薩摩街道を歩く

2008年06月30日(月) ~2008年11月28日(金)
総歩数:393032歩 総距離:252.6km

2008年11月26日(水)

牛ノ浜~西方御仮屋~上川内~JR川内

                               晴れ
 5時29分、黒崎駅からJRに乗り、出水駅まできて、ここから肥薩おれんじ鉄道に乗って牛ノ浜に出る予定だった。ところが出水駅でちょっとしたことで乗り遅れてしまった。目の前を出て行く電車を見送る情けなさ。でも仕方がないとあきらめて次の電車をみると何と1時間半後だ。これには参った。バスが通っているかもしれないと思い、時刻表をみると30分後に阿久根までいく便があるので、これに乗ることにした。阿久根から先はもう一度乗り換えて牛ノ浜まで行くことになる。結局予定より一時間遅れて牛ノ浜に到着する。薩摩街道はマムシに出会ったり、暑さでフラフラになったり、乗り遅れたりと散々だ。
 牛ノ浜駅の前を通っている3号線をしばらく歩く。このあたりは右側が海に面しておりとても景色がいい場所だ。若かった頃に鹿児島で仕事をしていて、出張でここを通るとき、沈む夕陽を眺めて感動したことを思い出す。
阿久根海岸
 長迫入口の信号から左斜めに伸びる緩やかな上り坂を歩く。陸橋が上を通っているところがあり、そこが頂上のようだ。道はここから下り坂になり、二股に分かれているところに来る。左手に鉄格子でできたゴミ箱があり、これが目印で、ここから右斜めの上り坂を上っていく。ここは前回丸目さんから案内をしていただき、間違いやすいところなので注意をするように言われた場所だ。
 やがて道は草道になって下っていく。道の両側は藪でいかにも旧道という感じになる。
長迫分岐点
 下ったところに「フドソンの墓」の案内板が立っている。「フドソンとは不動尊・不動明王のことで山伏、修験者、彦山は兜巾を被り、篠懸を着、草鞋を履き、笈を背負い錫杖を持っている。この姿は不動明王と一体になることを意味するという。藩政時代、上納の際、枡取役人に不正をしないように忠告をした修験者〈山伏)が役人の怒りに触れ切られてしまった。ここはその修験者を葬ったところと伝えられている」と案内板に書かれている。
 フドソンの墓
 その先右手に大川小学校があり、道を挟んで大川中学校がある。最初この二つの学校の間の道を歩きかけたが、地図を良く見ると大川中学校を右に見て歩くようになっていたので、戻って歩きなおす。ここにお店があったので昼食用にパンを買っておいたが、この後、店がなかったので正解だった。いつものことながら飢餓状態回避に心を配る。川に接する手前で右折、そのまま進んで左折して橋を渡り、その先の寺下踏切でJRを越えて進む。線路に併行して進み、薩摩大川駅へ向かう道の少し手前で左折して坂を上る道があるので、これを上っていく。
 右手に「松岡神社」がある。ここには「雪渓の墓」がある。島津義虎が東郷氏と十数年戦い、このままでは住民を苦しめるだけと思って雪渓を和議の使者として東郷氏のもとへ送ったが和議は調わず、戦になって戦死してしまった。雪渓和尚の墓はもと長寿寺にあったが、ここに移されたと説明されていた。
雪渓の墓 
 尻無川に架かる竹之迫橋を渡って進むと上り坂になる。これ以降も今日はアップダウンが多かった。峠の頂上に来ると右手に海が広がって見える。眺めがいい。
頂上からの眺め 
 やがて峠を下り、鈴木段の集落を通っていく。このあたりには囲いをしたお墓が立っている。ちょっと沖縄のお墓に似ている。お墓
 道は段々細くなり、やがて鈴子踏切でJRを越えて3号線に合流する その先で3号線は左折し、JRのガードをくぐって進むが、旧道はそのまま直進して海沿いの崖の上にある道を進んでいく。崖に打ち付ける波の音がザブンザブンと響いてくる。
 その先で跨線橋を渡るとすぐ先で道は二股に分かれており、ここを右斜めに進んでいく。
分岐
 少し行くと左手に牛舎がある。口笛を吹くと「なんか用か?」とでもいうように牛がこちらのほうに寄ってきた。なんとなくかわいい。
 牛
 やがて道は墓地の中を通っていく。その先左手に西方寺がある。西方川に架かる西方橋を渡るが、すぐ右手は海に繋がっている。
  右手に「潮見寺」がある。ここの道路に面した境内に「地頭別館地跡」と刻まれた石碑が立っている。「口伝によるとこの石積の石は島津藩主が基礎及び東石に使われていた由」と書かれた案内板が立っていた。
潮見寺地頭別館碑
  またこのお寺の両側の柱に木を彫った狛犬が飾られていた。木の狛犬を柱の上においているのはあまり見かけないように思う。
狛犬
 ここの境内で昼食のパンを食べる。
 そのすぐ先に「西方御仮屋跡」がある。御仮屋とは参勤交代の際、藩主以下随行の人たちが宿泊した場所のことで、川内市内には西方町と向田町にあった。西方御仮屋は慶長7年(1602)に当時の藩主島津家久によって設置され、現在の潮見寺を含む一帯にあったとされている。西方御仮屋の北西約200mには異国船の通行を監視する遠見番所も設置されていたと説明されている。
 西方御仮屋 
 ここでカウントしておく。
 12時29分、西方御仮屋跡を通る。
 阿久根宿から4時間50分、22475歩、18.4km。
  その先、西方小前の信号で3号線に合流するが、その右手に鹿児島県建築士会川薩支部が立てた薩摩街道の道標が立っている。このあたりはこうした道標が各所にあってとても歩きやすかった。
建築士境界
 しばらく3号線を歩くが歩道があるので歩きやすい。前方3号線に沿った海に人形岩が見えるところで330号線に沿って左折して進む。この角に人が風呂に入っている姿があったので一瞬驚いたが、よく見ると西郷隆盛愛好の湯の宣伝人形だった。
西郷どん人形 
 JRの踏切を渡って進む。本来の旧道はもう少し先から左折して進み、その後で今歩いている道に合流するということだが、途中で消滅していて分かりにくいということだったので330号線を進む。
 右手に「陰陽石」の標識があったので行ってみた。かなりの藪の中を分け入ったところに大きな岩が二つあった。これが陰石と陽石なのだろう。陰陽石は各地にあって、生産の神として農民の五穀豊穣の願いをかなえる神として信仰を集めていたようだが、ここには説明文はなかった。 
陰陽石 
 街道に戻って進むと道標が立っているのでそれに従って右斜めに坂道を下っていく。ここは舗装されており手すりまで着いていてきれいに整備された道だ。山道から出てきたところにも道標が立っており、右折して進む。川内地区は丸目さんが代表をされている薩摩街道保存会の方が、数多く道標を立ててくれているので非常に歩きやすい。
 しろたぶ
 湯田小学校、高城西中学校を右手に見ながら進むと、右手に菅原神社跡の標柱が立っている。菅原神社は貞治3年(正平19年)当時の城主高城左衛門尉重躬が創建した神社で、湯田地区では最も古い神社だ。「しろたぶ」の木は御神木として地域の盛衰を見守ってきたが、平成5年に600年あまりの天寿を全うした。現在はこの木の根に生えてきた二代目を育て、ここに植わっていると説明されている。
 その先のY字路を左斜めに進む。最初の角を右折して小川のほうへ進み、小川に突き当って左折、小川に沿った草道を歩いていく。ここはかなりの距離がある。やがて車道に合流し、右折して車道を進んでいったのだが、資料にある「田ノ神サマー」がない。これが目印になっているので、見つからないと道を間違ってしまう恐れがあると思い、丸目さんに電話をして確認をする。色々と教えていただいたが分からず、結局最初の場所まで戻ってもう一度やり直すことにしてみた。そうすると小川の草道から車道に合流する少し前に岩に綱を巻きつけた「田ノ神サマー」があった。
田ノ神サマー
 ここよりも先で車道に合流していたから分からなかったのだ。ここから急な坂道を上っていくと両側は岩石がむき出しになっており、それを落石防止用の金網で覆っている。
絶壁ロープ
 ここから下り坂になり、その先で車道は左へカーブするが、旧道は直進する。
  ここも道標が立っており、それに従って坂道を下っていく。途中で注意を要する箇所があったが、その横に「薩摩街道危険箇所 足元注意」という川内市教育委員会の標柱がたっていた。この標柱もこの後何本も見かけた。表示が行き届いている街道だ。
危険表示
 山を下ったところにも道標が立っており、ここから右折して進むと「一條神社」が右手にある。ここは六十六代一条天皇の長保の頃、新田宮の夏越し祭に院使がきたが、役を終えて帰京の途中、この地で亡くなってしまった。村人はその霊を崇め奉って一條妙見と称したと説明されている。
  一条神社
 麦之浦川に架かる橋を渡って340号線に合流し、しばらく340号線を歩いていくと、二股に分かれるところがあり、ここにも道標が立っているので、それに従って左斜めに進んでいく。山際の道を歩く。人は誰も通ってなく静かだ。
山際の道
 陽成町を通る。このあたりは区画整理が行われて道路が拡張されたそうで、旧道は失われているが、民家の横などに僅かに昔の面影が残っているところがある。
 「中麦石塔郡」がある。これは約800年前の鎌倉期のもので、鎌倉から室町にかけて高城、水引方面に在地領主として活躍した武光氏のものではないかといわれているそうだ。またこの付近の地名を射場迫といい、昔、射場があったところと思われると説明されている。
中麦石塔郡 
 「ヒキレ神様」と呼ばれる巨木が立っている。この神様は子供が百日咳にかかったとき、子供の歳の数だけ火吹き竹を作って、持って行って拝むと治るといわれているそうだ。
ヒキレ神様
 その先、鞘脇のバス停から左へ入って行く旧道を進む。きれいに草が刈られている。先々週に薩摩街道保存会の皆さんが草を刈られたそうだ。お陰で歩きやすい。
 「イボ神様」がある。人に知られないように夜か朝暗いうちに「私のイボを取ってくれたら、歳の数だけ豆を煎ってあげます」といって拝むと治るという伝承がある。石像の横に「秋禅覚尼」、元禄5年10月9日(1692)と書いてある。ここの通りが薩摩街道で唯一原型を留めている場所だと説明されている。
イボ地蔵
 ここから少し行くと急な下り坂になっており、ここにも「危険箇所」の標柱が立っており、手摺代わりのロープが張られている。 急な下り坂
 こういった状況をみると街道を大切にしているなと感じる。こういう活動が薩摩街道全体に広がれば、もっといいと思うのだが。
 「西郷どんの腰掛石」がある。西郷どんがここに腰掛けたのだと思って私も座ってみた。座り心地はなかなかよくて、安定している。
西郷どん腰掛石
 「耳切坂」にかかる。ここも昔の風情が残っている場所だ。ここは雨が降ると道が川になるようで、地面はかなり湿っていた。雨の日にここを歩くと大変だろうなと思いながら坂を上る。ここにも「危険箇所」の標柱が立っている。
 耳切坂
 「梶蔵跡」の案内板が立っている。江戸時代薩摩藩は紙の原料となる楮を畑の土手に植えることを奨励し、楮の皮を納めることで税のかわりにした。乾燥した楮の皮を入れる蔵がこのあたりにあり、楮のことを方言で梶ということから梶蔵と呼ばれていた。近くには小さな製紙工場もあり、農閑期には家族ぐるみで紙を作る紙屋さんもあったそうですと書かれていた。
 「西郷どんの手水鉢」が左手にある。弘化3年(1846)岩永三五郎の設計で石造りの美しい眼鏡橋の妹背橋が架けられたが、この工事に座書役として従事したのが18歳の西郷隆盛だった。竣工までの3年間宮園さん宅に奇遇し、朝夕この手水鉢を使ったと説明されている。
西郷どん手水鉢 
 高城川に架かる妹背橋を渡るが、その手前右側に行ったところに妹背橋についての説明板がある。ここも丸目さんに教えていただいたところだ。それによると初代妹背橋は木造桁橋であったと思われ、その後弘化3年(1846)に第二代妹背橋は石造り眼鏡橋に造りかえられている。この石橋は二連の角石をアーチ型に組み合わせ、高城川の洪水の激流に耐えられるように、底辺は特に大きな角石を敷き詰め、底堀りによる流失を防ぐように設計された優美な眼鏡橋だった。熊本県出身の名工岩永三五郎がこの橋の設計を行ったが、岩永はこのほかに甲突川の五石橋をはじめ三十五の石橋を架橋し、川内市出身の阿蘇鉄矢とともに石橋造りに尽くした人物として有名だ。また二十歳の西郷隆盛が工事の監督を行ったとされている。三代目、四代目の妹背橋は鉄筋コンクリート橋に変わっていると説明されている。
 橋を渡るとすぐに道標があり、左折して進む。右手に京セラの大きな工場があり、その裏を通って進む。高城郷の野町跡の案内板が立っている。それによるとこの通りは薩摩藩公認の野町〈商業町)のあったところで、紺屋〈染物屋)、人形屋、焼酎屋、旅籠などが軒を連ね、賑わっていたと書かれている。町並みもなんとなく昔を感じさせるものがある。
野町跡 
 上川内駅に16時40分に着き、丁度電車が入ったのでこれに乗って川内駅に出る。
 夜、丸目さんと藤井さんという前回と同じメンバーで食事をする。今回も丸目さんには本当に色々とお世話になりありがたかった。途中で何度も電話を入れていただき、的確に助言をしていただいたので、スムーズに歩くことができた。丸目さんは川内市を中心に活動されておられるのだが、川内市内の街道の標識等の充実ぶりにその努力の結果が表れているように思う。三人でおいしい酒を飲み交わしたが、お忙しい中、わざわざ時間を作っていただいてありがたかった。
丸目さん藤井さん

 本日の歩行時間  6時間26分。
 本日の歩数&距離 36138歩、23.8km。