設置され、大正9年(1920)に宮原町に本店を置いて開設、営業を開始した。 大正14年(1925)に現在地に新本店を移し、昭和17年(1942)肥後銀行に合併され、その後、昭和44年まで宮原支店として使用されていたという。
 井芹銀行本店
 更にそのすぐ先に「親地蔵、子地蔵」がある。
 慶応2年(1867)の秋、薩摩街道沿いのこの川の淵の前で、旅人の母娘が座り思案に暮れていた。哀れに思った通りかかりの人が尋ねると、「夫を探しています」ということだった。おなかをすかした女の子に、付近の人がご飯を上げると母娘は涙ぐみ合掌した。しかし翌朝、身を投げたと見られる二人の遺体が淵に浮かんでいた。付近の人はお寺にお経を上げてもらい、段の山に埋葬。翌年には二度とこのようなことが起きないように、川の淵を埋め、川を浅くした。明治2年(1869)には二人の霊を供養するため、親子二体の地蔵を建立した。それがこの「親地蔵」「子地蔵」といわれていると説明されている。
親地蔵。子地蔵
 またここには宮原歴史資料館があったが、まだ朝が早いため閉まっていた。
 「是従原票九里」の標識が立っていた。かなり古い碑だ。
九里
 このあたりを歩いていると、丁度子供達の登校時間帯であり、何人もの子供達とすれ違った。子供達は元気のいい声で「おはようございます」と声を掛けてくれる。四国を歩いたときにも同様の経験をしたが、こうして挨拶をしてくれると気持ちがいい。こちらも大きな声で「おはよう!」と挨拶をする。
 大王山古墳の看板が立っている。このあたりは古墳が多いようだ。
 「早尾六地蔵」がある。ここは薩摩街道と(五木村へ通じる)旧四浦往還の接点三叉路であり、今寺に通じる追分の六地蔵である。昭和初期まで,ここには五本松という松の大木があって景観地だった。六地蔵は地蔵菩薩が六道(地獄、飢餓、畜生、修羅、人間、天界)の能化として説かれ、その信仰が発展して日本で考案された六人の菩薩が各々六道を守護し、人々を救済するといわれている。
六地蔵
 旧道のすぐ横に3号線が並行して走っており、車の通行量は多いが、旧道は静かだ。
 「九里木跡」が立っていた。ここには榎と松が植えられていたそうだが、30分ほど前に立っていた「是従原票九里」の碑との関係はわからなかった。
九里木跡碑
 「谷川第一号古墳」の看板が立っていたので少し街道を外れて行ってみた。
 ここは「鬼の岩屋」と呼ばれている巨石墳で、主に長さ2~3m程の安山岩を使ってコの字形に構築した横穴式石墳だ。本来は周溝を有する直径10m程の円墳であったと考えられている。築造年代は6世紀後半から7世紀初頭と考えられていると説明されている。
谷川第一号古墳
 「十里木跡」が立っており、そこから約一時間ほど歩くと「光徳寺」がある。
 ここは天正15年(1587)明信が海士江村に創建し、現在地に移ったのは寛文元年(1661)で、東本願寺第八代講師易行院法海が建立した。明信の先祖は後醍醐天皇の忠臣名和長年で、そのため名和氏の「帆掛け船」紋がいたることろに使われていると説明されている。西南の役のとき、ここは官軍の本陣となった。
 光徳寺
 ここの境内にはとんちで有名な彦一塚が立っており、その横に,寺がこの地に移ったときに植えたといわれる樹高17メートル、樹齢300余年のいちょうが立っていた。
 八代に入ると日本製紙八代工場の裏を通っていく。その後八代市のアーケード街の中を通り、右手に肥後銀行のある信号のところを左折して進むと、前川橋の手前に札ノ辻がある。
 このあたりは徳淵の津と呼ばれた良港で多くの船が出入りしていた。ここには十一里木跡があり、「札ノ辻原票之地」の碑が立っている。またこの地は仁徳天皇の時代に九千匹の河童が中国から泳いで渡ってきたと伝えられており、「河童渡来之碑」として大きな河童の碑が立っていた。
 河童渡来之碑
 ここでカウントする。
 11時11分、八代宿を通る。
 小川宿から3時間46分、26053歩、18.5km。
 球磨川に架かる植柳橋を渡り、植柳小学校の横を通って進むと3号線に合流する。
 八代市医師会病院の前から左手旧道に入って進むと肥後高田駅の前に出る。旧道は肥後高田駅を越えて向こう側に続いているようだったが、渡る道が分からず駅を左手に見ながら進み、その先にある小さな踏切を渡って駅の反対側に行ってみた。
 ここから駅の裏側に旧道は続いていたのでいってみたが、お墓があり、そこで行き止まりになっていた。ここから戻る途中で道を間違えた。もう一度踏み切りを渡って戻ってこなければいけなかったのだが、そのまま踏み切りを渡らず、左折して先に進んでしまったのだ。少し先に「平山瓦窯跡」があった。ここは南九州西回り自動車道建設工事の際、三基の瓦窯跡が出土した。出土した瓦の製作技法と加藤家の家紋である「桔梗紋」や「かたばみ紋」がついていること、更には磁気年代測定の結果から、江戸時代初期加藤家が麦島城城郭の瓦を焼かせたものだろうと説明されており、当時の姿が復元されていた。
平山瓦釜跡
 道を間違っていることが分かったので元に戻り、JRの線路沿いに続いている旧道を進む。線路の向こう側に児潟食鶏という工場がある。八代ドライビングスクールのところでは旧道が途切れているので、一旦3号線に出て歩き、その先で再び左折して線路際にある旧道に戻る。しばらく進んでいくと、資料では旧道は線路の向こう側に行くようになっていたが、道がなかったので3号線を歩く。
 日奈久に入り、JR日奈久駅があったので、ここで少し休憩をとる。
 日奈久は県下で最も旧い歴史を持つ温泉街だ。応永16年(1409)濱田太郎左衛門が、延元3年(1338)の戦いで数々の刀創を負った父濱田右近の治療をしようと神に祈り、この温泉を発見したといわれている。江戸時代初期には細川家の藩営浴舎があり、八代松井候や参勤途中の島津候もここをよく利用されたと説明されている。
 3号線から左斜めに進む旧道があり、温泉街の中を歩いていく。歴史があるだけに古い温泉街だ。
 日奈久宿本陣跡は岩崎本陣跡の看板があったが、現在は空き地になっており、そのすぐ裏に日奈久岩崎コレクション、酔心館という建物があった。岩崎氏が収集したコレクションを展示しているということだった。
日奈久本陣跡酔心館

 ここでカウントする。
 14時46分、日奈久本陣跡を通る。
 八代宿から3時間35分、17391歩、9.6km。
 温泉街を抜け、一旦3号線に合流した先、下西町のバス停の先から資料は線路を越えて進むようになっており、実際道があったので進んでみた。しかしこの道はこの先の線路と交叉するところで行き止まりになっていたので、3号線に戻って進む。
 鳩山という海に飛び出した形の岩山があり、その前に「十四里木跡」が立っていた。
 十四里木跡碑
 更にその先、白鳥公民館の横に「西南戦争政府衝背軍上陸地」の標識が立っていた。
 明治10年3月19日、黒田清隆率いる政府最強の衝背軍は風雨の中、この地に上陸を行った。上陸を許した薩軍は反撃をすることもなく敗走した。政府軍が衝背作戦にこの地を選んだのは地理的、軍事戦略的に、この地が最適と判断したということが説明されていた。
 政府衝背軍上陸地碑
 午前中は快晴で雲ひとつなかったのだが、午後から雲が出始め、このあたりで雨がポツポツと落ちてきた。今夜から雨の予報だったが少し早く降り始めたようだ。梅雨の真最中ということで三日続けて雨が降らないということがなく、そのため雨の日は歩かないことにしている今回の旅は一泊二日ばかりだ。
 肥後二見駅に15時40分に到着する。
 二見駅
 時間的にはまだ早いのだが、これから先は難所である三太郎峠の一つ、赤松太郎峠にかかる。峠を越えるにはこれから10km以上あり、その間は山の中で帰る交通手段がないので、今日はここで終わることにして駅へ行ってみた。ここは無人駅で周囲にはなにもなく、汚れた椅子が少しあるばかりでやぶ蚊がブンブン飛んでいる。時刻表を見ると次の列車まで約一時間ほどある。先ほど日奈久駅で休んだときに時刻表を見て、16時11分があったことを思い出し、日奈久発の列車があるのだろうと判断。ここから日奈久までバスかタクシーで戻ろうと思い、国道のほうへ行ってみた。バス停があったので時間を見たが、これも本数が少なく当分通らない。仕方がないのでタクシーを呼ぼうと思ったが、流している車などない。タクシー会社の連絡先を調べようと思っていると、丁度すぐ横で男性の方が車に乗ろうとしていたので、タクシー会社の電話番号を尋ねた。そうするとどこまで行くのかと聞かれたので、これこれの理由で日奈久駅まで行きたいというと、それじゃ自分も日奈久まで行くので送っていってあげようということになった。恐縮しながらも助かったと思って送っていただく。タクシー会社はこの辺りにはなく、日奈久から来てもらわなければならないそうだ。
 日奈久駅に着き、お礼を言って降りて改めて時刻表を見ると、確かに16時11分があるのだが、なんとその下に小さい文字で土、日祭日運転と書かれている。温泉客を考慮したダイヤなのだろう。結局、肥後二見駅で乗ることと同じ列車になってしまったが、それでも日奈久駅のほうが設備が整っており、待合室に大きなテーブルが備えられていたので、それを使って今日の日記を書くことができた。
 16時35分の肥薩おれんじ鉄道に乗り、新八代、博多で乗り換えて小倉には19時16分に到着した。

 本日の歩行時間  8時間。
 本日の歩数&距離 45885歩、28.7km。