薩摩街道を歩く

2008年06月30日(月) ~2008年11月28日(金)
総歩数:393032歩 総距離:252.6km

2008年11月27日(木)

JR川内~JR上川内~川内御仮屋~市来御仮屋~東市来駅~JR鹿児島中央

                              曇り後雨

 7時1分に上川内駅に着き歩き始める。ようやく明るくなってきた時刻だ。駅を出ると雨が少し降っている。今日の予報では午後から雨ということだったが、朝から降られるとイヤだなと思いながら歩く。
 本庄踏切でJRを横断して進み、最初の角を左折する。ここにも街道の道標が立っている。川内高校があり、ここで旧道は途切れているのでグルッと学校の敷地の外側を回って進み、可愛小学校があるところで右手にこれを見ながら進む。銀杏木川に架かる久礼橋を渡ると、ここにも道標が立っているのでこれに従って進む。
  267号線を横切り、Y字路を右側に進んで、その先の3号線に合流する一つ前の角を左折して進み、その先で左斜めに進むと左手に「伊勢皇大神社」があるように資料はなっているのだが、道を間違えたらしく、正面に神社があった。
 この神社の創建は三重県宇治山田市の伊勢皇大神社を勧請したといわれ、時期は豊臣秀吉の薩摩征伐の頃、天正15年(1587)という説と島津光久が寛文9年(1669)に創建したという説があるそうだ。昭和20年の戦争によって焼失、戦後二回社殿や鳥居が新築されたと説明されているが、説明文が薄れていて読みにくかった。
伊勢皇大神社
 そのまま進むと川内川の土手に出て、そこに「渡瀬口」の案内板が立っていた。それによると、薩摩川内には向田御仮屋と西方御仮屋があり、向田御仮屋に宿泊した一行は御仮屋馬場の川内川岸渡唐口から対岸のこの渡瀬口に川舟で渡り、陸路小倉を目指した。また、この陸路のほかに渡唐口から川舟で川内川河口の京泊に下り、そこで対岸の久見崎軍港で用意した御座船に乗り換えて、長崎、玄界灘、瀬戸内海を経て大坂まで行き、そこから江戸へ向かう海路もあったと説明されている。
 川内川渡瀬口
 ここから右折して太平橋を渡り、すぐに左折して進むとやはり土手の上に渡唐口の案内板が立っていた。このあたりに御仮屋跡があるはずで、何らかの標識があるのではないかと思って探したが、見つからなかった。
 とりあえずここでカウントする。
 8時2分、川内向田御仮屋跡を通る。
 西方御仮屋から5時間12分、27217歩、17.1km。

 このあたりまでくると雨は止んでいた。
左手に光永寺を見ながら進むが、ここの道は直線になっている。
 平佐川に架かる日暮橋を渡るがここにも道標が立っている。すぐ前に「福昌禅寺」がある。ここは現在の鹿児島市池ノ上町にあったお寺で、歴代島津家の菩提寺として藩政時代には広大なお寺だった。しかし明治2年(1869)の廃仏毀釈により廃絶し、その後二度再建が図られたが果たせず、明治31年(1898)になって、称名寺跡である現在地に再建されたと説明されている。 福昌禅寺
 ここには市内最大級の大きな「仁王石像」がある。仁王石像は口を開けた阿形(はく息)、口を閉じた吽形〈〈吸う息)の二体一対で寺門を守るので二王とも呼ばれる。
福昌禅寺石像
 その先、巣山踏切でJRを横断、更に新幹線の高架下を通って進むとここにも道標が立っており、そこから道は二股に分かれているので右斜めに進む。このあたりは的確な場所に道標がきちんと立てられているので非常に助かる。
 この先で更に道が分かれているが、ここでちょっと間違ってしまった。最初に直進する道があり、そのすぐ先、少し左へカーブするところで二股に道が分かれる。後で分かれるほうが旧道で、どちらを行ってもいいようだが、その前の道を直進してしまったのだ。途中で気がついて元に戻り、その先の二股の道の直進するほうを歩いていく。
 左手に「石仏二体と石碑」が立っていたが、説明がなく、また建立年月もなかったので由来は分からなかった。
石仏二体 
 その先で、先ほど左へ分かれた道と合流するが、ここにも道標が立っていた。ここから九州新幹線の高架下を通ってすぐに左折、隈之城川に架かる佛生橋を渡ってすぐに左折、ここにも道標が立っている。その先で木場谷川に架かるふもと橋を渡って進む。その先、同じく木場谷川に架かる坪塚橋まできて、どちらに進んでいいのか分からなくなったので、丸目さんに電話を入れてお尋ねすると、川土手に沿って進んでいくと「坪塚」があると教えていただいた。その言葉に従って坪塚橋を渡らず川土手の道を進むと正面に坪塚公園があり、そこの右端に「坪塚」のいわれを書いた説明板が立っている。それによると大化の改新の詔によって租税収入を目的として全国に班田制が施され、薩摩で班田の割付が始められたのは、延暦19年(800)といわれている。その班田割付のため隈之城田園に条里制による土地区割りをしたことが確認されている。条里制の単位は一辺が六町〈約650m)の方眼区画でこれを36に区割りして「坪」と呼んだ。坪塚はこの坪名が残った場所と説明されている。
坪塚
 このあたりは旧道が失われているということで、公園から階段を下りるとすぐに右折、すぐ先を左折して進む。パチンコ屋があり、駐車場との間を道が通っているのでそれを歩く。その先で細い草道が建物の横に続いているのでこれを歩いていくと3号線に合流した。このあたりからまた雨が降り出し、午前中は降ったりやんだりした。
 川永野町にバスの車庫があり、その先から左へ入る道があるので、これを通ってすぐに右折して旧道を歩き、勝目川に架かる川永野橋を渡って、3号線に合流する。その先で今度は3号線に併行して左側に伸びる旧道に入る。このあたりは旧道と3号線が何度も交叉している。
 JRの鉄橋の下を通っていくと左手に木場茶屋駅がある。その先の堺川に架かる堺橋の手前から車道に併行した幅50cmほどの草道が通っているのでここを歩く。
堺橋旧道
 突き当りを右折して芹ヶ野川に架かる矢張橋を渡り、3号線に合流する。
 芹ヶ野という信号から右斜めにここも僅かの距離だが旧道が伸びている。気持ちのいい道だ。
芹ケ野旧道
 その先、3号線に合流したところ、バイバスの高架下に「北口屋橋」がある。この橋は串木野郷を通る旧街道(出水筋)に架かっている橋で、補修工事がなされているが、椿平橋と並んで市内で最も古い石造りのアーチ橋の一つである。嘉永5年(1852)に肥後(熊本県)の石工岩永三五郎の技術をもとに、金山の川に架けられた五つの橋の一つで、「らんかん」がないのが特徴と説明されている。
 北口屋橋
 芹ヶ野郵便局があり、ここから右斜めに旧道が伸びているのでこれを歩く。右手に旭小学校がある。左手にJRの線路があり、トンネルになっている上を進んでいく。その先で3号線に合流したところに「十里塚の榎」が立っている。
 一里塚の制度は天正年間((1573~1591)織田信長に始まり、薩摩藩では宝永3年(1706)の覚書によれば鹿児島下町札辻を起点として三筋〈出水、大口、高岡筋)の他の領域まで一里塚を設けた。十里塚は札辻から十里の地点にあたる。榎は現在4代目、樹齢約130年と推定されていると説明されている。
十里塚
 この先で「中馬砕石〈株)串木野工場入口」と案内板が出ているところから左折、約20mほど先に右斜めに下る旧道が残されている。ここはその先で舗装されているが、旧道の雰囲気が色濃く残っている道だ。 
中馬砕石標識 
 しばらくこの道を歩いていくと、Y字路があり、ここで迷った。とりあえず左手の少し上っている道を進んだが、間もなく舗装がなくなり、道もなくなっているようなので引き返し、右手下り坂になっている道を進む。結局こちらの道が正しかった。
 旧道分岐
  進んでいくと金山川に架かる薩摩山橋というガードレールでできた橋を渡って3号線に合流する。
薩摩山橋
 その先、薩摩山下のバス停がある少し手前で左折、突き当たりを右折して進む。この先、新しく道ができていてわかりにくく、ちょっと迷ったが、五反田橋を探して歩き、これを渡る。
このあたりまで来ると川内と違って道標が立っておらず、道に迷うことが多い。
 橋を渡ったところに安政3年の「水神」の石碑が立っていた。
水神
 橋を渡って直進すると郵便局跡があるということだったが、どこが跡なのかわからなかった。このあたり工事が行われていてわかりにくかったが、善光院というお寺が地図に記されており、それを目指して進む。
 左側に「善光院」があり、そこから緩やかな坂道を上っていく。善光院 
 ここで失敗をしてしまった。この先、街道から外れたところに南方神社があり、そのあたりが御仮屋跡だったということで、そこへ行くつもりにしていたのだが、道を探すことに一生懸命で忘れてしまっていた。後で整理をしていて気がついたが、もう遅かった。
 このころから雨が本降りになってきた。さすがに寒い。山を越えて進んだのだが、袴田公民館が手持ちの地図に書かれており、とりあえずこれを目指して進んでいく。ところがいくら歩いてもない。おかしいなと思いながら進んでいくとT字路に行き当たった。少なくとも袴田公民館までは直線に近い形で進んでいくはずだ。さぁ、わからない。こうなると自分がどこにいるのかということが分からなくなってしまうから厄介だ。立ち往生しているところに車が通りかかったので、手を上げて道を聞いたところ、なんと袴田公民館は移転しているとのこと。若い女性だったが、てきぱきと道を教えてくれたので、それに従って進んでいった。ところが言われたとおりに歩いていくとJRの線路に突き当たってしまった。地図にはそのような場所はない。こうなると益々分からなくなってしまう。まいったな、と思っているところに、今度はお年寄りの男性の方が軽トラックで通りかかったので、またここでも手を上げて止まっていただき、道を聞くと、この方は薩摩街道のことをご存知だったようで、車でその場所まで案内していただいた。そして戻ったその場所は先ほど女性に道を聞いたT字路だった!結局ここまでは道を間違わずに来ていたのだ。この方は親切にもう少し先まで車で送ってあげようといっていただいたが、歩いているので、ということでお断りをしそこから左折して進む。結局最初に聞いた道とは正反対の方向だった。
 「薩摩焼発祥の地」碑が左手にある。慶長3年(1598)島津義弘、忠恒親子は、文禄、慶長の役後、朝鮮の陶工七十余名を連れて凱旋した。そのうち鹿児島へ行くことを拒んだ男女43名はここ島平に上陸し、この地で焼物をして生活を支えようとした。しかしなかなかうまく行かなかったため5年後〈一説には6年後)安住の地を求めて苗代川(美山)に移住したといわれていると説明されている。
薩摩焼発祥の地 
 雨はいよいよ本降りになってきた。着ている物が濡れて寒い。やはり冬の雨は冷たいな、などと当たり前のことを考えながら歩いてると道が複雑に交差している場所に出て、また道が分からなくなった。先ほどの経験があるので、今度は間違わないようにしようと思っているところに、パトカーが通りかかった。パトカーだったら間違わずに教えてくれるだろうと思って手を上げて止まってもらい、道を聞くとさすがにパトカーだけあって親切に、そして正確に教えていただいた。
 湊川向踏切でJRの線路を横断し、八房川に架かる橋を渡って右手旧道に入る。このあたりも3号線と旧道が何度も交差している。 いちき串木野市市来支所が御仮屋跡だ。
市来支所
 ここでカウントする。
 14時21分、市来御仮屋跡を通る。
川内向田御仮屋から6時間19分、
 30093歩、18.4km。
 その先に「八坂神社」がある。ここは大正6年に建立されてようだ。
 八坂神社
 ここを左折して進む。市来町の信号で車道を横切って進み、その先の湊町の信号で再び車道を横切って進み、次の角から左折して進むが、このあたりも旧道は失われている部分があって明確ではない場所があるようだ。
 市来農芸高前の信号から270号線に入り、大里川に架かる薩摩渡瀬橋を渡って進む。しばらく270号線を歩いた後、杉原のバス停の先、右手にガソリンスタンドのあるところから左折して進む。
 道は田んぼの中を真っ直ぐに伸びている。しばらく歩くとこの道に直角に新しくできたバイバスが交叉しており、ここに信号がある。資料ではこの信号を突っ切って進むようになっていたので、右手にJAの選果場を見ながら歩いていると、丸目さんから状況確認の電話がかかってきた。今歩いている場所を報告すると信号を直進するのではなく、右折して進み、右手山から下ってきた道がバイバスと交差する場所で左折して、その道を進むようにと教えていただいたのでそれに従って進む。
 かなり歩いて坂を上ったところ右手に「中原の治水溝」がある。鹿児島はシラス台地であり、それが度々崩れて住民の生活はもちろん、参勤交代で使用された出水筋にも被害をもたらしたので、嘉永5年(1852)に治水溝を完成させた。治水溝の上には水神碑が立てられ、当時の市来の郷士年寄大久保四郎の名が刻まれているという説明がされていた。
 浄水溝
 更に進んでいくと南九州西回り自動車道という高速道路に突き当たるので、これに沿って右折してしばらく歩くと、右手に東市来総合運動公園があり、そこから左折して跨道橋で高速道路を越え、すぐに右折して進む。
ここから峠を一つ越えて進むのだが、その途中に坂ノ上集落が左手にある。
 その先、大橋を渡って進むと東市来駅に到着する。
 16時50分、東市来駅に到着。ここから鹿児島中央駅までJRででる。
  夜、学生時代のクラブで一緒だった友人と会う。彼は商売が忙しくて中々OB会に出てこれず、3年ぶりの再会だ。大病を患ったが元気そうにしていたので安心した。彼と話をしていて、やはり学生時代の仲間はいいものだという思いを再確認することができた。再会を約して別れる。
岩下と

 本日の歩行時間   9時間49分。
 本日の歩数&距離  49870歩、34.3km。