薩摩街道を歩く

2008年06月30日(月) ~2008年11月28日(金)
総歩数:393032歩 総距離:252.6km

2008年09月24日(水)

新水俣~出水~野田郷

                               晴れ
  朝起きてホテルの窓から外を見ると、東の空に丁度日が昇るところだった。今日もいい天気のようで、暑くなりそうだ。
朝日
 水俣のホテルから新水俣駅まで、今日も都合のいい電車がなかったため、タクシーで移動。7時45分に新水俣駅を出発する。 
 2号線を歩き、左斜めに入る旧道がすぐ先にあるのだが、ついうっかり直進してしまった。すぐに気が付いて引き返したので無駄足はあまり踏まずに済んだが、朝からいきなり間違ったので、気をつけなければと気を引き締める。
 古城3丁目の信号で268号線を横切って進む。左手、少し入ったところに古城郵便局があり、ここを右折したのだが、すぐ先で細い道が右から合流しており、その角に薩摩街道の標柱が立っていた。この細い道が街道なのかなと思ったが、良く分からなかった。しばらく直進し、左手にコープ水光社がある角で左折する。鶴田橋を渡り、その先鶴田踏切で肥薩おれんじ鉄道を渡る。水俣高校を左手に見ながら進み、江南橋を渡るとすぐに右折して川沿いを歩き、最初の細い道を左折してそのまま直進する。
 細い道はそのまま山の中に入っていく。
街道山道 
 最初は道を間違ったかなと思ったが、道は続いているので、そのまま坂道を登っていくと、やがて車道に出た。出たすぐ前に階段がある。これを登るのかなと思ったが、手持ちの地図を見ると少し右手に行くようになっている。標柱も立っていたが、これも右手へ進むようになっている。そのため、車道を右方向へ登っていった。道はグルッと迂回する形で回っており、その先、右手に山王神社の屋根が見える。これはおかしい、もう少し手前で上へ登る道がなければおかしいと思っていると、左手に階段があったので、これを登ってみた。しかし上には小さなお社があり、そこで行き止まりになっている。仕方がないので車道をそのまま歩いていくと、左手に街道の標柱が立っており、そこに下から登ってくる細い道があった。ここに出てくる道が旧道なのだ。道を確かめるため、ここから逆に遡ってみると最初に見た階段にでた。したがって山の中の道から車道に出ると、すぐ前にある階段を登る道が旧道だったのだ。
 街道に戻るとそのすぐ先に、左斜めにいかにも旧道らしい雰囲気の道が続いている。ここには標柱は立っていなかったが、この道を歩いてみると、左手に公徳碑が立っており、ここを陣の坂と説明されていたので旧道に間違いないことを確認する。
 この「公徳碑」は徳富家六代の祖茂十郎貞申が寛政4年(1792)高山彦九郎を案内して陣の坂を登ったところ、大きな岩があり、その上に小さい石が沢山積まれていた。彦九郎がその由来を聞くと、「これは道端のころび石を通る人が一つ一つ拾ってその岩の上に乗せていくので、道に小石が一つもなくなり、女子供まで無事に通ることができるようになった。」と茂十郎が説明した。彦九郎は非常に感激して「本当に田舎はいいところだ。人情の厚いことがこれで分かった」ということを「筑紫日記」に書き、茂十郎もこの時のことを「宮市雑記」に書きのこしている。今でも「ころび石を拾って岩に乗せると足が軽くて坂が楽に登られる」といわれている。この話を伝え残すために公徳碑を建てたと説明されていた。 
公徳碑
 この道は人があまり通らないのだろう、猪が道を掘り返しており、蜘蛛の巣が一杯だ。落ちていた枯れ枝でこれを払いながら進むが、やぶ蚊も多く、ちょっと立ち止まるとワンサカ寄ってくる。さほど長い距離ではなかったが、かなり大変だった。その先で車道と合流する。
 この先Y字路になっているところで右斜めに進むと左手に「侍街道はぜのき館」がある。
 第26代式守伊之助の筆による立派な看板がかかっていた。
このあたりは侍台地と呼ばれており、江戸時代から盛んにはぜの実が栽培され、その実は和ろうそく等に使用されてきた。 はぜのき館 
 現在周辺には約一万本のはぜの実が分布し、日本一のはぜの実の産地になっていると説明されていた。
 この日は残念ながら休館日で閉まっていたが、年代物の「油圧蝋絞機」等が置かれていた。
油圧蝋絞 
 ここからかなり急な下り坂になる。周囲はみかん畑が続く。
右手に大きな薩摩街道の石碑が立っている。このあたりもそうだが、薩摩街道には標識が数多く立っており、歩く上で非常に助かる。
 街道石碑
 肥薩おれんじ鉄道を跨線橋で渡って進むと3号線に合流し、しばらく3号線を歩く。歩道はあるものの車は多く、見るべきものは何もないので、ただただ黙々と歩く。今日も天気が良くとにかく暑い。汗が流れ落ちてくる。
 袋駅へ行く道が右手にあり、その先で右手旧道へ入る。ここは山道で静か、車の騒音を離れてホッとする。
街道旧道
 すぐ先で3号線を横断して旧道は続いている。その旧道の入口に「乙女塚」の標識が立っていたので、それに沿って左手坂を登ってみると、水俣病で亡くなった方々の慰霊碑が立っていた。 ここは砂田明さんという演劇をやっておられた方が、石牟礼道子さんの書かれた「苦海浄土 わが水俣病」を読んで感銘を受け、これを一人芝居にして全国を公演して廻り、そこで得られた浄財をもとにこの塚を建てられたということだ。塚の入口にその方の家があり、ご主人は既に亡くなられていたが、奥さんが塚守をされておられ、お話をお聞きした。
乙女塚
 街道に戻って進むと熊本県と鹿児島県の県境となる小川が流れている。ここには警備の関係から橋は架けられていなかったが、明治16年に石造りの太鼓橋が架けられた。この橋は肥後石工の卓絶した技術が今に伝えられていると説明されていた。
 境橋
 この先突き当たったところに「笹原茶屋跡」の碑が立っていたが、遺構はなにも残っていなかった。
 笹原茶屋跡
 ここから右折し、肥薩おれんじ鉄道のガードをくぐって3号線に合流する。
 しばらく3号線を歩き前田の信号で右折して大きく廻りこみ、肥薩おれんじ鉄道と3号線を跨ぐ跨道橋を渡って進む。
 ここから旧道を進む。きれいに舗装された道だが、すぐ横を3号線が通っているので車の通行量は少なく、歩きやすい。ここにも道に面してみかん畑があり、所々にみかんの無人販売所があって、みかんを置いている。一袋300円から500円程度だ。買いたかったが、かなりの量があるので荷物になるためあきらめた。ただ横にざるに盛ったみかんが数個置いてあったので、試食用だろうと自分で勝手に解釈して、一個取って食べた。暑い中歩いてきたので、とてもおいしかった。
 左手に関外公民館があり、その先で道はY字路になっている。ここを右に進むと「有村雄助首実検の地」碑が立っている。有村雄助・治左衛門兄弟は万延元年(1860)水戸藩の志士らとともに桜田門外の変に加わった。弟治左衛門は襲撃の際、深手を受け自刃した。兄雄助は襲撃には加わらず、連絡係りとして襲撃成功を伝えるため、京都に向かったが、途中四日市で捕らえられ、鹿児島に護送された。鹿児島では盟友一同が雄助の助命を願ったが、許されず切腹した。野間之関外のこの地で雄助の首を幕府役人に引き渡したと伝えられている。
 有村雄助首実検
 その先、左手に「野間之関跡」がある。この地は薩摩藩と肥後藩の国境の要地であったため、関が原の戦(1600)前後に野間之関が設けられた。藩政時代の領外への主要陸路は出水、大口、高岡の三筋で、中でも出水筋は最も重要視されており、島津藩から派遣された出水の地頭は代々国境の警備が重要な任務だったと説明されていた。 
 野間之関跡
  この先、米ノ津東という十字路で(何も標識はない)左折し、そのすぐ先で右折して進むと左手少し入ったところに「加紫久利神社」がある。ここは2000年の歴史があるといわれ、貞観2年(860)には薩摩国従五位下加紫久利神加従五位上と三代実録に載せられている。延喜式に載っている式内社で、薩摩二の宮として崇拝されている。社殿は修理、再建を繰り返し、昭和36年に現在の社殿が創建されたと説明されている。境内には江戸時代の相撲取り出水川が奉納したという石燈ろうが並んでいた。なぜかここでは社殿の写真は撮っておらず、この石燈ろうの写真しか撮っていないのでこれを掲載しておきます。このように後で整理をしていると何故?と思うようなことがかなりあります。ご容赦ください。
加紫久利神社石燈ろう
 神社を出て鳥居の前の道を直進し、肥薩おれんじ鉄道の踏切を越えると道の両側に「石像」が立っている。台座を見ると加紫久利神社再興記念と書かれているが、年月は解読できなかった。
 加紫久利神社石像
 その先を左折するのだが、その前に店があったので、ここでパンを買ってようやく昼食にありつけた。このあたりは食堂やコンビニがないのだ。もっとも今朝はホテルでバイキングだったので、腹一杯、たらふく食べていたのでここまで空腹感はなかった。
 この先、道なりに進むと高柳橋があり、これを渡って進む。左手に薩摩街道の標柱が立っており、その向うには九州新幹線が見える。周囲は田んぼでなにもない中を真っ直ぐに歩いていく。やがて市街地に入り、左手に出水駅が見えてくるところで右折、そのすぐ先の出水駅前という信号で左折、447号線を進む。
 広瀬橋を渡って進むが、左手入ったところに「武家屋敷群」がある。案内板によると薩摩藩は領内各地に外城と呼ばれる行政区画を設け、その中心地を麓と呼んで統治していた。出水も外城の一つで麓は平良川左岸の「向江」と現在「重要伝統的建造物群保存地区」になっている「高屋敷」の両武家地、そして間に挟まれた町人町(本町、中町、紺屋町)からなっていた。 「出水市出水麓伝統的建造物群保存地区」は市のほぼ中央に位置し、約400年前から30年ほどの歳月をかけ、米ノ津川の川石で石垣を築くなどして整備された。建設当時から改変されることが少なかったので、現在も当時の雰囲気を色濃く残していると書かれていた。萩に行ったことがあるが、雰囲気が似ている。 出水武家屋敷
 武家屋敷群の一番奥に「竹添家と武宮家」があり、一般に公開されている。テレビドラマの篤姫のロケにも使われたそうで、昔のままの武家屋敷がそこにはあった。
 出水竹添家 
 この前に出水小学校があるが、ここが御仮屋跡だ。
出水御仮屋
 ここでカウントする。
 14時41分 出水宿を通る。
 佐敷宿から12時間51分、67491歩、41.2km。
 資料によると水俣あたりに陳町という御仮屋があったようだが、どうしてもその場所が分からなかったため、除外しています。ただ、佐敷、出水間は余りにも距離がありすぎるので、おそらくその間に何がしかの宿場があったと思われます。
 ここから街道に戻り、向江町の信号から左折して504号線を歩く。ここから野田郷まではほぼ直線だ。
  街道右手に「三百塚」がある。
 文禄2年(1593)島津家第7代忠辰の遺骨を守って朝鮮出兵から帰国した出水の将士たちは、既に天領となった出水5万石を目の当たりにし、愕然とした。戦争時の不首尾のため、秀吉の怒りをかった出水の地には、彼らの帰る場所はなく、主君忠辰の遺骨を丁重に葬った後、その近くで主君の後を追うように切腹して殉死した。多数の殉死者があったため、この地を「三百塚」と呼ぶようになったと説明されている。
三百塚
 野田川に架かる野田橋を渡ってすぐ、左手の川沿いに旧道があるのでこれを歩き、道なりに右折して進むと504号線に合流する。その先で今日の予定地である野田郷駅前の信号のところまで来たので、今日はここまでとし、ここから右折して野田郷駅に向かう。
 今日の宿は高尾野駅の前にある。野田郷駅の近くには宿がないのだ。従って野田郷駅から一つ戻らなければならないのだが、ここでも30分以上待たなければ電車がない。仕方がないのでタクシーで高尾野駅前の静香旅館まで戻る。
17時10分、旅館に着く。
この旅館の女将さんはなかなかいい方で、歩いていることを話すといくつかの資料を持ってきてくれ、色々と話を聞かせていただいた。その中に今年の鶴の飛来数を当てるはがきがあった。出水は鶴の飛来で有名なところだ。ただ見当がつかないので「これは分からないなぁ、当たらないだろうなぁ」というと「出さなければ当たりませんよ」といわれてしまった。たしかにその通りだ。何事も挑戦しなければ結果は出ない。そう思いなおして、エイヤ!で数字を書いて提出した。さて、結果やいかに。。。
期待せずに待つことにしよう。

本日の歩行時間  9時間11分。
本日の歩数&距離 49270歩、32.2km。